「あなたの表芸は?」「あなたの裏芸・隠し芸は?」
よく問われることだが、ボクには表芸も裏芸もない。したがって人さまに隠す芸なぞ端ッからあろうはずがない。強いていえば、フィージャー汁なら3杯はイケる!つまり無芸大食・大喰いが(芸)と・・・・言えるかどうか。
20歳をすぎたころ(弾き語り)を目指し、無理してギターを購入。古賀政男メロディーや「禁じられた遊び」「アルハンブラの思い出」など、あちらモノにチャレンジしたことだが、コードやらが難しく「ギターはボクにむいてない」と、ギターとの相性に置き換えてチャレンジを放棄してしまった前科者である。
言葉として「芸は身を滅ぼす」の方を採用したわけだが、一方には「芸は身を助ける」ともある。
沖縄中部・東海岸に位置する中城村当間(とうま)の比嘉三雄会長(68歳)は、中城村福祉協議会が開設している高齢者の居場所・ふれあい事業の集会の舞台で、日本舞踊を披露して(踊る自治会長)の高名を馳せている。その0評判は近隣の自治会にも及び(お呼び)がかかるほどになった。
ご本人は「自らの人生修行のつもりで、出来るだけご要望に応えるようにしている。が、ひと言で芸事というが、いざ、本気でやってみると、なかなか難しい」と語る。
比嘉三雄さんが日本舞踊の習いごとを始めたのは、還暦祝いの際、同級生に芸名・一条紫舞貴を名乗る小橋川玲子さんが、あでやかな衣装に身を包み、しなやかな所作を披露したことに魅せられて一念発起、日舞の手ほどきを受けるようになった。
比嘉さんはまた若いころジャズマンとして、各地のイベントの舞台やジャズクラブでのライブをこなしてきた自称セミプロの日々があった。
自治会長に就いた8年前、字の集会の折り、先輩方から「音楽をやっていたから、芸事は得意だろう。何かやってくれ!」と再三の要望。しかしジャズでは、先輩方が受け入れてくれるかどうか・・・。畑違いの日本舞踊を修得しようと思い立ったが、日舞練場に足を向けるまで、6ヶ月の迷いの果ての決心だった。
比嘉さんには幸い日本舞踊をよくする一条流の小橋川玲子という同級生がいて月1回、そして本番前には随時、稽古をつけてもらっているそうな。
得意な演目は、槍と大盃、あるいは扇を持って舞う「黒田節」。男気を前面に押し出した「男一代」。他にもレパートリーは多彩。自前の衣装はあるものの、着付けが難しく、そこは小橋川師匠の手を借りている。
また、昨年の一条流「舞貴の会」発表会では、唯一の男性出演者として参加、注目と拍手をひとり占めにしたという。師匠の評価はどうか。
「さすが元ジャズマンだけに音楽的センスは抜群。その上、努力家。踊る自治会長の人気は上昇するばかり」と、同級生という贔屓目を抜きに太鼓判を押している。
まさに「芸は身を助ける」を実践しているのには頭を下げる他はない。
周囲を見渡してみる。
琉球放送入社以来、経理畑40年。最終的には、取締役経理局長で現役を退いた親しい友人新嘉喜友功さん(73歳)。佐敷村馬天(現・南城市)生れは退職後、一念発起した。
「幼少の頃から慈愛をそそいでくれた祖父の形見とも言うべき三線が2丁ある。これを活用しなければ、祖父の愛にそむくことになる」
子は女だけ3人。長じて母になり、おかげで5人の子の爺にしてくれた。そろそろ(これからの自分)に向き合おうと、琉球古典音楽界の重鎮・琉球音楽野村流伝統音楽協会・前川朝文師範が主宰する三線教室に入門。週1回2時間の稽古をつけてもらって6年になる。
「まさか自分が歌三線を!」と、いまでも信じ難いが、御前風5節(僕の場合4節)かぢゃでぃ風節、恩納節、中城はんた前節、(長伊平屋節を飛ばして)、特牛節。その合間に(飽きさせてはなるまい)という師匠の心配りで白瀬走川節、金武節、秋の踊り(別名・三輪口節)などはこなせるようになったという。
「数字とばかり付き合っていた時は、自分と歌三線を結び付けることはできなかったが、いまでは(生甲斐)を覚えている」
真顔で語る新嘉喜友功さん。もし、現役を退いた社友連がこのことを知ったら「へえ~。あの友功に歌三線の裏芸、いや、立派な表芸があったとは!」と、仰天するに違いない。
されば!ボクもと声帯模写(いまはそうは言わないかっ)、歌まね、ものまねを仕込み酒の席の座で披露してみたことだが、まったくウケない。それもそのはずだ。岡晴夫の「鳴くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」を真似ても、場の連中とのゼネレーション・ギャップがあり過ぎて、岡晴夫、その人を知らないときている。東海林太郎の「国境の町」「名月赤城山」をやろうものなら、そっぽを向かれてしまう・・・・。かと言って、いま流行りの歌手、歌はこちとらが皆目知らないときている。
どなたかボクに向いている(隠し芸・裏芸)を教調願えないだろうか。
