ステージおきたま

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新作にかかります!仮題『女たちの満州』

2016-02-27 09:04:41 | 演劇

 ようやく全体構想ができた。出演のキャラクターもほぼ固まったし、各シーンのエピソードもほぼそろった。ただ、役者については、菜の花座だけでまかなえないので、目下交渉中。でも、もう書き始める。当初の締め切りは来週火曜日、それはどう考えても無理なので、1週間伸ばしてもらった。あと10日、フル回転で頑張らなくちゃいかん。

 タイトルは『女たちの満州』、とりあえず付けてはみたけど、資料として読んだ本2冊もこのタイトル、うーん、芸がない。しばらくこのままで書き進めて、いいアイディアが出れば、変更といきたいところだが、人間慣れってのは恐ろしいもので、その名で呼んでいるといつの間にか、それしかないように感じられてくるから、結局、このままかも知れない。満州と入れば、多少なりと歴史知識のある人なら、書かれた時代、扱う素材がほぼ見当がつく。そのことが、興味を引くことになるのか、逆に引かれてしまうのか、難しいところじゃあるが。

 前々回の菜の花座野外公演『お遍路颪』と同じく、歴史的事件の裏側の女たちに注目した。満州(現中国東北部)と言えば、5族協和、王道楽土をスローガンとして生まれた傀儡国家満州国やその経済的な背骨満鉄(南満州鉄道)、様々な謀略で戦線拡大をリードした関東軍、さらにはあだ花的な満映(満州映画協会)など、歴史を振り返るには恰好の題材が目白押しだが、中でも満州開拓はその無謀さ、それ故の悲惨な結末によって日本人の心の片隅に棘のように刺さったままでいる。残留日本人の帰還問題や、帰還した人たちの困窮生活など、現在の問題であり続けてもいる。

 広大な土地で大規模営農を夢見て大陸に渡った青年たちの多くは独身者だった。移民当初は、強引に土地を取り上げられた現地農民や匪賊との武力衝突など緊迫感に満ちた暮らしぶりであったが、増強される後続の開拓者ととも、徐々に農場経営も軌道に乗り、安定した家族の支えが求められるようになった。花嫁の需要だ。そこで、政府、民間一体となって進められたのが、満州開拓女塾の制度だった。国内で様々な伝手を頼りに勧誘した娘たちを満州各地に設けられた教育施設に送り込み、半ば強制的な見合いを繰り返して開拓青年に嫁として供給したのだった。

 様々な問題を孕みつつも、開拓者の家族問題もやや好転したが、戦局の急激な悪化とともに、男たちは軍に召集される。ほとんど女と子ども年寄りばかりとなった開拓地に、終戦直前の1945年8月9日ソ連軍が襲いかかり、それまで日本人の暴圧に耐えてきた中国人、朝鮮人の決起襲撃なども加わった。惨殺、暴行、饑餓をかいくぐりつつの逃避行は、筆舌尽くしがたい惨劇を随所に引き起こした。ようやく翌年からは始まった帰還事業でも、帰り着けた女性は50%強、子どもは100人に1人とも言われている。たくさんの女性が苦難の中で、現地滞留を余儀なくされ、中国人養父母の元で育てられた子どもたちも多数に上っている。今に尾を引く深い傷跡だ。

 と、なんか歴史の授業のようになってしまった。そんなこと言われなくたってわかってるって人たちには時間の無駄をさせた。申し訳ない。でも、たかだか70~80年前の事実でさえ、はじめて聞いた!なんて層がかなりあるのじゃないだろうか。歴史教育は明治止まりだし、日本にとって不都合な話題は自虐史観などとレッテルを貼られて葬り去られる時代だから。あったことをあったと伝えることでさえ、大切なことのように思える。厭な時代になった。そんな昨今の風潮に少しばかり刃向かってみようかというのが、『女たちの満州』を書かせる一つの動機だ。

 事実があまりにも重い。たくさん出されている手記や記録の中の言葉を追うだけでずっしり沈んでしまう。体験者たちの幾多の証言、これ以上の表現があるわけもないし、創作の余地などまったくないとも思い悩んだ。でも、その残状に至る女たちの歩みは意外と知られていない。娘たちが言葉巧みに誘われ、追い立てられて、大陸の花嫁になっていく有様を物語りとして作り上げてみたい。しかも、現実にはあり得なかった他者(現地中国人)との相互理解への足場かけを試みてみたい。せいぜい自ら尻にむち打ちつつ、暗い破局へ向かって言葉を連ねていこう。

 

 

 

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