旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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自然の驚異・シガリ波

2011-05-10 00:30:00 | ノンジャンル
 「3月11日午後2時46分。ラジオ・テレビの速報に接したときは『またか。地震国日本だな』程度に聞き流していたが、短い時間をおいて大津波の発生を知り、動転せざるを得なかった。すぐに現地の惨状がテレビ画面に映し出されるや、昭和19年10月10日の大空襲。そして翌年4月1日のアメリカ軍の沖縄上陸による激烈な陸上戦。跡形も残さない瓦礫の山と化した那覇の街と東日本の惨状を重ね合わせてしまい、身の毛のよだつ思いをした。戦争は人間がしでかした悪行。その責任追及は、いまもってなされているが、大自然による壊滅的現状は、どう責任追及をすればよいのか・・・・。相手が自然では、人間なぞ手も足も出ない。ただひとつ、被災者の立場になって私が出来るのは、募金活動しかない、その募金も、金銭はあっても必要なモノが波に飲まれてしまっては、どれほどの役に立つのか・・・・。しかし、いずれは何らかの形で一助になるであろうことを信じて、街頭に出ているのだよ」
 学生や各種団体のメンバーに加わって募金呼びかけをしていた老人は、連日の疲労のせいか、しばしビルのカゲに身を休ませながら、そう話していた。いまほど、国民の心がひとつになったことが、かつてあっただろうか。
 神仏にもすがりたい気持ちであるが、このたびの大震災からひと月後「ナーバイ」という伝統的祈願祭が宮古島でなされた。4月12日のことである。
 「ナーバイ」とは〔縄を張る〕の意。海と陸の境にワラでなった縄を張って一線を画し島にシガリ波<津波>が打ち寄せないよう祈願する祭祀である。この日、宮古島市城辺(ぐすくべ)・砂川の上比屋山(ウイピャーヤマ)周辺では、女性たちが円陣になり、手踊りをしながら海神を鎮め、五穀豊穣を祈った。

 今年のナーバイは、東日本大震災のひと月後の開催とあって、一段と想念を蜜にした。一方、男たちは上比屋山に立てた祈願小屋の前で悪霊払いの棒を持ち、船漕ぎを模した動作に合わせて神歌を謡った。ナーバイの発祥は1771年、八重山・宮古両諸島を襲った〔明和の大津波〕にあるとされる。ナーバイに参加した人たちは「粛々と伝統祭祀を行う中、今回は東日本の大震災を強く意識した。これを教訓として、今後も年に1度は防災に対する意識を持続していきたい」と話している。

 巷間に伝わる昔ばなしとともに、明和年間に八重山、宮古を襲った世にいう「明和の大津波」について記そう。
 昔。自然と人間が融合していたころの昔。
 漁で暮らしを立てていた石垣村に奇妙なことが起きた。海から女の歌声が聞こえる日が何日も続いたのである。
 「あれは、人間の歌声かッ。それとも海の魔物の声かッ」
 村の人たちは戦々恐々としながらも合議の結果、声のする沖合の岩礁周辺に魚網を張って、歌声の主を捕獲し、正体を見極めることにした。待つこと2日、3日。ついに歌声の主は網にかかった。見るとそれは、上半身は長い黒髪の若い女性だが、下半身は尾びれのついた魚だった。
 「おおッ。これはまぼろしの魚ザン<ジュゴンの方言名>ではないか。ザンの肉は不老長寿の薬と聞く。さばいて食そうではないか」
 衆議一決。ザンを陸地に引き上げようとしたとき、ザンは言った。
 「お待ちください。もし、命を助けてくださるならば今、海の底で起きつつある大きな異変を知らせましょう。この島が壊滅する一大事が動き始めているのです」
 島の一大事とは聞き捨てならない。海へ返すことを約束して、ザンの話を聞くことにした。
 「この島のはるか南の海の底が動き出し、やがてシガリ波がやってきます。刻限は明日の朝。すぐにオモト岳に避難してください」
 シガリ波と聞いては安穏としてはおれない。人びとはザンを解放するや、島中の鳴り物という鳴り物を打ち鳴らし、シガリ波の襲来を告げ、沖縄一高いオモト岳<海抜525・8㍍>に避難した。果たしてシガリ波は、ザンの予告通り島を襲ったが、ザンのおかげで多くの人の命が救われた。

 昔ばなしはそう語られるが、事態は生易しいものではなかった。
 明和8年<1771>。琉球は尚穆王<じょう ぼく=1739~1794>時代。
 4月24日午前8時ごろ。八重山、宮古両島をかつてない大津波が襲った。標高のほとんどない平地の珊瑚礁からなる島々は、3度に及ぶ津波に言葉通り飲み込まれた。震源地は、石垣島の南南東40㌔。規模はマグニチュード7.4。波高は、石垣島宮良牧中で85.4㍍。島の4カ所で東から西へ怒涛が横断。遭難者は、石垣島8439人。宮古島2543人。両諸島共に女、子どもの死者が多かった。そのため、八重山の人口は、100年後の明治初期まで減退が続き、津波前の人口に回復したのは148年後、つまり大正8年<1919>のことだったと記録にある。
 このことから今、われわれは何を学習、会得すべきか。考え続けていかなければならない。東日本はもちろん、日本国の国難の時はこれからだからである。




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2 コメント

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Unknown (クバガシ)
2011-05-10 22:31:37
tacooさん、ご仲介、ニフェデービル。ご質問の件は、仲間等と解釈をめぐり論争(ちと、大げさ?)なっていまして、琉歌の大御所のご意見を伺おうと・・・次第です。大別すると2通りです。
①灯す。
②松、竹の佳字にあやかる、つまり「長寿、真っ直ぐ」につけても。私の解釈は②です。東恩納清二にもお伺いしました。②でした。
①か②で御回答頂ければ、幸甚、極まれりです。別件でうみしぃじゃに失礼を申し上げたなら、ひらに寛恕のほどを・・・。前にも申し上げたが「民謡で今日拝なびら」のファンであり、毎年一回公演の「男達の狂り遊び」も殆ど観に往っています。と言うことで。聯絡先は、事情等?!があって御座いません。悪しからず、御含み頂きたく。
今日の「シガリ波」エッセイ、堪能させて頂きました。その記事中、『今年のナーバイは、東日本大震災のひと月後の開催とあって、一段と想念を蜜にした。』宮古の司の方々、ご苦労さまで御座います。「苦世(にがゆ)から甘世(あまゆ)」の精神ですね。東日本大震災の被災者の方々の一日も早い復興をお祈りします。私も袋中上人と琉球との縁に因り、いわき市に何某の寄付をさせて頂きました。併せて宮古の司の方々の「一段と想念を「密」にした」祈念が届きますように。追伸:私のニックネーム、「グバガシ(くぼがす)」は蜘蛛の巣の意味です。「民謡で今日拝なびら」の琉歌百景のコーナの琉歌、蜘蛛の巣の上で待ち構えて物にしよう・・と思い、なーじきぃしました。ユタシクございます。
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Unknown (多胡dacoo)
2011-05-12 17:09:20
蛸はイジュンで捕って下さい。イカ墨汁、イカ墨スパゲティおいしです。「ともだち」ふなぁーして引っ掛ける御仁に要注意。はやり、サイトは屁を一発かまして、天高く凧を上げて下さい。下界がよく見えますよ。抱っこちゃん。貴方、アメリカで「ともだち」遊びにいってください。シェイクスピア科白、おとといきなさい。ながれゆきさん。
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