“もういくつねるとお正月 お正月には凧上げて
こまを回して遊びましょう はやくこいこいお正月”
「お正月」の歌は、作詞=東くめ<明治10年~昭和44年=1877~1969>・作曲=滝廉太郎<明治12年~明治36年=1879~1903>による作品。幼稚園唱歌に登場している。
“もういくつねるとお正月 お正月にはマリついて
追い羽根ついて遊びましょう はやくこいこいお正月”
寅年の師走。“はやくこいこい”と囃し立てているうちに卯年はやってきて、慌ただしく中旬に入った。しかし、唱歌のようにはいかず、凧揚げをしている子どもたちは、ついぞ見かけなかった。まして、コマ回しや追い羽根つきなぞ、正月風景からその姿を消してから幾十年たっただろうか。十二支の巡りも新年がやってくるのも古来変わらないが、正月祝いも子どもたちの遊びの様式も、すっかり変わってしまった。これも時の流れというもの。また、変わらなければならないことなのだろう。モノのない時代は、大人も小人もチエを出して新年を寿いだが、昨今はチエを出さなくても金さえ出せば、年越しができるようになっている。
凧は、平安時代<延暦13年(794)~建久3年(1192)>の初期、中国から伝わったとされていて、中国では「紙鳶=しえん」「紙老鴟=しろうし」と呼称されていたそうな。〔鳶〕も〔鴟〕もタカ科の大形のタカ「とび・とんび」のこと。しかし〔鴟〕は「ふくろう」の意もあるようだ。ちなみに〔鴟尾=しび〕は宮殿・仏殿の棟の両端に取り付けられる飾りの意があり、文字としては「鴟」が「鵄」になって「金鵄勲章」にも用いられている。鳶・鴟・鵄は霊鳥の扱いをされていたのだろう。したがって中国では、凧は勢いよく大空を飛翔するタカになぞえて、子どもたちの無病息災と心身ともに健全に育つようにとの願いを込めて、新年の遊びに取り入れられたと考えられる。
沖縄の凧は、年代は定かではないが中国・日本からの移入とされる。方言では「マッタクー・マタクー=真凧」が一般的。コウモリにも似ているところから「カーブヤー=こうもりの意」の別称もある。種類もマッタクー・マタクー・カーブヤーの他にブーブーダクやハッカクー<八角>があって、地域により名称を異にしている。
基本形のマッタクーは四角形。シチガラー<敷瓦模様>が多く、色紙のシチガラーを凧の表に貼ったものを「錦マッタクー」・裏に貼ったそれを「ウッチャキター=打ち掛けもの」と区別している。ハッカクーは星形で、東北方面では同形の八角が主流と聞いているがどうか。
ブーブーダクも面白い。凧の両端を弓なりに作り、さらに糸に〔結び紙〕を付ける。結び紙は、上空の風を受けて“ブーブー”と音を発する。ブーブー凧は、その音からついた名称。
風騨<ふうたん>は、琉球王府時代に中国からもたらされた高級の凧遊びである。凧本体とは別に蝶々を形どった仕掛けをほどこし、凧が上がった後、手元の揚げ糸に貫いて放つと、スルスルと糸をたどって上昇し、あらかじめ凧の手前に仕掛けた結び目まで達すると、それまで開いていた蝶々の羽がひとりでに閉じられて、手元に戻ってくるようになっている。また、紙片や軽い木の葉に小さな穴を開け、揚げ糸に通して放てば、紙片や木の葉は空の凧まで達する。糸電話からの発想なのか、この仕掛けを「デンポウグァ」と称している。「電報」なる言葉を用いたことから察するに「デンポウグゥ・電報小」は、明治のころに、風騨を応用して考案されたものだろう。しかし、小人が操作するには難しく風騨も電報小も愛好家の中でも、上級者の凧遊びであることは言をまたない。また、マッタクーオーラシェー<凧合戦>やマッタクーカキエー<真凧掛合>は、上げた凧と凧をぶつけ合うだけでなく、お互いマッタクーぬジュー<凧の尾っぽ>に小さな刃物を付け、相手の凧の糸を切って勝敗を決める遊びもあったそうだが、私の経験にはそれはない。
ちなみに凧の方言名称は、宮古島=カブトゥイ<紙鳥>。八重山=ピキター。アヨー。本島南部地域=カババイと言い、愛好家や行政が主催する「カババイ大会」がある。他にも方言名はあろうが、今回は私の調査不足。乞う容赦。
人間は古代から天を仰ぎ、神との一体化を願望。また、神に近付くために大空を飛翔する鳥に憧れ、夢をふくらませてきた。その発想から遂に飛行機を生み出した!とするのは突拍子に過ぎるか。
制作:黒島良信
余談。
正月を人一倍喜んでいる人物がいる。那覇市首里石嶺に住む黒島良信さん<56歳>
松がとれると、友人知人の家庭をまわり、役目を終えた門松の孟宗竹を手に入れることができるからだ。凧作りの材料である。趣味で真凧や発覚を作りつづけて50年。年間2410枚は作る。それらは知り合いや学校に贈っていて、私も寅年は100余枚を預かった。もちろん、担当するラジオ番組の視聴者プレゼントにしたり、保育園、幼稚園、小学校に届けている。今年も2月に入ったころ、黒島良信手作りの束になった凧30枚ほどが郵送されてくるに違いない。黒島作品の内の2枚は、この原稿を書いている私の部屋のインテリアになっている。筆を置いて目をやると、凧が声をかけてきた。
「部屋に置かれては窮屈この上ない。初春の大空の空を胴体いっぱいに受けさせてはくれまいか」
こまを回して遊びましょう はやくこいこいお正月”
