ステージおきたま

無農薬百姓33年
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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

街には広場が欲しい!

2024-08-02 09:02:09 | 社会
井上ひさしの『イーハトーボの劇列車』、宮沢賢治の生涯を賢治の「銀河鉄道の夜」に重ね合わせて描いた素晴らしい作品だ。



ただ、

宗教談義もみっちりある上に、やたら長セリフも多く、役者泣かせだし、さらには、場面の合い間には上野・岩手間の列車内が何度も現れて、えっ、その都度列車出すの?って演出が頭を悩ませる舞台でもあった。

まっ、アマチュア劇団は気軽に手を出しかねる大作だが、恐れを知らぬ菜の花座、上演しちまったからねぇ、無謀!の一言。

さすがに宗教問答には手を焼いて、劇団初にして最後の幕袖ブロンプ待機でなんとか乗り切った?ってことにしておこう。
地元高校演劇部の生徒多数の友情出演も得て、列車も出したしね、なんと、車体を座席に座る出演者全員で歩きつつ舞台に出しはけするって、前代未聞、驚天動地の仕掛け!が今となっちゃ、良き思い出、って、ほら、ジジイはすぐに思いにふける、前を向けんのか、前を!

そうだ、前を向く話しなんだ。向き合う話しなんだ。

『イーハトーボの劇列車』、登場人物たちが、それぞれの思いを語って銀河鉄道に乗り込んで行くという印象的なシーンがラストなんだが、賢治を演じた素人役者、たしか農民だったかな?
呟く言葉。

「街に広場があればなぁ!みんなで語り明かせる広場があればなぁ!」
井上ひさしの心からの願いだったな、間違いなく。

そうなんだ、日本には広場ない!集い、語り明かせる広場がない。ヨーロッパの都市と、なんという違いだろう。あちらは市庁舎の前には噴水などあってそれをぐるりと囲むように広場がある。
置かれたベンチや、池の縁など腰を下ろし、友人たちと語り明かしながら、ゆったりとした時を過ごす。時には、その議論が市政への不満や要求に高まり、政治集会となり変革へのエネルギーが沸騰する場ともなる。

日本はどうだ、人が集まりそうな駅前は広場であるより、流路だ、行き交う人の流れをスムーズに滞留することなく流す通路だ。無理なく無駄なく人々が流れて行く。立ち止まれば、たちまち邪魔者扱いされて舌打ちされたりする。

キッチンカーも屋台も寄せ付けない。ベンチはバス待ちの停留所にわずかに一つ。流れに乗れぬ者たち、年寄りや障碍者たちに利用者は限定、仕方ねえ、置いておくか。時に泥酔した男とか。

公園はどうだ?ここは子どもたちを占有者に設定された数少ない憩いの場。ゆったりと横になって休もうにも、コロナを言い訳にどんどん意地悪ベンチに置き換わっていっている。

地方じゃもっと酷い!人が行き交うのはスーパーの店内のみ!目的は買い物限定、当然だけど。ここも交流など生まれっこない。

小さな地域共同体も消滅しつつあるし、もはや、日本人は、知り合い以外の人間同士が寄り集うことの意義を忘れてしまった、って言うより、群れ集うこと自体を恐れているのかもしれない。権力者ばかりの話しじゃないぞ。

だから、デモやスタンディングに白い眼を向ける。政治をずばり語ることへの違和感とともに、立ち止まり、語り掛けることへの嫌悪感がありありなんだぜ。

大阪道頓堀の戎橋で、 ひとりチェロを演奏していた若者が逮捕された。逮捕だ、逮捕。理由は通行の妨げになるから。行き交う人に演奏を聞いて欲しかった、それが若者の動機だ。政治的な意図などさらさらない。

路上でのささやかなパフォーマンスでさえも許せない、警察の硬直した取締り姿勢、その根元にあるのは、人が立ち止まり、語りかわし、群れとなることへの嫌悪、恐怖があるのは間違いない。

で、その頑なな警察力の行使を道行く人たちが暗に支持している、これが日本!

集うこと、語り合うこと、行動することを厭う社会、先に見えるのは真逆の熱狂的集団主義だぜ、きっと!

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