旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

褒められて・褒められて その①

2019-02-01 00:10:00 | ノンジャンル
 住み慣れた西原町を離れ、豊見城市に居を移して2回目の正月を迎えた。
 一応は落ち着いたと言えども、確保した書斎(らしき)1室はいまだ片付いておらず、段ボールに収めた書籍などすら、本棚には並んではいない。一度、箱に突っ込んだそれらを納めるべきところに収めるというのは至難の業だ。
 「お前たちがさわっては何処に収めたか分からなくなる。自分でやるからそのままにしておくように」。
 家人にはそう厳命したものの、生来のずぼらさが優先して、手付かずになって今日まで(本たち)に、窮屈な段ボール住まいを強いていた。
 「これでは本に失礼だ」
 義理を発揮して(整理整頓)に取り掛かった・・・・。ある本が目にとまり、ついにページをめくることになった。
 2004年9月23日。沖縄タイムス社発行「沖縄・話のはなし 浮世真ん中」とタイトルする1冊。何のことはない。小生の拙文集である。(出来の悪い息子)を見るように、それでも胸に熱いモノを感じながら、ついついページをめくる。
 「相変わらずの甘っちょろい拙文だなあ」
 そう思うならば、直ぐに片すみに放ればいいものの、それが出来ずにいるのはどうしたことだろう・・・・。そのまま読み続ける。その何ページかの文章に目を吸いつかせることになる。
 小休止を意味する(中ゆくい)と称する項でいまは亡き沖縄芸能史・風俗研究家崎間麗進先生の小生に対する(褒めことば)の1文。そうそう人さまから褒められたことのない小生。テレながらもありがたく拝読する。いわく。

 『上原ぬタンメー小二才』崎間麗進。
 
 琉球放送iラジオの古典音楽番組「ふるさとの古典」で、直彦くんと対談するようになって15年余。その中で、彼のこれまでの体験談を聞いてきたが、その逸話たるや尽きることなく、つぎつぎと湧き出てくるようで、まとめると数冊の本となり、学ぶべきことが多い。なかでも失敗談は突拍子で、ハッとさせられること度々であった。
 琉球古典音楽の大御所として、なかなか近寄れなかった幸地亀千代先生の演奏のとき、ムヌアテーネーラン(筆者注・恐れを知らず)直彦いうことに「先生、女絃(ミージル)が低いようですね」と申し上げたが、何の返事もなかった。大先生の調弦の甘さを指摘したのだ。
 また、古典音楽家宮城嗣周先生との対談では、直彦いわく。
 「三線ぬんでー(サンシンでも)習ってみましょうかネ」と言ったところ、
 「でー(でも)とはなんだっ。キミは三線を軽視しているのかっ習うに及ばずっ」
と、たしなめられて返事に困ったという。ヒヤヒヤもの話である。しかし、幸地、宮城両先生とは、晩年までお付き合いがあって親しかったようだ。
 このような中で、知識も豊富にあって、これを伝え聞いた船越の太郎さん(作家・詩人船越義彰氏)いわく。「直彦はタンメー小二才だ」。
 的を得た言い当てで、上原直彦がよく表現されている。
 そこで私にも思い当たることがある。
 戦前のはなし。玉城盛重先生(古典舞踊家・近代舞踊の創始者)の研究所に出入りしていたある日。組踊「花売の縁」で主人公の森川の子が美女音樽に梅の枝を差し出し、慌て様に家に入るのは、
 「びっくりしてのことか、恥ずかしがって隠れたのですか」と質問したところ玉城先生は、
 「うりがん、いらりーみ(そんなことが説明できるものか)」と、きつい目をして叱られ遂に、森川の子の心情を聞くことはできなかった。
 いずれにしても若気のいたりだったかも知れないが、いま思うに、いろんなことを聞いたり、叱られたりしたことが、よい思い出となっている。
 私自身が忘却していた若き日のことまで引き出してくれる「タンメー小二才」の存在は嬉しく楽しい。

 過分なほめことば。熱くなることを自覚しながら、しばし沈思・・・・。何かにつけ涙腺が緩むのは、崎間麗進大兄に「タンメー小二才」と呼ばれた「二―シェー」も、言葉通り「タンメー」になったということか・・・。

 褒めことばに乗じて注釈を入れる。
 ◇「タンメーぐぁー」は「爺」。「二―シェー」は若者。青二才にも通じる。小生への褒めことばとしては、よく言えば「老成した若者」、または「恐れを知らぬ猪突猛進型」とも解釈できる。
 おっとぉ。過去に思いを馳せている間はない。段ボールのモノを片付けなければならない。それにしても整理整頓なるものは過去を引き出す魔力があるようで、小生の部屋が落ち着きをみるのは、もう少し先のことになるだろう。
 ガラス戸の向こうは灰色の幕を下ろしている。今宵も寒そうだが心は温かい。
 

最新の画像もっと見る