「お正月」の歌は、作詞=東くめ<明治10年~昭和44年=1877~1969>・作曲=滝廉太郎<明治12年~明治36年=1879~1903>による作品。幼稚園唱歌に登場している。
“もういくつねるとお正月 お正月にはマリついて
追い羽根ついて遊びましょう はやくこいこいお正月”
寅年の師走。“はやくこいこい”と囃し立てているうちに卯年はやってきて、慌ただしく中旬に入った。しかし、唱歌のようにはいかず、凧揚げをしている子どもたちは、ついぞ見かけなかった。まして、コマ回しや追い羽根つきなぞ、正月風景からその姿を消してから幾十年たっただろうか。十二支の巡りも新年がやってくるのも古来変わらないが、正月祝いも子どもたちの遊びの様式も、すっかり変わってしまった。これも時の流れというもの。また、変わらなければならないことなのだろう。モノのない時代は、大人も小人もチエを出して新年を寿いだが、昨今はチエを出さなくても金さえ出せば、年越しができるようになっている。
凧は、平安時代<延暦13年(794)~建久3年(1192)>の初期、中国から伝わったとされていて、中国では「紙鳶=しえん」「紙老鴟=しろうし」と呼称されていたそうな。〔鳶〕も〔鴟〕もタカ科の大形のタカ「とび・とんび」のこと。しかし〔鴟〕は「ふくろう」の意もあるようだ。ちなみに〔鴟尾=しび〕は宮殿・仏殿の棟の両端に取り付けられる飾りの意があり、文字としては「鴟」が「鵄」になって「金鵄勲章」にも用いられている。鳶・鴟・鵄は霊鳥の扱いをされていたのだろう。したがって中国では、凧は勢いよく大空を飛翔するタカになぞえて、子どもたちの無病息災と心身ともに健全に育つようにとの願いを込めて、新年の遊びに取り入れられたと考えられる。
沖縄の凧は、年代は定かではないが中国・日本からの移入とされる。方言では「マッタクー・マタクー=真凧」が一般的。コウモリにも似ているところから「カーブヤー=こうもりの意」の別称もある。種類もマッタクー・マタクー・カーブヤーの他にブーブーダクやハッカクー<八角>があって、地域により名称を異にしている。
基本形のマッタクーは四角形。シチガラー<敷瓦模様>が多く、色紙のシチガラーを凧の表に貼ったものを「錦マッタクー」・裏に貼ったそれを「ウッチャキター=打ち掛けもの」と区別している。ハッカクーは星形で、東北方面では同形の八角が主流と聞いているがどうか。
ブーブーダクも面白い。凧の両端を弓なりに作り、さらに糸に〔結び紙〕を付ける。結び紙は、上空の風を受けて“ブーブー”と音を発する。ブーブー凧は、その音からついた名称。
風騨<ふうたん>は、琉球王府時代に中国からもたらされた高級の凧遊びである。凧本体とは別に蝶々を形どった仕掛けをほどこし、凧が上がった後、手元の揚げ糸に貫いて放つと、スルスルと糸をたどって上昇し、あらかじめ凧の手前に仕掛けた結び目まで達すると、それまで開いていた蝶々の羽がひとりでに閉じられて、手元に戻ってくるようになっている。また、紙片や軽い木の葉に小さな穴を開け、揚げ糸に通して放てば、紙片や木の葉は空の凧まで達する。糸電話からの発想なのか、この仕掛けを「デンポウグァ」と称している。「電報」なる言葉を用いたことから察するに「デンポウグゥ・電報小」は、明治のころに、風騨を応用して考案されたものだろう。しかし、小人が操作するには難しく風騨も電報小も愛好家の中でも、上級者の凧遊びであることは言をまたない。また、マッタクーオーラシェー<凧合戦>やマッタクーカキエー<真凧掛合>は、上げた凧と凧をぶつけ合うだけでなく、お互いマッタクーぬジュー<凧の尾っぽ>に小さな刃物を付け、相手の凧の糸を切って勝敗を決める遊びもあったそうだが、私の経験にはそれはない。
ちなみに凧の方言名称は、宮古島=カブトゥイ<紙鳥>。八重山=ピキター。アヨー。本島南部地域=カババイと言い、愛好家や行政が主催する「カババイ大会」がある。他にも方言名はあろうが、今回は私の調査不足。乞う容赦。
人間は古代から天を仰ぎ、神との一体化を願望。また、神に近付くために大空を飛翔する鳥に憧れ、夢をふくらませてきた。その発想から遂に飛行機を生み出した!とするのは突拍子に過ぎるか。
制作:黒島良信
余談。
正月を人一倍喜んでいる人物がいる。那覇市首里石嶺に住む黒島良信さん<56歳>
松がとれると、友人知人の家庭をまわり、役目を終えた門松の孟宗竹を手に入れることができるからだ。凧作りの材料である。趣味で真凧や発覚を作りつづけて50年。年間2410枚は作る。それらは知り合いや学校に贈っていて、私も寅年は100余枚を預かった。もちろん、担当するラジオ番組の視聴者プレゼントにしたり、保育園、幼稚園、小学校に届けている。今年も2月に入ったころ、黒島良信手作りの束になった凧30枚ほどが郵送されてくるに違いない。黒島作品の内の2枚は、この原稿を書いている私の部屋のインテリアになっている。筆を置いて目をやると、凧が声をかけてきた。
「部屋に置かれては窮屈この上ない。初春の大空の空を胴体いっぱいに受けさせてはくれまいか」
20年前に88歳で他界した父にナイフで竹ひごを削り弓なりに糸を張っての凧造りを思い起こしました。
無心 件の凧一つ所望したい。私なら凧の本望を遂げられる。