2008 10 04(土)
今回は少し足を伸ばして東北地方へ・・・。
北関東高速道から東北高速道を経由して目的地の福島県二本松市へ・・・。
途中の阿武隈SAで小休止。トイレの脇に「是より みちのく 」の真新しい石碑がありました。
でも、快晴の高速道では「みちのく ・奥の細道」って感じは湧きませんね。
郡山市付近から安達太良山(標高1700m)の稜線が見えてきました。
純愛詩集「智恵子抄」(高村光太郎著)で有名な「智恵子のほんとの空」があると言う安達太良山(阿多多羅山)。
正午近くに智恵子生家のある二本松市に到着。
東北自動車道・二本松IC出口からほど近くに建つ古刹・大隣寺へ・・・。
大隣寺境内に上がる石段 の脇に「二本松少年隊 副隊長・二階堂衛守、隊士・岡山篤次郎」両氏が戦死した場所として石碑が建てられていました。
石碑に合掌してから大隣寺本堂へ・・・。
大隣寺の正式名は巨邦山大隣寺(こほうざん だいりんじ)で宗派は曹洞宗。
二本松藩主・丹羽氏の菩提寺として寛永4年(1627年)に建立されました。
北国の厳しい風雪にも耐えてきた頑丈な造りの本堂です。
通常本堂正面にあるはずの唐破風が左手隅に、中央には質素な入口があるだけです。 唐破風の内部は慈眼堂で幾体もの仏像が並んでいました。
中央の入口から内陣を拝見しました。 内部は暗くて良く見えません。
天井には歴代の住職が使った駕籠が三台、保存状態が良くて今でも使用出来そうな感じです。
大隣寺本堂の直ぐ横に二本松少年隊の墓所がありました。
鬱蒼とした木立に囲まれて二本松少年隊の墓石がひっそりと・・・。
中央の大きな石碑の両翼に二本松少年隊16名の墓石が隊列を組むように整然と並んでいます。
幕末・慶応4年(1868年)の戊辰戦争で幕府軍に味方した二本松藩の兵力不足の補充員として、12~17歳の62名の少年達が戦闘要所に配属されました。
戊辰戦争最大の激戦と云われた城下西口の要衝・大壇口での戦闘には隊長・木村銃太郎の指揮下に25名の少年兵が官軍と勇敢に戦いました。
二本松藩主が逃げ落ちたのも知らず、義に殉じて壮絶に闘い14名の少年兵士が斃れたのです。 二本松少年隊の惨事は有名な会津白虎隊自刃の約一ヶ月前の出来事でした。
中央の石碑には「戦死群霊」と刻まれています。
ここに葬られた16名の中の少年兵士は哀れを誘う13~17歳だったのです。
二本松少年隊墓所の前にある苔生した大筒砲が少年隊の苦闘を物語っているようでした。
その傍らには「仙台藩・会津藩 戊辰戦役供養塔」なども建てられています。
二本松少年隊墓所を懇ろに供養してから、本堂の裏山にある二本松歴代藩主霊廟を訪問。
裏山の中腹にある霊廟は苔で覆われながらも二本松藩の栄華を偲ばせていました。
ここは二本松藩の歴代の藩主・丹羽氏の霊廟。
かの丹羽長秀が織田・豊臣に仕え、長秀の子・丹羽長重は徳川時代の初期に二本松へ移封され以来、二本松十万石の丹羽家はこの後、230年余に亘ってこの地を治めました。
丹羽家は関が原で西軍として参戦したのにも係わらず、これ程長きに亘って移封・転封・改易に遭わなかった大名は稀有と云えましょう。
外様の雄・仙台伊達藩の抑えとして丹羽家は重用されたと思われます。
中央が初代・丹羽光重公、右は三代・長之公、左の四角い墓石は五代・高寛公。
墓石横の石灯籠に刻まれた丹羽家紋は×紋。違棒(ちがいぼう)、直違紋(すじちがいもん)と言います。 ×紋は大隣寺の寺紋でもあります。
歴代藩主の霊廟の下方には奥方や側室の墓所「内室陰墓」が荒れ果てて寂しそう・・・。
二本松少年隊の墓所や藩主・丹羽氏の霊廟をめぐってから大隣寺前の二本松少年隊会館で昼食。
庇の上に二本松少年隊の雄姿の人形が・・・。
二本松少年隊は死してなを看板として酷使されるのか・・哀れ!!
昼食にはラーメン! 福島県ですから蔵の町・喜多方らーめん(840円)を注文。
内容のわりにはお値段が・・・高いです。
次回は智恵子の生家の見学。
2008 10 14(火)記。 前橋市後 最高気温18℃