竹取翁と万葉集のお勉強

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墨子 巻十二 公孟(原文・読み下し・現代語訳)

2022年10月02日 | 新解釈 墨子 現代語訳文付
墨子 巻十二 公孟

《公孟》
公孟子謂子墨子曰、君子共己以待、問焉則言、不問焉則止。譬若鍾然、扣則鳴、不扣則不鳴。子墨子曰、是言有三物焉、子乃今知其一身也、又未知其所謂也。若大人行淫暴於國家、進而諫、則謂之不遜、因左右而献諫、則謂之言議。此君子之所疑惑也。若大人為政、将因於國家之難、譬若機之将発也然、君子之必以諫、然而大人之利、若此者、雖不扣必鳴者也。若大人挙不義之異行、雖得大巧之経、可行於軍旅之事、欲攻伐無罪之國、有之也、君得之、則必用之矣。以廣辟土地、著税偽材、出必見辱、所攻者不利、而攻者亦不利、是両不利也。若此者、雖不扣必鳴者也。且子曰、君子共己待、問焉則言、不問焉則止、譬若鍾然、扣則鳴、不扣則不鳴。今未有扣、子而言、是子之謂不扣而鳴邪。是子之所謂非君子邪。
公孟子謂子墨子曰、實為善、人孰不知。譬若良玉、處而不出有餘糈。譬若美女、處而不出、人争求之。行而自衒、人莫之取也。今子遍従人而説之、何其労也。子墨子曰、今夫世乱、求美女者衆、美女雖不出、人多求之、今求善者寡、不強説人、人莫之知也。且有二生、於此善筮。一行為人筮者、一處而不出者。行為人筮者與處而不出者、其糈孰多。公孟子曰、行為人筮者其糈多。子墨子曰、仁義鈞。行説人者、其功善亦多、何故不行説人也。
公孟子戴章甫、搢忽、儒服、而以見子墨子曰、君子服然後行乎。其行然後服乎。子墨子曰、行不在服。公孟子曰、何以知其然也。子墨子曰、昔者、齊桓公高冠博帯、金剣木盾、以治其國、其國治。昔者、晋文公大布之衣、牂羊之裘、韋以帯剣、以治其國、其國治。昔者、楚莊王鮮冠組纓、縫衣博袍、以治其國、其國治。昔者、越王句踐剪髮文身、以治其國、其國治。此四君者、其服不同、其行猶一也。翟以是知行之不在服也。公孟子曰、善。吾聞之曰宿善者不祥、請舍忽、易章甫、復見夫子可乎。子墨子曰、請因以相見也。若必将舍忽、易章甫、而後相見、然則行果在服也。
公孟子曰、君子必古言服、然後仁。子墨子曰、昔者、商王紂、卿士費仲、為天下之暴人、箕子、微子為天下之聖人、此同言而或仁不仁也。周公旦為天下之聖人、関叔為天下之暴人、此同服或仁或不仁。然則不在古服與古言矣。且子法周而未法夏也、子之古非古也。
公孟子謂子墨子曰、昔者聖王之列也、上聖立為天子、其次立為卿、大夫、今孔子博於詩、書、察於禮楽、詳於萬物、若使孔子當聖王、則豈不以孔子為天子哉。子墨子曰、夫知者、必尊天事鬼、愛人節用、合焉為知矣。今子曰、孔子博於詩書、察於禮楽、詳於萬物、而曰可以為天子、是數人之歯、而以為富。
公孟子曰、貧富壽夭、齰然在天、不可損益。又曰、君子必学。子墨子曰、教人学而執有命、是猶命人葆而去其冠也。
公孟子謂子墨子曰、有義不義、無祥不祥。子墨子曰、古聖王皆以鬼神為神明、而為禍福、執有祥不祥、是以政治而國安也。自桀紂以下、皆以鬼神為不神明、不能為禍福、執無祥不祥、是以政乱而國危也。故先王之書、子亦有之曰、其傲也、出於子、不祥。此言為不善之有罰、為善之有賞。
子墨子謂公孟子曰、喪禮、君與父母、妻、後子死、三年喪服、伯父、叔父、兄弟期、族人五月、姑、姊、舅、甥皆有數月之喪。或以不喪之閒、誦詩三百、弦詩三百、歌詩三百、舞詩三百。若用子之言、則君子何日以聴治。庶人何日以従事。公孟子曰、「國乱則治之、國治則為禮楽。國治則従事、國富則為禮楽。子墨子曰、「國之治。治之廃、則國之治亦廃。國之富也、従事、故富也。従事廃、則國之富亦廃。故雖治國、勧之無饜、然後可也。今子曰、國治、則為禮楽、乱則治之、是譬猶噎而穿井也、死而求医也。古者三代暴王桀紂幽厲、薾為聲楽、不顧其民、是以身為刑僇、國為戾虛者、皆従此道也。
公孟子曰、無鬼神。又曰、君子必学祭祀。子墨子曰、執無鬼而学祭禮、是猶無客而学客禮也、是猶無魚而為魚𦊟也。
公孟子謂子墨子曰、子以三年之喪為非、子之三日之喪亦非也。子墨子曰、子以三年之喪非三日之喪、是猶裸謂撅者不恭也。
公孟子謂子墨子曰、知有賢於人、則可謂知乎。子墨子曰、愚之知有以賢於人、而愚豈可謂知矣哉。
公孟子曰、三年之喪、学吾之慕父母。子墨子曰、夫嬰兒子之知、獨慕父母而已。父母不可得也、然號而不止、此其故何也。即愚之至也。然則儒者之知、豈有以賢於嬰兒子哉。
子墨子曰問於儒者、何故為楽。曰、楽以為楽也。子墨子曰、子未我應也。今我問曰、何故為室。曰、冬避寒焉、夏避暑焉、室以為男女之別也。則子告我為室之故矣。今我問曰、何故為楽。曰、楽以為楽也。是猶曰何故為室。曰室以為室也。
子墨子謂程子曰、儒之道足以喪天下者、四政焉。儒以天為不明、以鬼為不神、天鬼不説、此足以喪天下。又厚葬久喪、重為棺槨、多為衣衾、送死若徙、三年哭泣、扶後起、杖後行、耳無聞、目無見、此足以喪天下。又弦歌鼓舞、習為聲楽、此足以喪天下。又以命為有、貧富壽夭、治乱安危有極矣、不可損益也、為上者行之、必不聴治矣、為下者行之、必不従事矣、此足以喪天下。程子曰、甚矣。先生之毀儒也。子墨子曰、儒固無此若四政者、而我言之、則是毀也。今儒固有此四政者、而我言之、則非毀也、告聞也。程子無辭而出。子墨子曰、迷之。反、後坐、進復曰、郷者先生之言有可聞者焉、若先生之言、則是不誉禹、不毀桀紂也。子墨子曰、不然、夫應孰辭、稱議而為之、敏也。厚攻則厚吾、薄攻則薄吾。應孰辭而稱議、是猶荷轅而撃蛾也。
