旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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月が美しい時効

2015-11-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「拝啓」の書き出しの礼状が届いた。
 嘉手納町に事務局を置くNPO法人かでな主催「第2回‟月眺み”大会実行委員会」(実行委員長神山吉郎)からだ。
 9月26日夕刻6時から嘉手納ロータリーを会場に催される同大会の案内を筆者担当RBCiラジオ「民謡で今日拝なびら=月~金・午後4時」でしただけなのに、丁重なことだ。
 「月眺み大会」とは、嘉手納町の西に位置する月の名所水釜を詠んだ新民謡「月眺み=ちちながみ」をコンクール方式で歌い合う大会。
 この日はあいにく台風接近のため、会場を町内のロータリープラザホールに移しての大会になったが、9組ののど自慢が出場して賑わった。

 ♪照り美らさあむぬ 押し連りてぃ里前 水釜ぬ浜や 月見どころ

 と、まず女性が歌い出すと、男性が返歌をする。

 ♪月やあまくまに 眺みてぃどぅ見ちゃる 何すが徒に 浜ゆ降りが

 女性=月が照り映えている(家にこもっておれようか)一緒に連れ立ち、水釜の浜辺に降りて眺めましょうよ。
 男性=月なぞあちこちで都度、眺めてきたモノだ。あらためて、浜辺に降りて何とする。徒労というものだ。

 作詞は富着よし(ふちゃく)。
 1908年。読谷村伊良皆(いらみな)の照屋家に生まれた。嫁して富着姓に。嘉手納町に暮らしを立てていた。詠歌をよくし、書きためていたものの中の「月眺み」に作曲家普久原恒男が曲を付け、唄/兼村憲孝、多和田真正、城間ひろみ、岸本ゆり子でレコーディング(45回転盤)。人びとの耳や唇に馴染んだ。他に冨着・普久原コンビの作品に「なれし古里」「浜遊び」「面影」などがある。1972年、64歳で逝去。
 嘉手納町民は「わが町の歌」として捉え「月眺み大会」を仕込んで、歌い継いでいる。
 ちなみに嘉手納町水釜は、琉球古典音楽の大家幸地亀千代師、奥間盛正師を同時代に輩出している。(わが町)に秀でた人物が存在することは、町民が誇り、それだけで文化の継承になるということか。

 ♪情てぃし知らん 月眺み知らん 明日からぬ明後日 我んね知らん
 ♪水釜ぬ月ん 照る月や一ち 草花ぬなびく ムイに行かな

 女性=(わたしの)情も知らず、月を愛でる情緒もしらないなんて、何と無粋な!そんな人のことなぞ(明日、明後日からは)知らないわよっ!付き合わないわよっ。
 男性=(そこまで言うなら)。水釜の月は何時も眺めている。どうせならば、草花が夜風になびく丘に行こうよ。

 作曲の普久原恒男。
 1932年大阪生まれの沖縄人。1959年。大阪西淀川にあった沖縄のレコードレーベル「マルフクレコード」を1959年、伯父で養父の普久原朝喜より引き継ぎ帰郷。1961年から本格的な作曲活動に入った。「芭蕉布」「豊年音頭」など多数の作品がある。
 普久原恒男著「五線譜による沖縄の音楽」には「月眺み」について、こう記している。
 「1961年。初めて書いた民謡曲。作詞の冨着よしは、戦争を生き抜いた典型的な沖縄のお母さん。現在のコンクリートで固められた嘉手納町水釜ではなく、半農半漁を営む人たちの素朴な入江だったころの水釜の月見を詠んだうた。音響機器も蓄音機から電蓄への変換期で、レコードも78回転のSP盤からEP(45回転)へ変わりつつあった時代の節目の作品。那覇からコザへ帰る乗合自動車の中、この曲をラジオで聴いたある高名な舞踊家は感動して、帰宅するのももどかしく、振付けをして踊ったというエピソードもある。

 ♪ムイ登てぃ来りば 照り美らさ勝てぃ 此処居とぉてぃ互に 語れ遊ば

 男女=丘に登ってみれば、月は一段と照り勝っている。此処で心の飽くまで語ろう。

 11月1日は旧暦の9月20日。
 5日前の9月15日(八月十五夜)に対して「後の十五夜=あとぅぬ じゅうぐや」と言い、8月のそれに負けず劣らず美しいとされ、筆者も古馴染み宅に招かれて秋の月影とほろ酔いの頬に心地よい風を楽しんだ。

 ◇寝屋ぬ灯火ん あがた押し退きり 照る月や清か 惜しさあむぬ
 〈にやぬ とぅむしびん あがた うしぬきり てぃるちちやさやか WUしさあむぬ

 歌意=寝屋の行燈の灯りは、隣の間に押し退けよ。二重に明るいのは、清かに明かりを投げかけてくれる名月に対して失礼。いや、いかにも惜しくてならない。
 沖縄の月は四季折々美しい。身も心も月色に染めてくれる。
 


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