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岐路に立つ中国 超大国を待つ7つの壁

2012年12月13日 22時37分13秒 | 

岐路に立つ中国―超大国を待つ7つの壁



 元・通産省官僚の津上俊哉氏の書いた「岐路に立つ中国 超大国を待つ7つの壁」を読んだ。さすが中国の専門家だけあって、非常にためになった。しかし私が最も感心したのが、最後のページにある「結び」の言葉だ。本当に良いことが書いてある。かなり長いが、以下に引用する。もうすぐに総選挙が始まるので、是非それまでに読んでもらえれば、と思う。


・・(略)・・しかし、目線を変えてみれば、この間、圧政が敷かれてきた訳ではなく、国民はずっと主権者であり続けてきた。愚かと思う政治家には選挙で投票しなければよい。「マスコミも、そうだとは教えてくれなかった」…。そんな言い訳を聞けば、常に「公式報道」のウラを読んで、真相は何か、自分で考えるのが習慣になっている中国人は腹を抱えて笑うだろう。伝えるべき事を伝えない、愚かなことを書き報ずるなら、そんな新聞はとらず、テレビはつけなければよい。誰も消費者にその選択を禁じた訳ではなかった。
 持続不可能な年金制度が横たわるせいで、高齢者と若者の生涯収入には、途方もない格差が生じている。「そんな社会的不公正から利得して、高齢者は恥というものを知らないのか!」。そんな若者の不満が充満しているが、大多数の高齢者は自分が死んだときに遺産を少しでも多く子や孫に遺すために、年金収入を中心につましく暮らしている。「自分で浪費する訳ではない」という心づもりがあるから、彼らは恥じない。
 それはそれで一つの「立場」だが、そこに見て取れるのは、「もらえるものはもらっておけ」「それで国の財政がどうなっても構わない」とまでは言わないにしても、万事を自分や家族の私的な利益に立って考える姿勢である。国や地域を含めた「公共、公ごと」への責任感は消えてなくなっている。これでは国は立ちゆかない。
 政治もマスコミもそんな国民への迎合が過ぎる。しかし、迎合を迎合ととらずに「乗せられて」しまうのは、けっきょく国民が悪いのである。国民が国の将来や地域のことを含めた「公共、公ごと」といったものを「我が身のこと」として考えてこなかったツケは、けっきょく国民が払うのである。「国民は自分たち(のレベル)以上の政府を持てない」という警句がずしりと響いてくる。
 「日本の政治にはリーダーシップが欠如している」と言われて久しい。そんなことはないと言うつもりはないが、もっとダメなのは国民の側の「フォロワーシップ」だろう。世の中には「あちら立てればこちら立たず」で、解決策のない難題がいくらでもある。マスコミはそういう難題を解決できない政治家を「無策無能」と批判し、国民もテレビの受け売りで「ダメな政治家」を嘆く。そこまで言うなら、自分で解決して見せてほしいものだ。
 「それはお偉いさんの仕事でしょ?」その姿勢が問題なのだ。「主権者は自分たち国民で、政治家は自分たちが選んだ代表」だ。我々凡俗の代表である政治家が快刀乱麻で問題を解決して見せるスーパーマンであるはずはない。「誰が取り紺んでも難しい問題がある」ことを忘れた政治・政治家批判は身勝手で無責任である。そんなマスコミや国民を相手にする日本の政治家は、ときとして気の毒だとさえ思う。
 過去数代の内閣は、自民党、民主党政権を問わず、ほぼ例外なくマスコミが繰り返す「支持率調査」で退陣に追い込まれてきた。政権が「落ち目」になると、さらなる支持率下落を「催促」するような調査結果を頻繁に公表するマスコミを見ていると、投機の「カラ売り」とそつくりだと感ずる。
 政権に不手際があれば批判すべきだが、自国の政権が漂流し、政治が混迷することで傷つくのは国民の利益だ。どこかに、批判と「自分たちの代表なのだから支える」ことの均衡点があるべきだと思うが、支持率調査は「一ケタに落ち込む」のが待ち遠しい風に繰り返される。
「マスコミは権力を監視する社会の木鐸」…。私はそんなセリフを額面どおり信じることができない。「カラ売り」式の支持率調査がここまで横行するようになったのは、政権にマスコミを恐れさせ、マスコミの意向を通す力を高めたい私的な思惑があるからではないのか。・・(略)・・