子墨子與程子辯、稱於孔子。程子曰、非儒、何故稱於孔子也。子墨子曰、是亦當而不可易者也。今鳥聞熱旱之憂則高、魚聞熱旱之憂則下、當此雖禹湯為之謀、必不能易矣。鳥魚可謂愚矣、禹湯猶云因焉。今翟曾無稱於孔子乎。
有游於子墨子之門者、身體強良、思慮徇通、欲使隨而学。子墨子曰、姑学乎、吾将仕子。勧於善言而学。其年、而責仕於子墨子。子墨子曰、不仕子、子亦聞夫魯語乎。魯有昆弟五人者、其父死、其長子嗜酒而不葬、其四弟曰、子與我葬、當為子沽酒。勧於善言而葬。已葬、而責酒於其四弟。四弟曰、吾末予子酒矣、子葬子父、我葬吾父、豈獨吾父哉。子不葬、則人将笑子、故勧子葬也。今子為義、我亦為義、豈獨我義也哉。子不学、則人将笑子、故勧子於学。
有游於子墨子之門者、子墨子曰、盍学乎。對曰、吾族人無学者。子墨子曰、不然、夫好美者、豈曰吾族人莫之好、故不好哉。夫欲富貴者、豈曰我族人莫之欲、故不欲哉。好美、欲富貴者、不視人猶強為之。夫義、天下之大器也、何以視人必強為之。
有游於子墨子之門者、謂子墨子曰、先生以鬼神為明知、能為禍人哉福。為善者富之、為暴者禍之。今吾事先生久矣、而福不至、意者先生之言有不善乎。鬼神不明乎。我何故不得福也。子墨子曰、雖子不得福、吾言何遽不善。而鬼神何遽不明。子亦聞乎匿徒之刑之有刑乎。對曰、未之得聞也。子墨子曰、今有人於此、什子、子能什誉之、而一自誉乎。對曰、不能。有人於此、百子、子能終身誉其善、而子無一乎。對曰、不能。子墨子曰、匿一人者猶有罪、今子所匿者若此其多、将有厚罪者也、何福之求。
子墨子有疾、跌鼻進而問曰、先生以鬼神為明、能為禍福、為善者賞之、為不善者罰之。今先生聖人也、何故有疾。意者先生之言有不善乎。鬼神不明知乎。子墨子曰、雖使我有病、何遽不明。人之所得於病者多方、有得之寒暑、有得之労苦、百門而閉一門焉、則盜何遽無従入。
二三子有復於子墨子学射者、子墨子曰、不可、夫知者必量其力所能至而従事焉、國士戦且扶人、猶不可及也。今子非國士也、豈能成学又成射哉。
二三子復於子墨子曰、告子曰、言義而行甚悪。請棄之。子墨子曰、不可、稱我言以毀我行、愈於亡。有人於此、翟甚不仁、尊天、事鬼、愛人、甚不仁、猶愈於亡也。今告子言談甚辯、言仁義而不吾毀、告子毀、猶愈亡也。
二三子復於子墨子曰、告子勝為仁。子墨子曰、未必然也。告子為仁、譬猶跂以為長、隱以為廣、不可久也。
告子謂子墨子曰、我治國為政。子墨子曰、政者、口言之、身必行之。今子口言之、而身不行、是子之身乱也。子不能治子之身、悪能治國政。子姑亡、子之身乱之矣。


《公孟》
公孟子の子墨子に謂いて曰く、君子は己(おのれ)を共にして以(よ)りて待つ、焉(ここ)に問はば則ち言(したが)ひ、焉(ここ)に問はざれば則ち止む。譬へば鍾の若(ごと)くに然(しか)り、扣(たた)けば則ち鳴る、扣かずば則ち鳴らず。子墨子の曰く、是の言に三物有り、子は乃(すなわ)ち、今、其の一身を知るのみなり、又た未だ其の謂う所を知らずなり。若し大人の國家にして淫暴を行うならば、進みて而に諫(いさ)めば、則ち之を不遜と謂い、左右に因りて而して諫(かん)を献ずれば、則ち之を言議(いぎ)と謂う。此は君子の疑惑する所なり。若し大人が政(まつりごと)を為せば、将に國家の難に因らば、譬へば若(も)し機の将に発するが若(ごと)きの然るとき、君子を必ず以って諫め、然り而して大人の利、此は、扣(たた)かずと雖(い)えども必ず鳴るものの若(ごと)し。若し大人が不義の異行を挙げ、大巧の経を得て、軍旅の事を行う可しを雖(すす)め、無罪の國を攻伐し、之を有し、君が之を得るを欲すは、則ち必ず之を用う。廣辟(こうへき)の土地を以って偽材に税を著(つ)け、出づれば必ず辱(はずかしめ)を見、攻めらるる者も利あらず、而して攻める者も亦(また)利あらず、是に両に利あらずなり。此は、扣(たた)かずと雖えども必ず鳴るものの若(ごと)し。且た子の曰く、君子が己と共に待つは、焉(これ)を問はば則ち言ひ、焉(これ)を問はずば則ち止む。譬へば鍾の然(しか)りが若(ごと)し、扣かば則ち鳴り、扣かずば則ち鳴らず。今、未だ扣かずに有れば、子は而(ま)た言く、是は子の謂く扣かずして而に鳴るものか。是は子の謂う所の君子に非らざるか。
公孟子の子墨子に謂いて曰く、實(まこと)に善を為すは、人は孰(たれ)か知らざらむ。譬へば良玉の若し、處(よ)りて而(しかる)に出でざるも餘糈(よしょ)有り。譬へば美女の若し、處りて而に出でずも、人は争ひ之を求む。行きて而して自ら衒(てら)へば、人は之を取る莫(な)しなり。今、子は遍く人に従ひ而して之を説く、何ぞ其を労するや。子墨子の曰く、今、夫れ世は乱れ、美女を求める者は衆(おお)く、美女は出でずと雖も、人は多く之を求む。今、善を求める者は寡(すく)なし、強(つと)めて人を説かずば、人の之を知るは莫しなり。且(ま)た二生は有り、此に於いて筮(ぜい)を善(よ)くす。一(あ)るは人の為に筮(ぜい)を為すを行う者と、一(あ)るは處(よ)りて而して出でず者なり。行きて人の為に筮(ぜい)する者と處(よ)りて而に出でず者、其の糈(しょ)は孰(いず)れか多しなるか。公孟子の曰く、行きて人の為に筮(ぜい)をなす者の其の糈(しょ)は多し。子墨子の曰く、仁義は鈞(ひと)し。行きて人を説く者の、其の功は善(ぜん)亦た多し、何ぞ故に行きて人を説かざらむや。
