旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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『おきなわ日々記』12月1日用

2012-12-01 00:10:00 | ノンジャンル
 ※訃報。
 またひとつ、沖縄芝居の大きな星が流れた。
 名女優大宜見静子さんが逝った。大正7年〈1918〉生まれ。94歳。
 夫君大宜見小太郎〈本名・朝義〉と共に劇団「大伸座」を率いて、戦後の沖縄芝居史に大きな足跡を残した役者である。高齢にして、数ケ月前まで舞台をこなしていたが、10月に入って風邪をこじらせ、那覇市内の大浜第一病院に入院した。亡くなる数時間まで見舞客と会話をしていたが、11月5日午後11時45分、天寿を全うしたのである。
 静子さんは、北谷村〈現・町〉桑江の禰覇家に生まれた。桑江は「クェーぬ前」「桑江ぬ中」「桑江ぬ後=くし」とあるが、彼女は「桑江ぬ中」の出身。
 昭和10年〈1935〉。当時、ハワイに移民をし、生活の安定を見ていた北谷出身が故郷の村芝居を招聘して公演した際、彼女もその芸能団の一人だった。その公演の指導のため同行したのが、すでに人気役者だった大宜見小太郎。ハワイ滞在中に恋が芽生え、帰国するや直ぐに結婚している。

写真:知念文吉
 戦前、夫婦して劇団「真楽座」で活躍。同座の大阪公演にも参加し、昭和20年〈1945〉帰省。戦後直ぐにアメリカ民政府が奨励した松・竹・梅の三劇団の内、竹劇団に配属され、全島を巡業。自由興業が許可された際、僚友宇根伸三郎と共に劇団「大伸座」を旗揚げした。昭和24年〈1949〉のことである。大宜見小太郎の「大」と、宇根伸三郎の「伸」を取って名付けられたのが「大伸座」の由来。
 人情劇や喜劇を得意とした大伸座において、静子さんは欠かせない存在で、夫君とも舞台上でも夫婦役を演じ「丘の一本松」「ともしび」等は、公演のたびに拍手喝采浴びた。平成5年〈1994〉夫君大宜見小太郎が75歳の逝去後も、座長を引き継ぎ、世間で言う「小太郎芝居」を演じ続けていったのだが・・・・。
 県指定無形文化財〔琉球歌劇〕保持者であり、平成13年〈2001〉には、那覇市政功労者表彰を受けている。
 葬儀は、那覇市安謝の葬儀場で執り行われ、一般焼香の際は大伸座の人気演目の「丘の一本松」「米を作る家」をモチーフに作られた同名の歌が流れて、関係者はもちろん、一般の芝居ファンが別れを惜しんでいた。

 いささか個人的になるが、筆者は静子さんを「ウジミぬお母さん」と呼んでいた。
 と言うのも昭和40年ごろ、当時大学生だった御夫婦の子息朝昌さんが、本土行きの船内から姿を消して行方不明になった。その子息が筆者と同じ歳だったこともあって御夫婦は「キミはうちの息子の生まれ替わりだ」と、可愛がってもらった。それをいいことに筆者は、那覇市泊の大宜見家を無遠慮に訪問して、昼食をねだったり、長時間に渡って、沖縄芝居のことの教授にあずかった。
 さらには「丘の一本松」の作詞〈作曲普久原恒男・歌ファーシスターズ〉や脚本「続・丘の一本松」を2本も書くなど、よほど縁があったのだろう。
 大宜見静子八十八歳のトーカチ祝い〈米寿祝い〉の年にも、彼女の希望で筆者の拙作「トーカチ物語・生り果報命果報」の主役を生地ちゃたんニライセンター「カナイホール」で演じて下さった。
 いまごろ・・・・。
 夫君や先に逝った大伸座の座員とも逢って、小太郎芝居をやっているに違いない。
 沖縄芝居の男優陣が出征して、絶対数が不足していた終戦直後、芝居を絶やすまいと男役を演じ、剣劇や舞踊を熱演していた大宜見静子さんの姿が、後年の老婆役に優先して脳裏をよぎるのはなぜだろう。
 「いろいろお世話になりました。にふぇーでーびたん。ウジミぬお母さん」。
 師走の風が冷たい。

 ◇12月1日(土)
 ※第6回しまあかり
  開催場所:国指定重要文化財「銘苅家住宅」≪伊是名村≫
 ◇12月2日(日)
 ※第28回NAHAマラソン
  場所:奥武山陸上競技場スタート≪那覇市≫
 ◇12月8日(土)
 ※第25回名護・やんばるツーデーマーチ
  場所:21世紀の森体育館≪名護市≫
 ◇12月9日(日)
 ※第24回ぎのわん車いすマラソン大会
  場所:宜野湾海浜公園歓海門前≪宜野湾市≫
 ◇12月9日(日)
 ※第11回久米島町産業まつり
  場所:久米島具志川農村環境改善センター≪久米島町≫



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