旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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風化させまい・6月の空

2010-07-21 23:38:00 | ノンジャンル
 昭和34年<1959>6月30日
 そこは地獄だった。
 午前10時36分。石川市<現・うるま市>に、テスト飛行のため嘉手納基地を離陸した米空軍F100D機の2機のうち1機が、エンジントラブルで火を吹き、市街地約100メートルの民家25棟をなめ尽くすように墜落。高度300メートル、時速463キロの同機は、減速することなくその先の宮森小学校の校舎をぶち抜き、エンジン部分はさらに先の田地に落ちた。
 2時間目の授業が終り〔楽しいミルク給食〕のひとときだった。学校には約1000人の児童と職員がいた。楽しい給食は一変して地獄と化す。市民はもちろん、沖縄地上戦をぎりぎり凌いで生き延び、明日にかすかな曙光を見出しつつあった大人たちは〔またも戦争かッ〕と驚愕し、子どもたちは〔何がなんだか分からない〕ままの一瞬の惨事である。
 この惨事で児童11人。一般人6人が死亡。負傷者数児童156人。一般人54人。校舎3棟、民家27棟が全焼。校舎2棟、民家8棟が半焼している。
    
     「仲良し地蔵」の碑(宮森小学校中庭)

 私は21歳。琉球新報社会部の記者で空港や港湾を担当していた。
 午前11時ごろだったか、那覇市泊港の取材をしていたところ、港前を北へ伸びる軍用道路1号線<現・国道58号線>をサイレンもけたたましく、数代のパトカーが異様に疾走する。戦時中から聞き慣れたサイレンだが、この日のそれは尋常ではない。すぐさま本社デスクに電話を入れて〔石川市に米軍ジェット機が墜落した〕ことを知る。
 私には那覇市の大空襲、すなわち昭和19年<1944>10月10日、俗に言う10・10空襲を受け、中部の山地を避難行、金武村<現・町>の山中で捕虜になり、捕虜収容地のひとつだった石川市に小中高校の12年間を過ごした経験がある。
 「ベテラン記者たちが取材に向かっている。キミは行くに及ばないッ」
 デスクの制止も聞かばこそ、1号線の中央に飛び出し、折しも猛スピードでやってきたパトカーをどう止めたものか、同乗することを得た。石川市には友人や親戚もいる。
 現場は米軍及び民間の消防隊、救急車や米軍人、警察官、そして児童の父兄、市民が右往左往。あたりにはまだ、残煙が目や鼻につく。いましも、収容された児童がいる。黒焦げた遺体。単なる肉塊となり、人相さえ判別できない顔から白い歯だけが見える。そこはまさに地獄だった。
     
       「平和の鐘の塔」(宮森小学校中庭)

 ここに「6月の空・June Sky・宮森630」と題する1冊の絵本がある。
 絵・磯崎主佳。英訳・中村ヒューバーケン。文は、宮森小学校ジェット機墜落事件を風化させまいとするハーフセンチュリー宮森という15人のメンバーによるもの。監修池宮城けい。
    
   
 小学校2年生の琉少年の夢の中の出来事と、あの惨事で愛児を失った実の祖父母との心のふれ合いを通して描いた平和のメッセージとしている。絵本ではあるが、子を持つ若い親たちに読んでほしい一編だ。
 小学校6年生の孫とその両親に渡す前にと、まずは読んだ。心やさしい表現ながらも事件はいや、戦争とは何か戦後とは何か、平和とは何かを考えないわけにはいかなかった。その夜は眠れなかった。
 件のジェット機のパイロットのジョン・シュミッツ中尉は、エンジンのトラブルを知るや、搭載していた12.5キロの爆弾4発を嘉手納基地南西の海に投棄。自らはパラシュートで脱出して無傷だった。
 当時「墜落の原因は、エンジントラブルによる不可抗力の事故」と米軍は発表しているが、事件から40年後の1999年6月、琉球朝日放送の取材により、事故原因は〔米軍の整備不良〕だったことが明らかになった。それでも米軍当局は、現在に至るもそれを正式には発表していない。

 風化とは何だろうか。
 取材を共にし、現在もジャーナリストとして戦争責任を糾弾、平和を希求し続けている森口豁、昨年急逝したジャーナリスト近田洋一とは、常々語り合ったことだが、歳月とは残酷なもので私の中でも風化は進んでいる。
 大惨事の中で九死に一生を得た少女がいた。少女は事件のひと月ほど後に「全琉学校音楽コンクール・器楽の部」に、宮森小学校代表としてバイオリンで出場することになっていた。しかし、少女は両手骨折の重傷を負い、出場を断念せざるを得なかった。生き延びた者もまた、夢や希望を打ち砕かれて二重の苦しみを背負ったのである。
 事件後、この少女のことを記事にしたことだが50年経ったいま、私はその少女の名前を忘却している上に、消息も皆目知らないでいる。
 〔忘れてはならないッ〕
 そう心に刻み込んだにもかかわらず、少女の名前を思い出せない自分・・・・。これも平和ボケが成せる〔風化〕の進行だろう。
 絵本「6月の空」を読んで決意した。
 「風化は己の中で進行している。そのことに気づいただけでも、まだ風化に歯止めを掛けることが出来るかもしれない。10・10空襲のこと・戦時中の避難行のこと・終戦直後の暮らしのこと・諸々の米軍事件のこと・朝鮮戦争、ベトナム戦争のこと・祖国復帰運動のこと・・・・。いま一度、体験の記憶を呼び戻し、文献を参考にして“語部”になろう」と。
 受け入れられるかどうか自信はない。しかし、それが私のできる反戦平和運動と心得るからである。

   
  ※「絵本・6月の空」=日英語朗読CD付=問い合わせ先
    なんよう文庫  TEL:098-885-0866
 
    

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2 コメント

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Unknown (doraku)
2010-07-23 02:35:35
宮森の事、
絵本に関する事の掲載に
感謝致します

遺族の家に嫁いで四半世紀
その間に生まれた息子が
ハーフセンチュリーのメンバーとなり
さんしん担当
そして
その息子が絵本の中のモデルになった

ご縁あって
こうしてコメントさせて頂いておりますが

驚くなかれ
さんしんついでに申しますと
私達は
きっとご存知
エイチュウ・マツダの一門でもあるのです

そうした繋がりの中
さんしんを通して
平和を発信して行けたらと
願う母でございます
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Unknown (主佳)
2010-07-23 10:39:24
絵本の絵を担当した者です。
絵本を紹介してくださってありがとうございます。

沖縄戦や今回のような事件の絵を描きながら一番心にかかるのは
体験者や遺族が、絵を目にしたときにどんな思いを抱くか、
ということです。

絵本は記憶を呼び覚まします。

絵を見て、思い出して、辛くなって、
次のページがめくれなくなってないか‥‥
最後まで読んで
そして、読み終わった後に
子どもと大人が内容について話せるような
そういう絵になっているだろうか‥‥

上原さんのブログを読ませていただいて
事件の現場に立たれた当事者の思いが迫ってきて
描くことの責任をあらためて感じました。



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