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墨子 巻四 兼愛上(原文・読み下し・現代語訳)

2022年05月15日 | 新解釈 墨子 現代語訳文付
墨子 巻四 兼愛上(原文・読み下し・現代語訳)
「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠

《兼愛上》:原文
聖人以治天下為事者也、必知乱之所自起、焉能治之、不知乱之所自起、則不能治。譬之如医之攻人之疾者然、必知疾之所自起、焉能攻之、不知疾之所自起、則弗能攻。治乱者何獨不然、必知乱之所自起、焉能治之、不知乱之所自起、則弗能治。聖人以治天下為事者也、不可不察乱之所自起。
當察乱何自起、起不相愛。臣子之不孝君父、所謂乱也。子自愛不愛父、故虧父而自利。弟自愛不愛兄、故虧兄而自利。臣自愛不愛君、故虧君而自利。此所謂乱也。雖父之不慈子、兄之不慈弟、君之不慈臣、此亦天下之所謂乱也。父自愛也不愛子、故虧子而自利、兄自愛也不愛弟、故虧弟而自利、君自愛也不愛臣、故虧臣而自利。是何也。皆起不相愛。
雖至天下之為盜賊者亦然、盜愛其室不愛其異室、故竊異室以利其室。賊愛其身不愛人、故賊人以利其身。此何也。皆起不相愛。雖至大夫之相乱家、諸侯之相攻國者亦然。大夫各愛其家、不愛異家、故乱異家以利其家、諸侯各愛其國、不愛異國、故攻異國以利其國、天下之乱物具此而已矣。察此何自起。皆起不相愛。
若使天下兼相愛、愛人若愛其身、猶有不孝者乎。視父兄與君若其身、悪施不孝。猶有不慈者乎。視弟子與臣若其身、悪施不慈。故不孝不慈亡有、猶有盜賊乎。故視人之室若其室、誰竊。視人身若其身、誰賊。故盜賊亡有。猶有大夫之相乱家、諸侯之相攻國者乎。視人家若其家、誰乱。視人國若其國、誰攻。故大夫之相乱家、諸侯之相攻國者亡有。
若使天下兼相愛、國與國不相攻、家與家不相乱、盜賊無有、君臣父子皆能孝慈、若此則天下治。故聖人以治天下為事者、悪得不禁悪而勧愛。故天下兼相愛則治、交相悪則乱。故子墨子曰、不可以不勧愛人者、此也。

字典を使用するときに注意すべき文字
兼、幷也。相從也。 互いに尊重する、の意あり。
起、舉也。猶行也。猶發也。 ゆらいする、おこる、の意あり。
亡、逃也。失也。同無。 なし、の意あり。


