ステージおきたま

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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

役者いびり

2015-07-10 11:35:07 | 演劇

 週に3日となった菜の花座の稽古、今はもっぱら若手を鍛えいる。激しさの程度から言えば、絞っているとか、いびっているとかの表現の方が似つかわしいかもしれない。せりふ一つに30分はざらだ。発声の基本に立ち返って厳しく要求する場合もある。アクセントやインとーネーションも何度も繰り返す。昨日などは、耳が悪い!もっと聞き分ける力をつけろ!聞いて判らなかったらせりふを書き出してアクセントの高低を書き込んで視覚で覚えろ!と面罵?した。

 シニアメンバーの前での徹底したダメだしは相当きついだろう。それまで培ってきた役者10数年の自信もずたずたにされて、かろうじて泣き崩れる寸前で稽古している。辛いだろうなとは思うけど、今回は良い機会だと思う。『お遍路颪』、とても難しい作品なのだ。獄中死した夫と現在の情夫の間で身もだえする女の激情とか、不倫する妻を激しく責める男を女が演じるとか、これまでの演技レパートリーではとても突破できない難関が続出する。これまでの菜の花座の作品と違うのだ。

 行き惑っている役者たち、責任は作者・演出としての僕にもある。菜の花座公演と言えば、笑いの中にちょっぴりほろり!を目指して舞台を作ってきた。つまり軽い作品で勝負してきたってことだ。ぎりぎり突き詰めた感情表現などは少なく、あっても真剣に追求しては来なかった。だから、悲しみでも怒りでも、それっぽく演じることで済ませてしまっていた。役の気持ちを作ってせりふを出せ、と言葉では言っていてもとことん追いつめてはいなかった。

 そのつけがここで露わになってしまったということなのだと思う。ともかく、ありきたりの表現、それらしい言い方の繰り返しなのだ。完全にパターン化してしまっていて、せりふ回しはどのせりふでも同じ、苦しい気持ちを表せばすぐに泣きの演技に行ってしまう。感情を込めること=泣きの演技に役者マインドが固着してしまっているのだ。

 これまではそれがその役者の個性、持ち味と見なして容認してきた。でも、今回のぎりぎりシリアスなせりふになって来ると、とてもとても、そんな出来合いのその場しのぎでは乗り切れない。登場人物の心の動きに沿わせて役者も心を揺らめかせて行かなくてはならない。それができない。人間、染みついたものから抜け出すのは、本当に難しい。

 まずは、今までの自分を否定するところから始めるしかない。ちゃちな持ち技で適当にやり過ごすことに疑問を持つことが出発点だ。そして基本に返る。動かず震えなくなった心に血を通わせること。心の底からわき上がってくる感情をしっかりつかみ素直にそれに従うことだ。それと、台本をもっともっと読み込むこと、ここからしか前には進めない。

 『お遍路颪』が、役者としての再生の場、菜の花座にとっては新境地を開く場になることを願って、明日も稽古、明後日は装置つくりと続く。

 

 

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