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13.病院(36~37歳)
異動先が病院というのも予想外だった。私は病院の医療相談室というところに配属された。いわゆる「医療ソーシャル・ワーカー」をやることになったのである。私は医療についてはまったくの門外漢だが、前回の「福祉」とは密接な関係のある業務ではあった。
ここでは、患者やその家族に対し、高額療養費制度など公的な制度についての説明をしたり、長期入院となっている患者に別の医療機関への転院を促したり、といったことが主な仕事であった。特に転院先を確保することは難しく、医療のこともほとんど知らない状態だったので、かなり苦労した。
2年目はなぜか医療相談室を出て、医事課に配属された。病院が関わる対外的な事務を処理する所だ。私が担当したのはいわゆる「雑務」としか言いようがない雑多な事務処理のみで、極めてつまらないものだった。同僚との人間関係には恵まれたので、その点では良かったのだが。
病院での仕事は、尊大な医者や性格のきつい看護師とも付き合っていかねばならず、ずいぶんと不愉快な思いもした。しかし、仕事を通してかなり勉強になったことも事実である。これからの日本にとって最重要な課題といえる「医療」の世界を内側から見ることができたのは、実に幸運だった。これからの職員生活においては福祉が担当業務のメインとなる可能性があるが、病院での2年間の勤務は確実に役立つと思う。
プライベートでは、まさに「黄金期」であった。何といっても、娘が生まれた、ということが大きい。私も父親になれたのである。それに加え、その年のうちに土地を購入し、次の年には自分の家まで持つことができたのだ。しかも、あこがれの書斎付きだ。この当時はいろいろとバタバタしたような気がするが、こうして客観的に見てみると、信じがたいほどの幸運である。
14.福祉課(38歳~現在)
珍しく、私の希望通りの異動であった。こんなことは初めてである。あれほどつらい思いをした福祉課の仕事を、なぜまた希望したのだろうか。自分でもよく分からないが、福祉の仕事そのものは嫌いではなかった、ということだ。
同じ福祉課でも、5年前の状況とはまったく違い、残業を繰り返すようなことはなくなった。夕食を妻子とともに食べられるようになったことは、幸いであった。仕事内容も悪くないので、可能ならばここには長くいたい。ちなみに業務内容は、介護保険事業所や社会福祉施設に対する指導、介護保険事業所からの各種申請書類の受付・審査、といったところがメインである。突き詰めれば相当な知識量を要する仕事ではある。
2年目はなぜか恵那に「駐在」という形で勤務することになった。他事務所の中で机を間借りしているような状態である。こんな勤務形態は初めてだが、直属の上司が目に付くところにいないので、ある意味、気楽とはいえる。その分、責任はやや重いが。
プライベートでは、それほど大きな変化はなかった。しいて挙げれば、娘が言葉を覚えて家ではしゃべり通しになったこと、弟が結婚し、子ども(私にとって初の姪)が生まれたこと、娘が幼稚園に通い出したこと、家族で東京ディズニーランドに行ったこと、スマートフォンやプリウスを購入したこと、ぐらいか。
基本的には楽しく過ごしているが、子どもがまだ小さいということもあり、この間はまったく海外旅行に行けていない、ということがやや残念ではある。私のパスポートも、有効期限が切れてから2年以上が経過している。若いころでは考えられなかったことだ。