1人の命を救うために、別の1人が死ぬ。
確かに称賛されるべき英雄的行為で、私も感動する1人だが、
その一方で何かむなしい、やるせない気持ちがある。
人の命は対等として、失った命と失わずに済んだ命が等しく1であり、合計0となるからだろう。
すなわち、そこで”何もしなかった”場合と、合計は同じだから、
したことの意味が消失してしまうのだ。
一緒にいた彼女の父は「間に合わないから行くな」と言った。
多くの人は、「自分だったら何もできない」と言うだろう。
でも、それらに後ろめたさを感じる必要はない。
救急救命の原則として、救命をする側の安全確保が、救命行為よりも優先される。
二重遭難のおそれがあるとき、遭難者の捜索は打ち切られる
(捜索していれば救出できるのに、という思いを残して)。
冷徹だが合理的な人命の経済原理でいえば、失う命は少ないほどよい。
さらにいえば、人命は常に等価といわけではなく、生存率・余命確率の高い命が優先される。
災害医療での「トリアージ」(治療対象の選別)とはそういう措置だ。
親が命を賭してわが子を救おうとするのもこの原理である。
さらに生物的経済原理でいえば、子孫を残しうる命ほど救う価値がある。
自ら死のうとした老人男性と、若いとはいえないが、また子孫を残しうる能力に限界はきていそうだが、まだまだ元気に生きながらえる女性。
この二人の違いを思わず”計算”してしまうのも、むなしい気分にさせる理由だ。
タテマエ倫理的に素直に称賛する気になれないのも、
究極の判断としての経済倫理学的思考が私にあるからかもしれない。