公孟子の章甫(しょうほ)を戴き、忽(こつ)を搢(さしはさ)み、儒服して、而して以って子墨子に見(まみ)えて曰く、君子は服(ふく)して然る後に行ふか。其の行ひて然る後に服(ふく)するか。子墨子の曰く、行ひは服に在(あ)らず。公孟子の曰く、何を以って其の然りを知るか。子墨子の曰く、昔は、齊の桓公は高冠(こうかん)博帯(はくたい)、金剣(きむけん)木盾(ぼくじゅん)、以って其の國を治めて、其の國は治まる。昔は、晋の文公は大布(たいふ)の衣、牂羊(そうよう)の裘、韋を以って剣を帯び、以って其の國を治め、其の國は治まる。昔は、楚の莊王は鮮冠(せんかん)組纓(そえい)、縫衣(ほうい)博袍(はくほう)、以って其の國を治め、其の國は治まる。昔は、越王句踐は剪髮(せんぱつ)文身(ぶんしん)、以って其の國を治め、其の國は治まる。此の四君の、其の服(ふく)すは同じからず、其の行は猶一つなり。翟の是に以(よ)りて行の服すに在らざるを知る。公孟子の曰く、善かな。吾の之を聞いて曰く善を宿(とど)むは不祥なり。請う忽(こつ)を舍(お)き、章甫(しょうほ)を易(か)え、復(また)夫子に見(まみ)えむは可(か)なるか。子墨子の曰く、請う因りて以って相(あい)見(まみ)えむ。若(も)し必ず将に忽(こつ)を舍(お)き、章甫を易(か)えなば、而して後に相(あい)見(まみ)えむ、然らば則ち行ひは果して服に在るや。
公孟子の曰く、君子の必ず古の言に服(ふく)し、然る後に仁。子墨子の曰く、昔は、商王紂の、卿士費仲(ひちゅう)、天下の暴人と為り、箕子、微子は天下の聖人と為る。此れ言(ことば)を同じくし而に或いは仁は仁ならずなり。周公旦は天下の聖人と為り、関叔は天下の暴人と為る。此れ服(ふく)すを同じくして或いは仁、或いは仁ならず。然らば則ち古服と古言とに在らず。且(ま)た子は周に法(の)り而に未だ夏に法(の)らずなり。子の古(いにしへ)は古に非ずなり。
公孟子の子墨子に謂いて曰く、昔の聖王(せいおう)の列するや、上聖は立ちて天子と為り、其の次は立ちて卿、大夫と為る、今、孔子は詩、書に博(ひろ)く、禮楽に察(あき)らかにして、萬物に詳(つまびら)かなり、若し孔子をして聖王に當ら使(し)むれば、則ち豈に孔子を以って天子と為さざらむか。子墨子の曰く、夫れ知る者は、必ず天を尊び鬼に事(つか)へ、人を愛し用を節し、合せて知と為らむや。今、子(し)の曰く、孔子は詩書に博く、禮楽に察らかにして、萬物に詳らかなり、而して曰く以って天子と為す可(べ)し、是れ人の歯を數(かぞ)へて、而して以って富と為すなり。
公孟子の曰く、貧富(ひんぷ)壽夭(じゅよう)、齰然(さくぜん)として天に在り、損益(そんえき)す可(べ)からず。又た曰く、君子は必ず学ぶ。子墨子の曰く、人に学ぶことを教え而して有命を執る、是は猶(なお)人に葆(ほう)を命じ而して其の冠を去るがごとしなり。
公孟子の子墨子に謂いて曰く、有義(ゆうぎ)不義(ふぎ)。無祥(むしょう)不祥(ふしょう)。子墨子の曰く、古の聖王は皆鬼神を以って神明と為す、而して禍福と為し、有祥(ゆうしょう)不祥(ふしょう)を執る。是は政(まつりごと)の治(おさむ)るを以って而して國は安(やす)しなり。桀紂自より以下、皆鬼神を以って神は明らかならずと為し、禍福と為すは能(あた)はず、無祥不祥を執る。是は政(まつりごと)の乱るを以って而して國は危(あやう)しなり。故に先王の書、子は亦た之は有りて曰く、其の傲(おご)るや、子(し)に出づる、不祥。此の言は不善を為すの罰有り、善を為すの賞有りと。
子墨子の公孟子に謂いて曰く、喪禮(もれい)の、君と父母、妻、後子の死、三年の喪服(そうふく)あり、伯父、叔父、兄弟に期(き)、族人に五月(ごつき)、姑、姊、舅、甥の皆數月の喪(そう)は有り。或いは以って不喪(ふそう)の閒、詩三百を誦し、詩三百を弦し、詩三百を歌ひ、詩三百を舞う。若し子(し)の言を用ふれば、則ち君子は何れの日か以って治(ち)を聴かむ。庶人は何れ日か以って事に従う。公孟子の曰く、國が乱れれば則ち之を治め、國が治むれば則ち禮楽(れいがく)を為す。國が治むれば則ち事に従う、國が富まば則ち禮楽を為す。子墨子の曰く、國の治(ち)。治を廃すは、則ち國の治亦た廃るなり。國が富むは、事に従い、故に富むなり。事に従うを廃すは、則ち國の富亦た廃るなり。故に國を治むと雖(いえ)ども、之を勧めて饜(あ)くこと無し、然る後に可なり。今、子(し)の曰く、國が治むれば、則ち禮楽を為し、乱(みだ)れれば則ち之を治む、是れ譬へば猶噎(むせ)びて而に井を穿(うが)ち、死して而に医を求むるがごときなり。古は三代の暴王桀紂幽厲、薾(さかん)に聲楽を為し、其の民を顧みず、是を以って身は刑僇(けいりく)と為り、國の虚に戻ると為るは、皆此の道に従うなり。
公孟子の曰く、鬼神は無し。又た曰く、君子は必ず祭祀を学ぶ。子墨子の曰く、無鬼を執り而して祭禮を学ぶは。是は猶(なお)客無くして而して客禮(きゃくれい)を学ぶがごとくなり、是は猶魚は無しにして而に魚罟(ぎょこ)を為すがごとくなり。
