中島義道「差別感情の哲学」読了
本書は平成27年に講談社学術文庫より発刊されたものです。
中島義道というとついつい買って読んでしまうんですね。今回のテーマは「差別」について。これは自分達の心に巣食う、意識するとしないとにかかわらず誰もが持っている感情だと思います。中島は、それは当然あるもの、それを前提として話を進めていきます。
うなりながら、また、随所でうなづきながら読みました。自分の、普段の何気ない気持ちの動き、人との会話、そんな中にも誰かに対して、また何かのグループに対して知らず知らずのうちに「自分とは違う」という差別感情を持っていることに気づかされました。
そうなんだよなぁと共感する部分、たくさんありました。いくつか引用します。
<差別問題は、問題のありかを求めて突き進めば突き進むほど居心地の悪いものである。そこには「仕方ない」という呟きがいつも耳元で唸りを上げている。解決に一歩近づいたと思えば、いつでも欺瞞のさらなる拡大でしかない。>
<(前略)たまたま障害者に生まれなかったことを「感謝」するのではなく、障害者に対して負い目を抱く態度が必要だということ、(後略)>(障害者という表記は原文のまま)
<あらゆる愛の表明の中で、家族愛の表明だけが特権的に安全なのだ。いかなる咎めも受けず、いかなる批判も浴びない。これは、家族に恵まれない人、家族のいない人、いやそれよりさらに、家族を愛せない人、家族を憎んでいる人、恨んでいる人、縁を切りたい人にとっては、きわめて残酷な事態ではなかろうか。>
<こうして家族愛の正当性は堅固に保護されているがゆえに、その絆を強調することが、とりもなおさず非正統的関係を排除する構造になっている。(中略)こうして家族に「いこい」を求めえた人は、不断に甘やかされ、そのことによって頭脳が単純化し、麻痺し、知らないうちに多くの非婚の人や家族関係に苦しんでいる人を傷つけることになる。しかも、このことにわずかの罪責感ももたないほど鈍感である。>
<社会的不適格者(学歴のない人、お金持ちでない人、社会的に成功していない人)は、フェアに戦えば負けることは目に見えており、といってちょっとでもアンフェアをもち出せば軽蔑され、場合によっては罰せられる。しかも、ここにはいかなる差別もないとみなされる。これほどの過酷かつ欺瞞的な状況があろうか?>
<私が(中略)ある種の障害者に対して不快感とも嫌悪感とも言えないどうしようもない違和感を抱いてしまう。そういう違和感を抱いた瞬間に、私はそういう感情を抱いている自分を激しく責める。そして相手の「過酷な人生」を評価しようとする。つまり、そういうふうにして、私は彼の人生を勝手に「過酷なもの」とみなし、それを尊敬しようと努力し始めるのだ。しかもそういう自分の「嫌悪から尊敬への屈折」の狡さをも見通している。これには、さまざまな感情がまといついている。彼の人生を一概に「過酷な人生」と決めつけることはできないかもしれない。そう決めつけることこそが差別感情なのだ、だから過酷な人生を「尊敬する」という感情もじつは差別感情の表れなのだ…という判断が脳髄でざわざわ音を立てている。>
<はたして、私は本当に「障害者を差別してはならない」という信念を抱いているのであろうか?(中略)私は、ただ自分を守るために、そう信じ込もうとしているだけなのではないか?障害者に冷たい視線を注ぐ自分に嫌悪感を覚えるから、「障害者を差別してはならない」という信念を抱いていると思い込もうとしているだけなのではないか?
もっと言えば、お前はじつは何も悩んでいないのではないか?一瞬、悩む振りをして、自分自身に免罪符を発行して、こうした事態に直面して悩み苦しむ自分は棄てたものではないと思い込みたいだけなのではないか?そういう複雑そうでいて、すべては自己防衛に基づくゲームを一心不乱に続けているだけなのではないか?お前は、俺はダメだダメだと自分に言い聞かせながら、そういう自分は簡単に障害者を切り捨ててしまう多くの男女より高級な人間だと思っているのではないか?そう思って安心し、自分を慰めているのではないか?>
最後の引用が少し長くなりましたが、自分の胸に一番ぐさりと突き刺さったところです。
差別感情は人間である限り、決してなくすことはできないと思うのです。が、それで仕方がないとあきらめるのではなく、著者の言うように、その感情から逃げずに正面から向き合い、自分の中に巣食うごまかし、言い訳、怠惰、非情さと戦い続けることが自分に対して、また自分以外の全ての人に対して誠実に生きることなのではないかと思います。
いつもの安藤書店に寄って以下の本を購入
野呂邦暢「愛についてのデッサン―佐古啓介の旅」 みすず書房
多和田葉子「球形時間」 新潮社
小池昌代「悪事」 扶桑社