旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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沖縄=歴代県令・知事・主席。そして知事 その①

2011-09-10 00:15:00 | ノンジャンル
 「野田内閣は、任期を全う出来るか」「まあ、よく持って1年・・・そこいらではなかろうか」「ひとつ賭けをしようか」。
 この国難の時に、総理大臣を競馬にして[賭け]の対象にするとは、なんと不謹慎かつ不真面目なことかと思われるが、それもこれも超短命内閣続きの日本国。政権争奪戦がすべてで、民意なき陣取りゲームに明け暮れているからだろう。

 王国から日本国の一県へ。琉球国から沖縄県へ。明治政府はどのような政治姿勢をもって廃藩置県を執行したのか。表面裏面のさまざまな政治の思惑、駆け引きがなされたのは歴史が物語っている。
 そこで、最後の琉球国王尚泰〈しょう たい。1843~1901。在位31年〉に代わって[沖縄]を仕切ったのは県令心得木梨精一郎から、現在の県知事仲井真弘多までの歴代県令・知事・主席、そして知事を通して、世相を垣間見ることにしよう。

 ◆県令時代。
 ※木梨精一郎〈きなし せいいちろう。1845~1910〉。
 山口県出身。明治9年〈1876〉3月。沖縄県令心得として、琉球藩出張を命じられた。これは、琉球藩内の裁判、警察事務を明治政府内務省出張所に移管するなど、琉球処分が進められ、内務省出張所の権限が強化された時期にあたる。木梨精一郎は、同出張所所長の肩書きで琉球処分官松田道之〈まつだ みちゆき。1839~1882。鳥取県出身〉を補佐。琉球藩庁との交渉に奔走した。そして、政府が明治12年〈1879〉、廃藩置県を令達した3月27日から同年4月4日、全国への布令及び初代県令発令まで「沖縄県県令心得」のままだったが、その間の功労が評価されて同年8月[琉球処分に尽力した功績]により、金200円の下賜を受けている。その後、明治19年〈1886〉、長野県知事に就任した。
 木梨精一郎の後、沖縄県が誕生した明治12年〈1879〉4月4日、沖縄県初代県令に就任したのは、肥前鹿島藩出身で[藩主]の座にあった鍋島直彬。明治14年5月18日までの2年1ヶ月の在任になるが、鍋島直彬は沖縄県令就任を必ずしも[快諾]したのではなかったようだ。

 ◆鍋島直彬〈なべしま なおよし。天保14年~大正4年(1844~1915)〉。

写真:ウィキペディアHPより
 
 肥前鹿島〈現・佐賀県南西部〉出身。嘉永元年〈1848〉に藩主になった。明治5年〈1872〉アメリカ留学。4年後に帰国するや、藩制から県制への[世替わり]の国体定まらない時期に、初代沖縄県令として着任する。しかし、同郷の政治家・教育者大熊重信〈1838~1922〉にあてた書簡いわく、
 「弱体をもって辺境の地に赴くは、必ずしも望むところではないが、任命とあらば及ばずながら職務を全うしたい。心残りは齢70の老母を残しての赴任・・・」云々。よほどの葛藤と覚悟を極めての沖縄入りだったことがうかがえる。実際に在任中コレラにかかり、また、日本国に組入れられることに反対する旧士族らが組織する頑固党の非協力的対立があって、世替わりの局面での県令職務は困難だった。

 その間、明治7年〈1874〉1月。薩摩藩が琉球に置いた[在藩奉行]が廃止され、その行務は明治政府内務省出張所に移管。また、政府は年間6000円を補助して、郵便蒸気船を那覇~鹿児島間に隔月1便、年6便を就航させるなど、中央との関係を密にする施策を次々に打ち出した。
 明治8年〈1875〉3月、神奈川県横浜でコーヒーが発売されたころ、大久保利通内務郷は「琉球は日本国や海外事情に疎い」として、」本土新聞数紙を官費で買い上げて「無償で配布した」と沖縄県史にあるが、どの新聞を何部、いつまで配布したかは明らかではない。
藩政時代の裁判や警察業務は、王府直轄の平等所〈ふぃらじゅ〉が執行し、筑佐事〈ちくさじ〉が刑事にあたっていたが、これが内務省出張所に移管されたのも明治9年。アメリカではトーマス・エジソンが蓄音機を発明。本土では「土曜日の半ドン。日曜日休日」が実施されたのもこの年だ。
 半ドンは、欧米諸国の公的労働時間制を取り入れて、土曜日の午後と日曜日を休日としたことによる新語。また東京では、もちろん空砲だが土曜日の正午きっかりに大砲を打ち鳴らして終業を報じた。その大砲の「ドンッ!」の音と「半日就業」を組み合わせて「半ドン」という言葉が生まれたとする説がある。文明開化の音だったに違いない。
 この「半ドン制」は1980年代まで続くが、大企業を中心に週休2日制が広まり、公立学校では1992年から毎月第2土曜日、さらに3年後第4土曜日も休日になった後、2002年度から月間の土曜日が休みになった。しかし、私立学校の一部では現在も土曜日に授業を行っている所もあるそうな。公務員の場合は、1992年に完全週休2日制が実施されたのは周知の通り。

 こうして、明治初期の10年ほどを切り取ってみても、時代は淀むことなく動いてきたことがわかる。「浮世真ん中」は、しばらく県令・知事・主席。そして日本復帰後の公選知事の顔ぶれを見ながら、沖縄の世相を見直していくことにしよう。




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