http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060805ig90.htm
なぜ原爆の惨禍を避けられなかったのか。
広島、長崎の被爆から61年。もう、かつての保革のイデオロギーや政治的対立などに左右されることなく、原爆にかかわる戦争責任について、冷静に議論を始めていいころではないか。
先の大戦時の交戦条約は、不必要な苦痛を与える兵器や無防備都市への攻撃を禁じていた。原爆投下は、条約に違反する可能性がある、と指摘されている。
オランダ・ハーグの国際司法裁判所が核使用について、「一般的に国際法に違反する」とした勧告的意見を示して、今年でちょうど10年になる。
こうした背景から、被爆地にも、原爆投下の経緯と責任を問い直そうという動きが出ている。
(以下略)
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広島に原爆が投下されて、今日で61年目だ。今年も広島で平和記念式典が開催された。上は、それに対する読売新聞の社説である。
「原爆にかかわる戦争責任について、冷静に議論を始めていいころではないか」という主旨には私も賛成する。犠牲者達への感傷的な思いだけでは、何も解決していかないからだ。そして「平和市長会議」なんてのが非現実的であることも、その通りだ。
しかし、「北朝鮮の暴走に憤りのメッセージを発することは、被爆地がなすべき務めでもあるのではないか」という辺りは、少し疑問である。もちろん北朝鮮の核開発は大いに批判すべきだが、それ以前に批判すべき国ならいくらでもあるんじゃないのか。日本を標的とした核兵器を持つ国といえば、中国やロシアもある。この社説では中国とロシアに言及していないのはなぜだろうか。北朝鮮は本当に核をミサイルで飛ばせるだけの技術があるのか疑わしいが、この両国にはある。すぐに北朝鮮を出せばいいと思ってるあたりが、いかにも時流に乗っている。
原爆ということであれば当然最も批判されるべきなのが、アメリカである。なのにこの社説は、アメリカに対してはやけに寛容だ。親米的な私でさえ、疑問に思うほどである。「早期に戦争終結が出来たら原爆投下を避けられた可能性はあった。」なんて言ってるが、そんなわけない。ソ連に対して優位に立つため、原爆投下はアメリカの決定事項であった、と考えるのが自然だ。そしてこの原爆投下は、明らかに人道に対する罪であり、トルーマンは重大な戦争犯罪人である。