公孟子の子墨子に謂いて曰く、子は三年の喪(そう)を以って非と為す、子の三日の喪も亦た非なり。子墨子の曰く、子は三年の喪を以って三日の喪を非とす、是は猶(なお)裸の撅者(けつしゃ)を不恭(うきょう)と謂うがごとくなり。
公孟子の子墨子に謂いて曰く、知の人に賢(まさ)ること有らば、則ち知と謂う可きか。子墨子の曰く、愚(ぐ)が知(ち)を以って人に賢(まさ)ること有り、而して愚は豈に知と謂う可けむや。
公孟子の曰く、三年の喪、吾の父母を慕うを学ぶ。子墨子の曰く、夫れ嬰兒子(えいじし)の知、獨り父母を慕ひ而して已(や)む。父母を得る可からずなり、號(さけ)びて而に止まずが然(ごと)し、此れ其の故は何ぞや。即ち愚の至りなり。然らば則ち儒者の知、豈に以って嬰兒子より賢(まさ)ること有らむや。
子墨子の儒者に問いて曰く、何に故に楽(がく)を為す。曰く、楽(がく)を以って楽(らく)を為すなり。子墨子の曰く、子は未だ我に應(こた)えず。今、我は問いて曰く、何に故に室を為す。曰く、冬に焉(ここ)に寒きを避く、夏に焉(ここ)に暑きを避く、室を以って男女の別を為すなり。則ち子は我に室を為す故を告ぐなり。今、我は問いて曰く、何に故に楽を為す。曰く、楽を以って楽を為すなり。是は猶(なお)曰く何に故に室(しつ)を為す、曰く室(しつ)は以って室を為すなりと。
子墨子の程子に謂いて曰く、儒の道の天下を喪(うしな)うに以って足るものは、四政なり。儒は天を以って不明と為し、鬼を以って不神と為す、天鬼を説かず、此れ以って天下を喪(うしな)うに足る。又た厚葬(こうそう)久喪(きゅうそう)、重ねて棺槨(かんかく)を為し、多く衣衾(いきん)を為し、死を送ること徙(うつ)るが若く、三年哭泣(こくきゅう)し、扶けられて後に起つ、杖(じょう)して後に行く、耳は聞くこと無く、目は見ること無し。此れ以って天下を喪(うしな)うに足る。又た弦歌(げんか)鼓舞(こぶ)、習ひて聲楽(せいがく)を為す、此れ以って天下を喪うに足る。又た命(めい)を以って有(あり)と為し、貧富(ひんぷ)壽夭(じゅよう)、治乱(ちらん)安危(あんき)の極(きわみ)は有り、損益(そんえき)す可からず、上と為る者は之を行ひ、必ず治を聴かず、下と為す者は之を行ひ、必ず事に従わず。此れ以って天下を喪うに足る。程子の曰く、甚(はなは)しいかな。先生の儒を毀(そし)るや。子墨子の曰く、儒固(じゅこ)に此の若(かくのごと)きの四政のものの無くは、而に我は之を言う、則ち是は毀(はんだん)なり。今、儒固(じゅこ)に此の四政が有らば、而して我は之を言う、則ち毀(はんだん)にして、聞けるを告げるに非ずなり。程子は辭無しにして而に出づる。子墨子の曰く、迷へり。反(かへ)りて、後に坐し、進みて復た曰く、郷に先生の言(ことば)を聞く可き者有り、先生の言の若(ごと)くならば、則ち是れ禹を誉めず、桀紂を毀(そし)らず。子墨子は曰く、然からず。夫れ孰辭(じゅくじ)に應じ、稱議(しょうぎ)して而して之を為す。敏(ちょうもん)です。厚く攻むれば則ち厚く吾(ふせ)ぎ、薄く攻むれば則ち薄く吾(ふせ)ぐ。孰辭(じゅくじ)に應じ而して稱議(しょうぎ)す。是は猶轅(えん)を荷(に)なひて而に蛾を撃つがごときなり。
子墨子は程子と辯じ、孔子を稱(ひょう)する。程子の曰く、儒は非ずと、何ぞ故に孔子を稱(ひょう)する。子墨子の曰く、是は亦た當(とう)にして而して易(かえ)る可(べ)からずものなり。今、鳥が熱旱(ねつかん)を憂うを聞けば則ち高(とうと)く、魚が熱旱を憂うを聞かば則ち下(いやし)いと。此に當りて禹湯が之の為に謀(はか)ると雖(いえ)ども、必ず易(かえ)ることは能はず。鳥魚の愚と謂う可(べ)きや、禹湯の猶(なほ)焉(ここ)に因ると云う。今、翟は曾(そ)の孔子を稱(ひょう)するは無からむか。
子墨子の門に游ぶ者有り、身體(しんたい)強良(きょうりょう)、思慮(しりょ)徇通(じゅんつう)、隨ひ而して学(まな)ば使(し)めむを欲す。子墨子の曰く、姑(しばら)く学ばむか、吾は将に子に仕はしめんとす。善言(ぜんげん)に勧められ而して学ぶ。其年(きねん)にして、而して仕(しょく)を子墨子に責(もと)む。子墨子の曰く、子は仕(つか)へしめず。子も亦た夫(そ)の魯の語(はなし)を聞けるか。魯に昆弟五人の者有り、其の父は死し、其の長子は酒を嗜(たしな)みて而に葬(ほうむ)らず。其の四弟の曰く、子の我と葬(ほうむ)むるべし、當に子は酒を沽(か)うを為せ。善言を勧め而して葬むる。已に葬る、而して其の四弟に酒を責(もと)める。四弟の曰く、吾は末だ子(し)に酒を予(やく)するはなし、子は子(し)の父を葬れり、我は吾が父を葬れり、豈に獨り吾の父にあらむや。子の葬(ほうむ)らずは、則ち人は将に子を笑う、故に子に勧めて葬(ほう)むるなり。今、子は義を為し、我も亦た義を為す、豈に獨り我の義なりや。子は学ず、則ち人は将に子を笑(わら)はむとす、故に子に学ぶを勧めむ。
子墨子の門に游ぶ者有り、子墨子の曰く、盍(なん)ぞ学ばむや。對へて曰く、吾が族人に学ぶ者は無し。子墨子の曰く、然らず、夫(おとこ)の美を好む者、豈(あ)に曰く吾が族人は之を好むは莫(な)し、故に好まざるや。夫の富貴を欲するは、豈に曰く我が族人は之を欲するは莫(な)し、故に欲せざるか。美を好み、富貴を欲するは、人が視(み)ざるも猶(なお)強(つと)めて之を為す。夫(それ)義は、天下の大器なり、何を以って人を視る、必ず強(つと)めて之を為せ。
