博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『項羽と劉邦の時代』

2006年09月24日 | 中国学書籍
藤田勝久『項羽と劉邦の時代』(講談社選書メチエ、2006年9月)

里耶秦簡・張家山漢簡など近年発見された出土資料と『史記』の記述をもとに秦の成立から楚漢戦争、漢王朝の成立に至るまでの流れを見ていこうという主旨の本です。

ここ2、3年、鶴間和幸氏の『中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産』など一連の書、堀敏一『漢の劉邦 ものがたり漢帝国成立史』、佐竹靖彦『劉邦』など類似のコンセプトの本が陸続と刊行されていますが、鶴間氏の著書が秦や始皇帝に関する話題にメインを置き、堀氏の著書が『史記』の記述をベースとして劉邦の生涯や漢帝国成立の流れをたどり、注釈的に出土資料やこれまでの研究状況を引用するという形を取っているのに対し、(佐竹氏の著者は未読につきノーコメント。)本書は秦・漢・楚のいずれかの勢力に重点を置くことはせず、楚漢戦争の時代を楚の制度を継承した項羽の勢力と、当初楚の制度に則りながらも後に秦の制度を復活させていった劉邦の勢力との対立の時代と位置づけて描き出しています。

以下、本書で面白かったポイント。

○出土文物から判断すると、懐王の時代は楚の衰退期ではなく、むしろ広大な領地を誇り、行政機構の整った全盛期に近い状態であった。

……となると、項梁らによって立てられた懐王の孫が懐王と称したのも、悲運の王を継ぐという意味合いのほかに楚の盛期を再現するといった意味合いが含まれていたことになりますね。

○秦の滅亡以前の段階では、劉邦は項羽と天下を争う存在と見なされていなかったはずで、鴻門の会で劉邦が危うく誅殺されかけたのは、劉邦が項羽のライバルと見なされたからではなく、あくまで彼が戦功を焦って函谷関を閉鎖したことに対して項羽側が処罰しようとしたためであった。また、「関中を制した者が関中の王となる」という懐王の約定や、劉邦が秦王子嬰を降伏させた話、秦人に「法三章」を約束した話の史実性も疑問である。

○劉邦が漢中王に分封されたのは范増らの策略による不当な処置ではなく、十八王の分封全体から検討すると妥当な処置であったと思われる。漢中・巴蜀の地は、戦国時代に楚文化の影響を受けながら、最も早く秦に領有されたという微妙な土地柄であった。

○楚漢戦争後、東方を掌握していた韓信が楚王から淮陰侯に降格されるまで天下の動向が定まらず、功臣たちへの論功行賞が行えなかった。

……こうしてポイントを挙げてみると、出土資料云々より『史記』の解釈に関わるものの方が多いですね(^^;) 
コメント (3)
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