旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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「歌劇・奥山の牡丹・上演」

2019-05-10 00:10:00 | ノンジャンル
 歌劇「奥山の牡丹」を観たのは昭和25、6年。小学校5、6年生のころだったろうか。
 場所は捕虜収容地のひとつ、石川市(現うるま市)にあった石川劇場。終戦間もなくのことだから露天劇場。少年は自ら好んで観に行ったのではない。当時の劇場の観客席は、ちゃんとした腰掛けがあるわけではない。地面にゴザや適当な敷物を敷いて観劇をする。それも劇場側が用意するのではなく、本土の(花見)の場所取り同様、観る者の先もの勝ちの(場所取り)によるものだった。その場所取りは、たいてい少年少女たちの役割だった。
 舞台の近くもなく遠くもない1等席で「おふくろや叔母たちに芝居を楽しんでもらおう」と、争って(場所取り)を時命にしたことを覚えている。そこで観た芝居のひとつが「歌劇・奥山の牡丹」。
 誰が演じたか役者名は記憶していないが、劇中の(歌)をいくつか聞き覚えたのは確かだ。
 歌劇「奥山の牡丹」の2景で女(メカケ)の色香に迷い、家庭を顧みない士族の父親の留守宅で交わす母子の場の曲節が八重山の(でんさ節)であることを知るのは、ずっと後年のことになるが、妙に物哀しく印象的で少年は意味も分からないまま、時折り口ずさんでいた。
 普通の台詞を各地に島うた・流行り唄に乗せて表現する形式の歌劇。「奥山の牡丹」の場合、どんな曲節が何曲ほど用いられているか?今になって興味を覚えて調べてみた。地謡のそれも含む。

 ◇1幕1景=首里安仁屋村・勢頭(賊民)部落の場。
 *地謡=仲里節。仲風節。謝敷節。
 *役者=あやぐ節。
 ◇2景=平良殿内の場と3景・小湾浜の場。
 *でんさ節。
 ◇4景=平良殿内の庭先の場。
 *地謡=うふんしゃり節。せんする節。揚作田節。謝敷節。
 *役者=口説。せんする節。
 ◇2幕1景=平良殿内座敷の場。
 *役者=古見の橋節。ガマク小節。
 ◇2景=普天間権現前の場。
 *地謡=せんする節。仲順節。
 *役者=しゅうらい節。
 ◇3景=奥山の1軒家の場。
 *地謡=二揚東江節。下出し述懐節。下千鳥節。
 *役者=仲順琉り節。下千鳥節。

 「歌劇」と銘打つだけに古来の曲節、各地の民謡に台詞を乗せて、地謡・演者一体となって構成する手法。現在のように作詞作曲をよくする者も少なかった時代。歌劇は島うたを流行らせ、島うたは歌劇を補い合ったものだと、いまさらながら感じ入らざるを得ない。

 歌劇は明治中期に発生し、大正時代に全盛をみる。その後も数多くの歌劇が創作されたが、必ずしも平坦な道を歩んできたのではない。
 1917年(大正6)=『歌劇上演禁止令』が出た。
 世は軍国主義一色の時代。
 「男女の色模様をテーマとする歌劇は時局がら、国民の戦意高揚を低下させ、良俗に反する」。理由はそれだった。警察は劇場内に(検番)を設け、戦意抑揚に違反してはいないか監視をした。劇団側は「ならば!」と、夫の出征中の家庭を守る妻の献身ぶりを描いた「銃後の妻」「乃木大将物語」などといった創作劇を舞台に掛けて、芝居興行を続けてきた経緯もある。

 ところで。
 歌劇「奥山の牡丹」は歌劇創りの名人と今に名を残す役者・伊良波尹吉の前後編の作品。はじめ、前編とされる芸題だけの出し物だったが、大好評につき急ぎ(後編)を創作、併せて上演したとも言われる。

 琉球歌劇保存会(会長吉田妙子)は、保存会結成30周年を迎える。
 来る6月30日には記念公演として国立劇場おきなわで「奥山の牡丹」を上演する。伝統ある歌劇だけに演劇界にも高齢の波は遠慮なく押し寄せ一時(存続の危機))にまで追い込まれたが、そこは役者連の踏ん張りでここまできた。若手育成に尽力してきた。演者の高齢化は各芸能界が抱える重大事だが、関係者の取り組みによって(消滅)の道をふさいでいる。
 今回の「奥山の牡丹」では主人公のひとりの若者を?楙觴多佑?蕕犬襪箸いΑ4鋿圓靴討いぁ

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