子墨子の門に游ぶ者有り、子墨子に謂いて曰く、先生は鬼神を以って明知と為し、能く人の禍(わざわい)と福(ふく)を為す。善を為す者は之を富(と)まし、暴を為す者は之を禍(わざわい)となす。今、吾の先生に事(じ)するは久し、而に福に至らず。意(おも)うに先生の言に不善が有りや。鬼神は不明なるや。我の何ぞの故に福を得らずや。子墨子の曰く、子の福を得ずと雖(いえ)ども、吾が言は何遽(なんぞ)不善や。而して鬼神は何遽(なんぞ)不明ぞ。子は亦た徒(と)の刑を匿すの刑有るを聞く。對へて曰く、未だ之を聞くを得ずなり。子墨子の曰く、今、北に人有り、子に什(じふ)す、子は能く之を什誉(じふよ)し、而して自ら誉めるを一にせむや。對へて曰く、能はず。此に人有り、子に百す、子は能く終身(しゅうしん)其の善を誉め、而して子は一もすること無からむか。對へて曰く、能はず。子墨子の曰く、一人を匿す者は猶罪有り、今、子の匿(かく)す所は此の若く其は多し、将に厚罪(こうざい)有らむとする者なり、何の福を之に求めむ。
子墨子に疾(やまい)有り、跌鼻が進みて而して問いて曰く、先生は鬼神を以って明と為し、能く禍福を為す、善を為すは之を賞め、不善を為すは之を罰す。今、先生は聖人なり、何ぞの故に疾(やまい)は有るや。意ふに先生の言に不善は有るや。鬼神の明知ならざるや。子墨子の曰く、我をして病有らしめと雖(いえ)ども、何遽(なむ)ぞ明ならざらむ。人の病を得る所は多方なり、之を寒暑に得ること有り、之を労苦に得ること有り、百門にして而して一門を閉じるも、則ち盜(とう)は何遽(なむ)ぞ従(した)がひて入ること無からむ。
二三子の復(かさね)て子墨子に射を学ばむとする者有り。子墨子の曰く、可(べ)からず。夫(そ)れ知る者は必ず其(そ)の力の能く至る所を量り而して事に従う。國士すら戦い且つ人を扶(た)すくるは、猶(な)ほ及ぶ可(べ)からずなり。今、子は國士に非ずなり、豈に能く学を成し又た射を成さむか。
二三子の子墨子に復(ま)た曰く、告子が曰く、義を言いて而に行ふは甚だ悪しと。請ふ之を棄(す)てむ。子墨子の曰く、可からず、我(おのれ)の言(ことば)を稱(とな)えて以って我(おのれ)の行(おこない)を毀(そし)るは、亡(ぼう)に愈(まさ)る。北に人有り、翟は甚だ不仁なり、天を尊(とうと)び、鬼に事(つか)へ、人を愛しむは、甚だ不仁にして、猶(なお)亡(ぼう)に愈(まさ)るなり。今、告子の言談は甚だ辯なり、仁義を言いて而に吾を毀(そし)らず、告子の毀(そしり)は、猶(なお)亡(ぼう)に愈(まさ)るなり。
二三子の復(ま)た子墨子に曰く、告子は仁を為すに勝ると。子墨子の曰く、未だ必ずしも然らず。告子の仁を為すや、譬へば猶跂(つまづ)ちて以って長(ちょう)と為し、隱(あふ)ぎて以って廣(こう)と為す、久(きゅう)は可(べ)からずなり。
告子の子墨子に謂いて曰く、我は國を治め政(まつりごと)を為す。子墨子の曰く、政(まつりごと)は、口に之を言へば、身は必ず之を行う。今、子は口(くち)に之を言へども、而して身は行なはず、是は子の身の乱れなり。子(し)は子(し)の身を治めるは能(あた)はず、悪(いづく)むぞ能く國の政を治めむ。子の姑(やむす)に亡(にげ)るは、子の身の乱れなり。


《公孟》

公孟子が子墨子に語って言うことには、「君子は自ら動かず、なにごとかを待つ姿とは、ここに問われれば、それに従い、ここに問われなければ、従わない。例えれば、鍾のようなもので、叩けば鳴り、叩かなければ鳴らないと。」と。子墨子が言うことには、「言葉には三つの物があるが、貴方は、多分、今、その一つを知るだけで、まだ、その三つの物と云う私が言うことの本質を知らないだろう。もし、大人が国家を運営して淫暴を行ったら、臣下が君の前に進み出て、君を諫めれば、きっと、君はこの臣下を不遜と言い、臣下が君の左右の者を通じて、君に諫めの言葉を献じたら、きっと、君はこの諫めの言葉を僭越な言葉と言うだろう。これは君子が持つ臣下の行いへの疑惑からのことがらである。もし、大人が政治を行う時、その時に国家に国難が生じさせるものごとなら、例えば、もし、敵の弩弓が放たれそうな状況の時、君子を、必ず、理由を示して諫め、それを回避できれば大人の利となり、このことは、鐘を叩かなくても、必ず、鐘が鳴ると言えるものである。」と。「もし、大人が正義の無い怪しげな行動を起こし、壮大で巧みな経略を作り上げ、さらに侵略戦争を行うべきと臣下は勧め、それを受けて罪無き國を攻伐し、その国を領有し、国君がその国を獲ることを願うなら、きっと、必ず、国君は、攻伐は臣下の進言として、叩けば鳴り、叩かなければ鳴らないという論理を使うだろう。また、荒野の土地にあって税収の無いものに税を掛け、出撃すれば敗戦の憂き目に合い、防衛しても勝利が得られず、はたまた、攻撃する側も決定的な勝利を得られず、守る側も攻める側も共に勝利が得られない。この様子は、鐘を叩きもしないのに、必ず、鐘が勝手に鳴るようなものではないか。」と。
