今年の日帰り旅のテーマ”埼玉の城跡巡り”の、忍城(行田市)に続く第二弾として、
寄居町にある鉢形城を訪れた。
ここは関東管領上杉氏の家宰・長尾景信の嫡子・景春がこの城で下克上の乱を起こした
まさに関東戦国の幕開けの城。
その後は小田原北条の氏邦(氏康四男)が居城し、北条氏の北関東進出の拠点となった。
だが、戦国時代を終わらせる、秀吉の小田原征伐の折り、前田・上杉ら5万の兵に囲まれ、やむなく開城した。
現在は、曲輪や堀の跡が残るだけだが、歴史資料館が域内にあり、公園として整備されている。
秩父の山から関東平野への境目である寄居は、南関東の大河川・荒川が横切り、
それに沿った地元私鉄の秩父鉄道が横に、JR八高線が縦に貫き、
そして都心につながる大手私鉄の東武線が終点として斜めに入り込む交通の要所。
私は当然、池袋から東武線で行ったが(小川町乗換)、
ディーゼルでボックスシートの八高線はローカル線の風情があるし、秩父鉄道にはなんとSLが走っていた。
次回はぜひ八高線の旅をしたい。
さて、寄居駅に降り立ち、城跡のある南の丘に向って進む。
荒川にかかる橋を渡ると、そこから広大な城跡の敷地が始まるのだが、
正午の合図が鳴った丁度そこにそば屋があったので、地元の蕎麦を賞味
(山里の風情を味わいたいので「きのこそば」)。
まずは城主の館があったという伝御殿曲輪。
高台に立つと、眼下には”玉淀”といわれる荒川の流れ。
寄居の町がある正面は西の秩父から続いた山が尽きる鐘撞堂山。
東北方面には遠く雪の残る男体・女峰の日光連山が連なっている。
歴史館に行く途中には、エドヒガン桜の大木があり、まだ三分咲き程度だが、
でかいので見映えがして、すでにたくさんのカメラのシャッターを浴びていた(写真)。
歴史館では城の復元模型と3DCGの城内バーチャルツアーを楽しんだ。
二の曲輪から秩父曲輪にかけては公園状となっていて、
秩父曲輪には門と簡素な館が復元されている(写真)。
山の上でありながら広大な鉢形城は、武家屋敷も含んでいて、生活空間でもあったわけで、
これでは籠城もしやすいわけだ(城内に川が流れているので、水に不自由しない)。
城跡だけだと物足りないので、氏邦夫妻の墓があるという正龍寺まで足を伸ばす。
途中、玉淀に降り立ち、対岸の岸壁の上にある城跡を見上げる。
正龍寺は曹洞宗の大寺で、墓地の最上段に氏邦夫妻と、義理の両親である藤田康邦夫妻の墓(宝篋印塔が四基)がある。
ここからは鉢形城の丘の奥に外秩父の連山が見える。
寺の東、ちょっと行った所に、氏邦の妻で藤田康邦の娘である大福(おふく)御前の慰霊碑がある。
畑の中のその地に行くと、「大福御前自刃の地」と彫られた大きな自然石の碑があり(写真)、横の石に由来記が彫ってある。
それによると、
五万の秀吉軍に囲まれた鉢形城主北条氏邦の妻大福御前には弟がいて、
その藤田信吉は、皮肉なことに攻撃側の上杉景勝の先鋒であった。
御前は彼を頼りに和睦開城にこぎつけ、数千の家臣の命を救った。
その後、御前はここ正龍寺に薙髪した。
そして千日普門品千部満願の日、庵内で自刃したという。
それから四百年後、御前に命を救われた家臣の子孫たちが、資金を出しあって彼女の慰霊碑を建てたのである。
戦国大名北条氏とはいえ、その分家・支城にすぎないが、しっかりとここに独自の歴史が刻まれているのだ。
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