今話題のメル・ギブソン監督「ハクソー・リッジ」を見た。あの町山智浩が「プライベート・ライアンを超えている」と表現したほどの衝撃的なシーンが満載の戦争映画だ。
確かに、衝撃的かつ残虐極まりない映像のオンパレードだ。戦争で人が死ぬというのは、実際にこういうことなのだろう。決してきれいごとではない、というのがよく分かる。
あのように死ぬことがほぼ確実視されるような戦場に自ら出向いて生き抜いた主人公、デズモンド・ドスは、信念のすごい人なんだろうけど、運の良さにもすごいものがあった、と思わせる。
しかし日本兵にせよ、アメリカ兵にせよ、あのように狂ったとしか思えない戦いをやれるということは、本当にどこか狂っていないとできないんだろうなあ、と感じた。とても正気を保てるような場ではない。映画の前半部分でも描かれていたが、新兵を集めてまずやることは、とにかく洗脳することなのだろう。これは、日米どちらでも同じことだったと思われる。戦争で前線に送られるというのは、普通に社会生活を送っている理性的、合理的な精神ではまず無理だ。まずは洗脳して、上官の命令にはたとえ死んでも服従させるようにしないことには、話にならないのだろう。
それにしても、この映画の感想には「主人公の信念に感動した」という声も多いが、私にはひどく偽善的に思える。この映画が表現したかったのは、どう考えても戦争の残虐シーンの方だろう。観客の多くも、最も楽しんでいたのは、そうした映像の方ではなかったか。「うわっ、ひどすぎる! 残酷だ」と感じることだって、感動の一種だ。そういうシーンを楽しみながら、「デズモンド・ドスの精神に感動した」とかいうのは、いかにも胡散臭い。
実際のドスにしても、よく理解できない人だ。「人を殺してはいけない」という教えを守るのであれば、普通に考えた場合「自分も戦争に協力する」という判断にはならないはずなのだが。自分の手は下さなかっただけで、他の兵隊に日本兵を殺してもらっていただけじゃないのか? 彼はこれで、神様が満足すると思っていたのだろうか? 宗教というのはよく分からん。
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