「先に、貴方が言うことには、『君子が自ら動かず、なにごとかを待つ姿とは、これを問われれば、それに対して発言をし、これを問われなければ、それに対して発言をしない。これを例えれば、鐘が鳴るようなもので、鍾を叩けば鳴り、叩かなければ鳴らない。』と。今、未だに鐘を叩いてもいないのに、結果が生じたとするならば、貴方が言うに、これは貴方が語る、『鐘を叩きもしないのに、勝手に鐘が鳴る。』というものなのか。これなら、貴方が語る所の君子の行動とは違うのではないだろうか。」と。
公孟子が子墨子に語って言うことには、「誠意を持って善行を行うことを、人は、誰もが気が付かないことが有るだろうか。例えれば、良き宝石のようなもので、誰かに見つけ出されなくても余りある神の祝福がある。例えれば、美女のようなもので、誰かに見つけ出されなくても、人は争って美人を得ようとする。ところが、美人が外に出て自分から売り込めば、人はこの美人を得ようとはしない。今、貴方は広く人に面談を申し込み、そして、自説を説く、どういう訳で、そのような努力を行うのか。」と。子墨子が言うことには、「今、世の中は乱れ、美女を求める者は多く、美女は家から外に出ないと貴方は言う、たしかにそれでも、多くの人がこの美人を求めるだろう。ところが今、善を求める者は少ないので、努力して人に正しい道を説かなければ、人は正しい道を知ることは無いだろう。」と。「また、ここに二人の者がいて、この者たちは筮の占いが巧みです。一人は人のために出向いて筮の占い行う者で、もう一方の一人は家に居り外には出て行かない者です。家から出て行って人のために筮の占いを行う者と家に居て外には出ない者、その神の祝福は、どちらの方が多いと思うか。」と。公孟子が言うことには、「家から出て行って、人のために筮の占いを行う者の方に、神の祝福は多いだろう。」と。子墨子が言うことには、「仁と正義は等しい。出て行って人に正しい道を説く者の、その功績には善行が多いだろう、どうして、出て行って人に正しい道を説かないのか。」と。
公孟子が章甫の冠を頭に戴き、忽を帯に差し挟み、儒服を着込んで、その姿で子墨子に面談して言うことには、「君子は、最初に身なりの容を学んで、そして、人としての行いを学ぶか。それとも、人として行いを学んで、そして、身なりの容を学ぶか。」と。子墨子が言うことには、「人としての行いは、服装には関係が無い。』と。公孟子が言うことには、「どのような理由で、そこのことを知ったのか。」と。子墨子が言うことには、「昔、斉国の桓公は高冠をかぶり、広い帯を巻き、金の剣に木の盾を持ち、その姿でその国を治め、その国は平安に治まった。昔、晋の文公は大布の衣に、牝羊の皮服で、紐で剣を腰に帯び、その姿でその国を治め、その国は平安に治まった。昔、楚国の莊王は鮮やかな冠をかぶり、組紐を垂れ、縫衣・博袍を着、その姿でその国を治め、その国は平安に治まった。昔、越王句踐は剃った頭髪に入れ墨の、その姿で国を治め、その国は平安に治まった。これらの四人の君は、その服装は同じではないが、その人としての行いは、ただ、一つであった。私、翟は、このことに因り、人としての行いは、服装には関係が無いことを知ったのだ。」と。公孟子が言うことには、「なるほど。私は、このことを聞いて、言うことには、『善を行わずに、留めて置くことは良くない。』と。そこで、お願いですが、忽を帯から外し、章甫の冠を換えて、また、貴方様とお会いすることはよろしいでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「いいですとも、また、会いましょう。もし、忽を帯から外し舍、章甫の冠を換えて、また、会ったら、すると、人としての行いは、さて、服装にあるのでしょうか。」と。
公孟子は言うことには、「君子は必ず古のものごとを説く言葉に服し、それから後に仁者になる。」と。子墨子が言うことには、「昔、商王紂の臣下で、卿の位の費仲は、天下を代表する暴人であり、箕子や微子は天下を代表する聖人だった。これらの者は、そのものごとを説く言葉は同じようであったが、ところが、ある者は仁者になり、ある者は仁者になっていない。周公の旦は天下を代表する聖人となり、関叔は天下を代表する暴人となった。これらの者は古のものごとを説く言葉に服す様子は同じであるが、ある者は仁者になり、ある者は仁者にはならない。つまりそれならば、貴方が述べた『君子は古のものごとを説く言葉に服し、それから仁者になる。』ということからすれば、これらのものは古を説く言葉にはならないのか。また、貴方は周の時代の法に従っているが、今のところ、それよりも古となる夏の時代の法に従ってはいない。貴方が思う古は、(その夏王朝から見れば)古ではないだろう。」と。
公孟子が子墨子に語って言うことには、「昔の聖王の序列では、上なる聖者は立って天子となり、その次は立って卿となり、そのまた次は大夫となる。今、孔子は詩や書に学識が広く、礼や楽に理解があり、万物に博識があります。もし、孔子に聖王の立場を執らせたら、きっと、孔子に天子とさせたのではないでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「多分、ものごとを良く分かっている者は、まず、天帝を尊び、鬼神に仕え、人を愛しみ、用財を節約し、これらを総合して知力とするだろう。今、貴方が言うことは、『孔子は詩や書に学識が広く、礼や楽に理解があり、万物に博識がある。それを根拠に、言うことには、この様だから天子とすべきである。』と、このことは、人の歯の数を数えて、この人の歯の本数が多い、そして、その歯の本数を根拠に財物の富者と言うようなものだ。」と。
