8.県税事務所(23~25歳)
社会人となって最初の1年目は、気苦労や緊張などでずいぶん大変だと感じていた。今にして思えば、この当時の仕事はずいぶんと簡単なものだったが、当時の私にとっては難しく、骨の折れるものだった。すぐ隣に座っていた1年先輩の職員(歳は同じ)と人間関係構築に失敗したことにより、余計な心労ばかりを重ねることになったのは、我ながら不手際だった。
1年目は気苦労と、仕事に対する不安ばかりであったが、自分で本を買って税の勉強などを重ねたこともあり、2年目に入るとほぼ完全に仕事の要領を覚えることができた。3年目になると、後輩職員にかなり細かいことまで指導できるようにもなった。この時期は、社会人としての基礎を身につけることができた、という意味で貴重であった。
プライベートでは海外旅行に行くことが多かった。韓国、アメリカ、中国などに初めて行くことができ、これも貴重な経験であった。夏に1週間かけて旅行したアメリカ中西部は、現在でも最高の思い出の一つだ。私が韓国への強い興味を持ち始め、ハングルの読み方まで覚えたのもこの時期だった。この当時の韓国といえばまだ発展途上国のようなもので、大衆文化の発展もまだまだであったが、この時に日本デビューしていた韓国の女性歌手が私にとって興味のきっかけとなった。
9.県庁(26~27歳)
岐阜市へ異動となり、初めて一人暮らしを体験することになった。仕事は激しくつまらなかったが、私生活は初めての一人暮らしで、すごく楽しかった。初購入した自分のパソコン(30万円!)に、初めてインターネット接続してみたのは、26歳の夏だった。携帯電話を初めて購入したのもこの年であり、私にとって「IT元年」だったといえる。それまで私は自分で機械類が苦手だと思ってきたのだが、これほどパソコンにはまるとは思わなかった。
とにかく、ネットは私の生活をそれ以前とは大きく一変させた。まさに私が求めていたものとぴったり一致するツールだったのである。おかげでPCの操作にもずいぶん慣れた。ネットがなければこんなことはなかっただろう。
旅行にも数多く行った。同期の友人らとIMF不況下の韓国へ遊びに行って、日本語を操る二人組の韓国人に見事にだまされ、怪しいカラオケバーでぼったくられたのも、今となっては良い思い出である。大学時代の友人らと京都へ行ったり東京へ行ったり熱海へ行ったりもした。この時は、とにかく友達付き合いで遊びに行くことが多い時期だった。
10.土木事務所(28~30歳)
道路建設にかかる用地買収が担当であったため、仕事はハードであった。この頃は今と違って公共事業費がアホのように大きかったのである。そして、付けられた予算(用地補償費)は年度内に必ず消化しなければならない、という点も現在とは違っていた。上司も信じがたいほど無能であったため、ずいぶん苦労した。しかしそのことが、かえって自分の事務遂行能力を高める結果になったと思う。
土木事務所は、ほぼ男だけの世界であり、技術系の職員が多数を占めており、事務系の職場とは明らかに雰囲気が違っていた。今思えばかなりざっくばらんな世界であり、懐かしくも思う。かといって戻りたいともあまり思わないが。
東濃地域の職場だったので、住居は再び実家に戻っていた。韓国にはますますハマるようになり、この時期だけで3回は韓国に行った。新沙洞(シンサドン)のカフェでカン・スジ(歌手)のファン・ミーティングに日本代表で参加したことや、日韓ワールドカップの開催中に漢江の花火大会に行き、大勢の韓国人らと付き合って「テハンミグク」コールをやったこと、などが特に印象深い思い出だ。