旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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そう、あのさんしんですよ

2007-03-15 10:08:47 | ノンジャンル
★連載 NO.280

 「おかあさん。ぼくのあの帽子、どうしたのでせうね? ええ、夏礁氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落とした あの麦藁帽子ですよ」
 西条八十の詩をキーワードに、敗戦国の社会と日本人の悲劇を描いた森村誠一の小説「人間の証明」は、アメリカの統治下におかれた沖縄の昭和20年代と重ね合わせて、身を震わせながら読んだ。

 なくしたもの。
 沖縄芝居の女優北島角子の場合のそれは、むぎわら帽子ではなく、さんしんであった。
 戦時中、彼女たち一家は、南洋諸島のパラオで過ごしている。父・上間昌成を中心に家族4名。
 奇跡的に戦争の犠牲になることなく、昭和21年無事、ふるさと沖縄の地を踏むことができた。引き揚げは、米軍の輸送船。船中では、ネービーたちの厳重な監視下に置かれていたが、パラオを出港して1日もすると引揚者、殊に沖縄人たちには輸送船の向かう先に、もうふるさとが見えていた。
「命、儲きたん=ぬち もうきたん。直訳。命を儲かった。生き延びた。命拾いの意」
 このことは、大いなる希望につながって、歌をうたう(気)を高めた。役者であり、劇作家の上間昌成は、いち早くその(気)に気づき、先祖のイーフェー<位牌>と共に、片時も放さなかったさんしんを取り出して弾き、歌いだした。「浜千鳥節」「貫花」などなど。はじめは、上間昌成の独唱であったが、ふたり、5人、7人と加わり、引揚者30名ほどであっただろうか、輸送船の甲板には、歌の輪ができた。手拍子を取る者。ありあわせの板切れで太鼓よろしく、箱や樽をたたく者。そこは(命の宴)の場になっていた。
 (なにらごとッ)と、物珍しそうに見物していたネービーたちも、命の宴が3度4度と繰り返されると、3人5人10人と輪の中に入ってくる。
 上間昌成のさんしんは「川平節」「唐船どーゐ」など早弾にかわる。あとは沖縄人のペースだ。チュイナー舞らしぇ<ひとりづつ舞うこと>は、いつか総立ちのカチャーシー舞になる。ネービーたちの手を引っぱって踊りの輪にいれて踊らせる。彼らもまた、見よう見まねで踊る。さんしんの音の中では敵も味方も、勝ち組みも負け組みもなくなっていた。
 やがて。
 明日は、沖縄本島久場崎に入港することになる。ふるさとを目前にして、引揚者の気持ちは高揚。その日の宴は、いちだんと気合が入り、上間昌成の弾くさんしんの音は、太平洋の波をも踊らせた。ようやく、命の宴が終わったとき、ネービー3人が上間昌成に話しかけてきた。
 「0×0×0××」
 何を言っているのか上間昌成には皆目、理解できなかった。知っている英語といえば、「イェース」と「サンキュー」のみ。でも、さんしんの音に共鳴しあった仲(悪いことを言っているのではあるまい)と、ともかくも「イェース」「サンキュー」を。彼らの語りかけの合いの手にして連発した。すると、3人のうちのひとりが満面の笑みで席を立ち、そして持ってきたのは米製煙草ラッキーストライク5、6ボール。当時は、1カートンをひとボールと言った。つまり、彼らは、
 「その珍しい楽器を煙草と交換しないか」
 と、持ちかけていたのである。それとはツユしらず上間昌成は「イェース」「サンキュー」を返事としたのだから、取引は一方的に成立。引揚者は皆、ふるさとの地を踏むことができたが、上間昌成愛用のさんしんは、下船することなく、ふたたび太平洋を渡っていった。

 戦後。沖縄芝居が復活し、上間昌成は役者として活躍するが、ときにふれ、
 「あのさんしんは、どうなったろうかね。そう、太平洋上でわかれた、あのワシのさんしんだよ」
 と、家人に問いかけるともなくつぶやいていた。
 娘・北島角子もまた「ゆかる日まさる日さんしんの日」の前後には、決まって話す。
 「ほんとに、うちのオトーのさんしんはどうなったのか。アメリカのどこかでジャズでも奏でているといいのだが・・・・。飾り物でもいいから、生きていてほしい」

 沖縄に駐留した米兵が入替えで帰国する際、戦利品・・・・にしたとは考えたくないのだが、とかく多数のさんしんを持ち帰ったと聞く。
 「米兵よ。さんしんはどうしていますか。そう、あなたが持ち帰った、あのオキナワのさんしんですよ」



次号は2007年3月22日発刊です!

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