公孟子が言うことには、「貧者と富者や寿命と夭折は、ぐじゃぐじゃに混じり合って、その決定は天帝にある。だから、人間はその結果を損益評価することは出来ない。」と。また言うことには、「君子は、必ず、学ぶ。」と。子墨子が言うことには、「人に学ぶことの大切さを教えて、それでも、ものごとは天命に因るとの有命の論説を執る。このことは、まるで、人に冠を付ける前には頭髪を布で包むものだと命じながら、頭髪を布で包んだら、その肝心の冠を被る風習を取り上げるようなものだ。」と。
公孟子が子墨子に語って言うことには、「人の行いには正義があり、また、正義がない。鬼神の行いには吉祥は無く、また、吉祥をせず。」と。子墨子が言うことには、「古の聖王は、皆、鬼神は神明とし、禍福の源であり、鬼神による吉祥はあり、また、吉祥をせずの立場を執った。このことにより政治は治まって、国は安寧であった。桀王や紂王より以下、皆、鬼神に対して、神の存在は不明とし、鬼神が禍福の源では無く、鬼神による吉祥は無く、また、吉祥をせずの立場を執った。このことにより政治は乱れ、国は危うかった。このために先の時代の王の書に、『子、また、このことが有っていうに、その驕れる姿は、お前にある、不祥なり。』と。この言葉は、不善をなせば罰が有り、善をなせば賞が有ると語っている。」と。
子墨子が公孟子に語って言うことには、「儒者が説く喪礼では、主君と父母、正妻、正妻の長男の死亡では、三年間の服喪を行い、伯父、叔父、兄弟の死亡には服喪期間が一年間、他の親族では五月間の服喪、姑、姊、舅、甥の死亡には、皆、数か月間の服喪がある。また、喪を行わない間に、詩三百編を読み、詩三百編を演奏し、詩三百編を歌い、詩三百編を舞う。もし、貴方のこのような説に従うと、さて、君子は、いつ、統治の報告を聴くのだろうか。庶人は、いつ、仕事に従事するのだろうか。』と。公孟子が言うことにが、「もし、国が乱れたら、そこで初めて、国の統治を行い、国が治まっていたら、礼と楽を行う。国が治まるようなら、仕事に従事し、国が富むようであれば、礼と楽を行う。』と。子墨子が言うことには、「国の統治。国の統治を止めてしまえば、きっと、国の治安もまた無くなってしまうだろう。国が富むには、仕事に従事する、だから、富むのである。仕事に従事することを止めてしまえば、きっと、国の富みもまた無くなるであろう。だから、国を治めるといっても、統治を行うことを勧めることを飽きることなくおこなうのです、そうした後に統治は十分に行えるのです。今、貴方が言うことには、『国が治まっていたら、それならば、礼と楽を行い、国の治安が乱れていれば、それならば、国を治める。』と。この貴方の発言を例えれば、喉が渇いたら、井戸を掘って水を求め、病で死んだら、医者を呼ぶようなものだ。古、三代の暴王の桀王・紂王・幽王・厲王は、盛んに女楽の声楽の宴を開き、その国の民のことを顧みず、これらのことにより、王自身の身は刑罰で殺され、国は廃墟となったのは、皆、この楽に耽ることに浸ったためだ。」と。
公孟子が言うことには、「鬼神はいない。」と。また、言うことには、「君子は、必ず、祭祀を学ぶ。」と。子墨子が言うことには、「鬼神はいないと言う説を執り、一方、君子は祭礼を学ぶとは。このことはまるで、客がいないのに、客礼の儀式を学ぶようなものだ。つまり、魚がいないのに、魚を捕まえる籠漁を行うようなものだ。」と。
公孟子が子墨子に語って言うことには、「貴方は三年の服喪に対して非難されるが、貴方の唱える三日の服喪もまた非難すべきものです。」と。子墨子が言うことには、「貴方は三年の服喪により、三日の服喪を非難するが、このことは、ちょうど、ひと肌を脱いだ者が俱物を恭しく両手で掲げている様を、厳かさが無いと言うようなものだ。」と。
公孟子が子墨子に語って言うには、「ある者が知恵で人に勝ることがらが有れば、この者を知恵者と言っていいだろうか。」と。子墨子が言うことには、「愚鈍な者でも、ある知恵で人に勝ることが有りますが、さて、この愚鈍な者を知恵者と言うべきでしょうか。」と。
公孟子が言うことには、「三年の服喪から、私は私が父母を慕う気持ちを学んだ」と。子墨子が言うことには、「それは嬰児の知恵です。ただ、父母を慕っただけでしょう。嬰児が、父母がそばに居て貰えないからと、それで泣き叫んで止まないようなもので、この嬰児の有り様はどういうことでしょうか。これは、嬰児はまだ幼く愚鈍だからです。そうすると、三年も服喪する儒者が言う知恵とは、まさか、三年もかからずに育つ嬰児より勝っていることが有るのですか。」と。
子墨子が儒者に質問して言うことには、「どのような理由で楽を行う。」と。言うことには、「楽により楽を行うためである。」と。子墨子が言うことには、「貴方は、まだ、私の質問に答えていない。今、我が貴方に質問して言うに、『どうして家を建てる。』と。それに答えて言うのなら、『冬に家により寒さを避け、夏に家により暑さを避け、部屋で男女の居室を別けることを行う。』ではないか。つまり、このことで、貴方は私に家を建てる理由を説明している。今、私は貴方に質問して言うことには、『そのような理由で楽を行う。』と。貴方が答えて言うことには、「楽により楽を行う。」と。これではまるで、言うことには、『どのような理由で家を建てる。』の質問に、答えて、『家により、家を造る。』と言うようなものではないか。」と。