よく問われることだが、ボクには表芸も裏芸もない。したがって人さまに隠す芸なぞ端ッからあろうはずがない。強いていえば、フィージャー汁なら3杯はイケる!つまり無芸大食・大喰いが(芸)と・・・・言えるかどうか。
20歳をすぎたころ(弾き語り)を目指し、無理してギターを購入。古賀政男メロディーや「禁じられた遊び」「アルハンブラの思い出」など、あちらモノにチャレンジしたことだが、コードやらが難しく「ギターはボクにむいてない」と、ギターとの相性に置き換えてチャレンジを放棄してしまった前科者である。
言葉として「芸は身を滅ぼす」の方を採用したわけだが、一方には「芸は身を助ける」ともある。
沖縄中部・東海岸に位置する中城村当間(とうま)の比嘉三雄会長(68歳)は、中城村福祉協議会が開設している高齢者の居場所・ふれあい事業の集会の舞台で、日本舞踊を披露して(踊る自治会長)の高名を馳せている。その0評判は近隣の自治会にも及び(お呼び)がかかるほどになった。
ご本人は「自らの人生修行のつもりで、出来るだけご要望に応えるようにしている。が、ひと言で芸事というが、いざ、本気でやってみると、なかなか難しい」と語る。
比嘉三雄さんが日本舞踊の習いごとを始めたのは、還暦祝いの際、同級生に芸名・一条紫舞貴を名乗る小橋川玲子さんが、あでやかな衣装に身を包み、しなやかな所作を披露したことに魅せられて一念発起、日舞の手ほどきを受けるようになった。
比嘉さんはまた若いころジャズマンとして、各地のイベントの舞台やジャズクラブでのライブをこなしてきた自称セミプロの日々があった。
自治会長に就いた8年前、字の集会の折り、先輩方から「音楽をやっていたから、芸事は得意だろう。何かやってくれ!」と再三の要望。しかしジャズでは、先輩方が受け入れてくれるかどうか・・・。畑違いの日本舞踊を修得しようと思い立ったが、日舞練場に足を向けるまで、6ヶ月の迷いの果ての決心だった。
比嘉さんには幸い日本舞踊をよくする一条流の小橋川玲子という同級生がいて月1回、そして本番前には随時、稽古をつけてもらっているそうな。
得意な演目は、槍と大盃、あるいは扇を持って舞う「黒田節」。男気を前面に押し出した「男一代」。他にもレパートリーは多彩。自前の衣装はあるものの、着付けが難しく、そこは小橋川師匠の手を借りている。
また、昨年の一条流「舞貴の会」発表会では、唯一の男性出演者として参加、注目と拍手をひとり占めにしたという。師匠の評価はどうか。
「さすが元ジャズマンだけに音楽的センスは抜群。その上、努力家。踊る自治会長の人気は上昇するばかり」と、同級生という贔屓目を抜きに太鼓判を押している。
まさに「芸は身を助ける」を実践しているのには頭を下げる他はない。
周囲を見渡してみる。
琉球放送入社以来、経理畑40年。最終的には、取締役経理局長で現役を退いた親しい友人新嘉喜友功さん(73歳)。佐敷村馬天(現・南城市)生れは退職後、一念発起した。
「幼少の頃から慈愛をそそいでくれた祖父の形見とも言うべき三線が2丁ある。これを活用しなければ、祖父の愛にそむくことになる」
子は女だけ3人。長じて母になり、おかげで5人の子の爺にしてくれた。そろそろ(これからの自分)に向き合おうと、琉球古典音楽界の重鎮・琉球音楽野村流伝統音楽協会・前川朝文師範が主宰する三線教室に入門。週1回2時間の稽古をつけてもらって6年になる。
「まさか自分が歌三線を!」と、いまでも信じ難いが、御前風5節(僕の場合4節)かぢゃでぃ風節、恩納節、中城はんた前節、(長伊平屋節を飛ばして)、特牛節。その合間に(飽きさせてはなるまい)という師匠の心配りで白瀬走川節、金武節、秋の踊り(別名・三輪口節)などはこなせるようになったという。
「数字とばかり付き合っていた時は、自分と歌三線を結び付けることはできなかったが、いまでは(生甲斐)を覚えている」
真顔で語る新嘉喜友功さん。もし、現役を退いた社友連がこのことを知ったら「へえ~。あの友功に歌三線の裏芸、いや、立派な表芸があったとは!」と、仰天するに違いない。
されば!ボクもと声帯模写(いまはそうは言わないかっ)、歌まね、ものまねを仕込み酒の席の座で披露してみたことだが、まったくウケない。それもそのはずだ。岡晴夫の「鳴くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」を真似ても、場の連中とのゼネレーション・ギャップがあり過ぎて、岡晴夫、その人を知らないときている。東海林太郎の「国境の町」「名月赤城山」をやろうものなら、そっぽを向かれてしまう・・・・。かと言って、いま流行りの歌手、歌はこちとらが皆目知らないときている。
どなたかボクに向いている(隠し芸・裏芸)を教調願えないだろうか。