《兼愛上》:読み下し
聖人の天下を治むるを以って事と為す者は、必ず乱の自(よ)りて起(た)つ所を知り、焉(すなは)ち能く之を治め、乱の自(よ)りて起る所を知らずは、則ち治むるは能(あた)はず。之を譬(たとえ)へば医の人の疾(やまい)を攻むものの如くに然(しか)り、必ず疾(やまひ)の自りて起(た)つ所を知り、焉(すなは)ち能く之を攻め、疾(やまい)の自りて起(た)つ所を知らずは、則ち能く攻るはなし。乱を治めるものは何ぞ獨り然(しか)らざらむ、必ず乱の自りて起(た)つ所を知り、焉(すなは)ち能く之を治め、乱の自りて起(た)つ所を知らずは、則ち能く治むるはなし。聖人の天下を治めるを以って事と為す者は、乱の自(よ)りて起つ所を察(さっ)せず可(べ)からず。
當(まさ)に乱が何に自(よ)りて起(た)つを察(さっ)せは、相(あい)愛(あい)せざるに起(た)つ。臣子の君父に孝ならざるは、謂う所は乱なり。子が自らを愛しみ父を愛しまずは、故に父を虧(か)き而(しかる)に自(みずか)らを利する。弟が自ら愛しみ兄を愛しまずは、故に兄を虧(か)き而に自(みずか)らを利する。臣が自らを愛しみ君を愛しまずは、故に君を虧(か)き而に自らを利する。此の謂う所は乱なり。父は子を慈(いつく)しまず、兄は弟を慈(いつく)しまず、君は臣を慈(いつく)しまずと雖(いへど)も、此れ亦た天下の謂う所の乱なり。父は自らを愛しみ子を愛しまず、故に子を虧(か)き而に自らを利し、兄が自らを愛しみ弟を愛しまず、故に弟を虧(か)き而に自らを利し、君の自らを愛しみ臣を愛しまず、故に臣を虧(か)き而に自らを利す。是れ何ぞや。皆相(あい)愛(あい)せずに起(おこ)る。
天下の盜賊(とうぞく)を為す者に至ると雖(いへど)も亦た然(しか)り、盜(とう)は其の室を愛しみ其の異室を愛しまず、故に異室を竊(ぬす)みて以って其の室を利す。賊(ぞく)は其の身を愛しみ人を愛しまず、故に賊は人を以って其の身を利する。此れ何ぞや。皆相(あい)愛(あい)せずに起(おこ)る。大夫の家は相(あい)乱(みだ)れ、諸侯が國を相(あい)攻(せ)むるものに至ると雖(いへど)も、亦た然り。大夫は各(おのおの)の其の家を愛しみ、異家を愛しまず、故に異家の乱れを以って其の家を利し、諸侯は各(おのおの)の其の國を愛しみ、異國を愛しまず、故に異國を攻め以って其の國を利す。天下の乱物(らんぶつ)、此に具(そな)え而して已(や)まむ。此は何に自(よ)りて起(た)つを察するに、皆相(あい)愛(あい)ぜすに起(おこ)る。
若(も)し天下をして兼(けん)にして相(あい)愛(あい)し、人を愛しみ其の身を愛しむが若(ごと)くなら使(し)めば、猶(なお)不孝の者有らむや。父兄と君とを其の身の若(ごと)く視(み)れば、悪(いずくむ)ぞ不孝を施(な)さむ。猶(なお)慈(いつくし)みならざる者有るや。弟子と臣を其の身の若く視(み)れば、悪(いずくむ)ぞ不慈(ふじ)を施(な)さむ。故に不孝(ふこう)不慈(ふじ)の有ること亡(な)し、猶(なお)盜賊(とうぞく)は有らむや。故に人の室を其の室の若(ごと)く視れば、誰が竊(ぬす)む。人の身を其の身の若(ごと)く視れば、誰か賊せむ。故に盜賊(とうぞく)は有るは亡(な)し。猶(なお)大夫の家の相(あい)乱(みだ)れ、諸侯の國を相(あい)攻(せ)むものは有らむや。人の家を其の家の若(ごと)く視れば、誰か乱(みだ)さむ。人の國を其の國の若(ごと)く視れば、誰か攻めむ。故に大夫の家の相(あい)乱(みだ)れ、諸侯の國を相(あい)攻(せ)むの有るは亡(な)し。
若(も)し天下をして兼(けん)にして相(あい)愛(あい)し、國と國とは相攻めず、家と家とは相乱れず、盜賊の有るを無(な)から使(し)めば、君臣父子は皆能(よ)く孝慈(こうじ)ならむ、此の若(ごと)きに則ち天下は治まる。故に聖人の天下を治めるを以って事と為す者、悪(いずくむ)ぞ悪(あく)を禁じ而して愛しむを勧(すす)むを得ざらむや。故に天下は兼(けん)にして相(あい)愛(あい)すば則ち治(おさ)まり、交(こもご)も相(あい)悪(にく)めば則ち乱れる。故に子墨子の曰く、以って人を愛しむことを勧(すす)めざる可からずは、此(こ)れなり。


