1596年12月豊臣秀吉は禁教令を公布、京都に住むキリスト教徒の長崎での処刑を命じました。耳をそがれ長崎へ連行、その中には12歳の少年もいました。まだ子供である事から棄教すれば助けると伝えたが、「神に命を奉げる」と信念を貫いたと言う話です。彼らの一途な強い意志は何処から来たのか…。26聖人のブロンズ像の下には”人若し我に従はんと欲せば己を捨て十字架をとりて我に従うべし”と書かれていました。それにしても人間は何と多くのあやまちを犯してきた事でしょう。
正式には日本二十六聖殉教者天主堂と言います。殉教地の西坂の聖地に向けて1865年フランス人のプチジャン神父が建てました。すると隠れ切支丹数名が天主堂を訪れ神父に切支丹である事を打明けたました。このドラマティックな事件は世界に伝えられローマ教皇は大変喜び、プチジャン神父の故郷フランスからは天主堂の入り口にあるマリア像が贈られたと言うのです。
ゴシック様式のレンガ造りです。表面は漆喰を塗り白く仕立ててあります。ゴシック様式はその塔を上へ上へと伸ばす事によって”神と共にいます”という気持ちを強めたと聞いています。石段の下から眺めた天主堂はクリスチャンでなくてもそんな気持ちにさせてくれます。1933年国宝に。
ゴシック様式のレンガ造りです。表面は漆喰を塗り白く仕立ててあります。ゴシック様式はその塔を上へ上へと伸ばす事によって”神と共にいます”という気持ちを強めたと聞いています。石段の下から眺めた天主堂はクリスチャンでなくてもそんな気持ちにさせてくれます。1933年国宝に。
外側はロマネスク様式、内部はゴシック調と言われています。こうもり天井と言われるリブ・ヴォールトが美しい。華美な装飾がないだけにこの天井が映えます。日本の教会建築、底に流れる確固たるものが伝わって来ます。
遠藤周作の「沈黙」の舞台になった黒崎教会です。キリスト教が外海に布教されたのは1571年、この辺り一帯はかくれ切支丹が最も多く住む里でした。この黒崎教会が建設されたのは1920年、信徒一人一人が奉仕と犠牲のもとに積み上げたと言うロマネスク様式のレンガ造りです。フランスの田舎にあるような瀟洒な教会、これもド・ロ神父の指導により建設が計画されたのです。
祭壇はとても質素ですが、何か温かみのある堂内です。近辺の気象状況を鑑みて設計された教会ですが、低い平天井なるが故に人々が入り口に立った時奥行きの深い会堂の視線を祭壇に集中する事が出来ると言うのです。今までどこの教会を訪ねてもまず入り口で天井を仰ぎ見ていたものですが…。
ド・ロ神父は建築の分野でも、鉄川与助と言う大工棟梁に聖堂建築の手ほどきをし、数々の教会を建てて行きました。この出津(しづ)教会は明治15年に建てられド・ロ神父の設計施工による外海町最初の教会だと言う事です。白と黒の瓦葺屋根が美しくかつ力強く感じます。この辺りは風が強いため平天井にし、とてもシンプルにしたらしいのです。
19世紀、貴族である身分を捨て遥か東方の見知らぬ国へ生涯を神に捧げるべく旅立つ息子のため、母と妹が刺繍をしたド・ロ神父の聖衣です。一針、一針に込められた二人の思いが胸に迫ります。彼が人々から敬愛され慈愛に満ちていた事、母親に届いたでしょうか。一度も帰郷することなく生涯を終えました。神父の墓碑には「わが選べる者の労や空しからず」と刻まれているそうです。
外海で今もド・ロさまと言って慕われているマルコ・マリ・ド・ロ神父はフランスのノルマンディー地方の裕福な貴族の出身です。1868年禁教の日本へ布教のためにやってきました。しかし外海の人々の貧しさに驚き布教と同時に農業や漁業を推進し、救護院ではパン、そうめん、マカロニ作りを教え、メリヤス編み機で衣類を作る事などいろいろな技術を伝授したそうです。外海町の”道の駅”には「ド・ロさまそうめん」が売られています。。彼は74歳で亡くなるまで貧しい生活を強いられている人々の魂と肉体を救うため力を尽くしたのです。
遠藤周作文学館の上の丘に”沈黙の碑”はあります。この丘から見下ろせる松林の海岸がロドリコ司祭の同僚、ガルベの殉教の地としてイメージできると言うことで此処に碑が建てられたそうです。”人間はこんなに悲しいのに主よ海があまりにも碧いのです”海岸線を眺めていると「沈黙」がノン・フィクションに思われてきます。