《兼愛上》:現代語訳
聖人で天下を統治することをもって事業とする者は、必ず戦乱がどこから起きて来るのかを知れば上手く天下を統治し、戦乱がどこから起きて来るのを知らなければ上手く統治することが出来ない。これを例えれば、医者が病と闘うようなもので、必ず病がどこから生じて来たのかを知れば、きっと、病と上手く戦い、病がどこから生じて来たのかを知らなければ、病と上手く戦うことが出来ない。戦乱を治めることが、どうして、それだけが特別な話となるだろうか。必ず戦乱がどこから起きて来るのかを知れば、まず、上手に戦乱を治め、戦乱がどこから起きて来るのかを知らなければ、それでは戦乱を治めることはない。聖人で天下を統治することをもって事業とする者は、戦乱がどこから起きて来るのかを理解しなければならない。
そこで戦乱がどのような理由に起因するかを考察すると、それは互いに愛しまないことに起因する。臣下や子が君主や父に孝行を行わないのは、我が語るところでは戦乱の一つだ。子が自分だけを愛しみ父を愛しまないことでは、それでは父の立場を損ない、自分だけが利益を得ることになる。弟が自分だけを愛しみ兄を愛しまないことでは、それでは兄の立場を損ない、自分だけが利益を得ることになる。臣下が自分だけを愛しみ君主を愛しまないことでは、それでは君主の立場を損ない、自分だけが利益を得ることになる。この語るところは戦乱の一つだ。父は子を慈しまず、兄は弟を慈しまず、君主は臣下を慈しまないのも、これはまた語るところは戦乱の一つだ。父は自分だけを愛しみ子を愛しまないことでは、それでは子の立場を損ない自分だけが利益を得、兄が自分だけを愛しみ弟を愛しまないことでは、これでは弟の立場を損ない自分だけが利益を得、君主が自分だけを愛しみ臣下を愛しまないことでは、それでは臣下の立場を損ない自分だけが利益を得ることなのだ。これはどのようなことだろうか。それは皆が互いに愛しまないからである。
この話が天下の盗賊の者に至るとしても、同じである。盗賊は自分の一家を愛しんでもその他の一家を愛しまないから、それで他の一家の財を盗み自分の一家の利益を得る。盗賊は自分の身を愛しみ他人を愛しまないから、それで盗賊は他人の身ぐるみを剥ぐことにより、はぎ取った衣装で自分の身を守ることの利益を得る。これはどのようなことだろうか。それは皆が互いを愛しまないからである。大夫の一族は互いの関係が乱れ、諸侯の国は互いに攻略するような状況になったとしても、それはまた同じである。大夫は各々がその一族の者を愛しむも他の一族を愛しまないから、それで他の一族の混乱により自分の一族の利益を得、諸侯は各々のその国を愛しむも他の国を愛しまないから、それで異国を攻略することで自分の国の利益を得る。天下の戦乱はここに集約される。このような戦乱がどのような理由に起因するかを考察すると、それは互いに愛しまないことに起因する。
もし、天下にたいして互いに立場を尊重し互いに愛しみ、他人を愛しむことが自分の身を愛しむと同じようにさせれば、それでもなお、不幸な者がいるだろうか。父兄や君主のことを自分のことのように思えば、どうして不孝な行いを施すだろうか。それでも、相手を慈しまない者がいるだろうか。弟や子、臣下のことを自分のことのように思えば、どうして不慈の行いを施すであろうか。それで不孝や不慈の行いは無くなり、どうして盗賊が現れるだろうか。このように他人の一家を自分の一家のように思えば、誰が他の一家から盗むだろう。他人の身を自分の身のように思えば、誰が他人の身ぐるみを剥ぐだろう。このような理由で盗賊は現れないのだ。また、大夫の一族は互いに関係が乱れ、諸侯の国は互いに攻略することがあるだろうか。他人の一族を自分の一族のように思えば、誰が他人の一族を混乱させるだろうか。他の諸侯の国を自分の国のように思えば、誰がその国を攻略するだろうか。このような理由で大夫の一族で互いに混乱に陥り、諸侯の国で互いに攻略することは無くなる。
もし、天下に対して互いに立場を尊重し互いに愛しみ、国と国とは互いに攻略せず、家と家とは互いに混乱させず、盗賊は現れないようにすれば、君臣父子の皆はきっと孝慈となるであろう。このようなことで天下は治まるのだ。このため、聖人で天下を統治することを事業とする者は、どうして、憎むことを禁じ、愛しむことを勧めないのであろうか。そのような理由により、天下は「兼」、互いに立場を尊重して愛しめばきっと国は治まり、互いに憎悪すればきっと乱れる。このような訳で、子墨子が言うことには、『このようなことで、人を愛しむことを勧めない訳にはいかないのだ。』とは、このことである。

注意:
1.「徳」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは韓非子が示す「慶賞之謂德(慶賞、これを徳と謂う)」の定義の方です。つまり、「徳」は「上からの褒賞」であり、「公平な分配」のような意味をもつ言葉です。
2.「利」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは『易経』で示す「利者、義之和也」(利とは、義、この和なり)の定義のほうです。つまり、「利」は人それぞれが持つ正義の理解の統合調和であり、特定の個人ではなく、人々に満足があり、不満が無い状態です。
3.「仁」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『礼記禮運』に示す「仁者、義之本也」(仁とは、義、この本なり)の定義の方です。つまり、世の中を良くするために努力して行う行為を意味します。
また、墨子の根本思想に「無条件の公平」と云うものはありません。天が定めた天子を頂点とするピラミッド型の階級社会構造が前提です。また、このピラミッド型の階級社会構造が前提の為に、上位下達の統治体制が基準とします。ただし、階級社会構造は職務実力成果主義の思想を提案します。このような思想を前提とする判断から、「兼」の解釈には「幷也。相從也。」を採用し、「互いに立場を尊重する」の意味としています。公平や無差別平等とは意味合いを異にします。

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