子墨子が程子に語って言うことには、「儒者が説く道で天下の治安を喪うこととなるものとしては、儒者が言う四政である。儒者は天帝の存在に対し不明と見なし、鬼神の存在に対し鬼神はいないとみなし、そして天帝・鬼神の存在を説明せず、このことにより天下の治安を喪うのに十分だ。また、厚葬久喪の説を取り、棺を幾重に重ねて棺槨を造り、死者を包むのに多くの衣装を作り、死者を墓地に送る様子は引っ越しをするような有様で、三年の哭泣の規定では、喪主は周囲に助けられて体を起こす演技をし、杖を使って歩く演技をし、耳は悲しみに聞こえないふりをし、目は悲しみによく見えないふりをする。このことにより天下の治安を失うのに十分だ。また、弦歌鼓舞の説を取り、周代のものを慣習だとして女楽の声楽を行い、このことにより天下の治安を失うのに十分だ。また、天命が有ると言う説を取り、貧者と富者や天寿と夭折、治乱や安危の帰結には天の定めがあり、人間が世の帰結についてとやかくすることは出来ないとし、上の立場となる者は天命の説を取り、きっと、統治への訴えを聴かず、下の立場となる者は天命の説を取り、きっと、仕事に従事しないだろう。このことにより天下の治安を喪うのに十分だ。」と。程子が言うことには、「極端ですね。先生が儒者を誹ることは。」と。子墨子が言うことには、「儒者の自説に凝り固まった者に、今、説明したこの四政の説が無いのであれば、それなら、私は、私の儒者への批判を次のように言うでしょう、『これは、誹謗の説である。』と。もし今、儒者の自説に凝り固まった者にこの四政の説が有るのなら、それなら、私は、私の儒者への批判を次のように言うでしょう、『これは評論であり、聞いたことを判断もせずに言っている訳ではない。』と。いうでしょう。」と。程子は挨拶もせずに、部屋を出て行った。子墨子が言うことには、「迷っているな。」と。程子が帰ってきて、部屋の後に座り、子墨子の前に進み出て、再び、質問して言うことには、「郷に先生の言葉を聞くべき者がいたとしましょう、先生の言葉のままですと、それでは聖王とされる禹王を誉めず、暴王とされる桀王や紂王を非難していないのではないでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「そうではない。ものごとで、伝統の事例に応じ、議論を尽くしてから、そのものごとを行う。これは過去への弔問です。ものごとに手厚くしないといけないときは手厚く応じ、軽くしていい場合は軽く応じる。それを改めて、伝統の事例に応じ、議論を尽くしてから、このものごとを行う。このことは、荷車の曳き棒を振り上げて、蛾を追い払うような無駄なものです。」と。
子墨子は程子と談論し、孔子を講評した。程子が言うことには、「先生は儒学を否定します、ところがどうして、孔子を講評するのですか。」と。子墨子が言うことには、「孔子の説く説は、的を射ていて、それを変える必要が無いからです。今、鳥が地上に熱波が襲ったと聞けば、きっと、空、高く飛び、魚が地上に熱波が襲ったと聞けば、きっと、水底深くに行くでしょう。この熱波が地上を襲ったときに、古の聖王の禹王や湯王がこの事態になにごとかの対策をしようとしても、きっと、熱波の襲来を変えることは出来ないでしょう。この熱波に対し何もせず、ただ、熱波から避難する鳥や魚を愚鈍なものたちと非難できるでしょうか、禹王や湯王でも、時と場合によっては、それに従うと言います。それで、今、私、翟は、そのような、時と場合のものごとに応じる孔子を評論から外すことはないのです。」
子墨子の門前に遊学を希望する者がおり、身體は強良で、思慮は敏達で、子墨子に従い、学ぶことを希望した。子墨子が言うことには、「しばらくの間、学ぶか、私は、貴方を私に師事させようと思う。」と。子墨子の善き言葉に勧められて、子墨子に学んだ。1年経って後、仕官の斡旋を子墨子に求めた。子墨子が言うことには、「貴方には仕官の斡旋はしない。貴方は、私がする魯国の話を聞きたいか。魯国に血を分けた兄弟五人の者がいて、その父は死亡するも、その長男は酒が大好きで、父親の葬儀をしなかった。その四男が言うことには、『同じ親の子である私と父親の葬儀をしよう、今は、貴方は酒を飲むのを止めなさい。』と。四男は善き言葉を長男に勧め、そして、父親の葬儀を行った。すでに葬儀が終わった後、長男はその四男に酒を求めた。四男の言うことには、『私は、貴方に酒を買い与える約束をしたことは無い、貴方は貴方の父親の葬儀を行い、私は私の父親の葬儀を行った。ただ、どうして、五人兄弟の私ですから、私独りの父親でしょうか。貴方は父親の葬儀をしないので、人は貴方をあざけ笑う、それで貴方に勧めて父親の葬儀を行わせたのだ。今、貴方は義を果たし、私もまた義を果たし、ただ、これが私、独りの義でしょう。』と。貴方は、以前、学んでいなかったので、そこから人は貴方をあざけ笑おうとしていた、それで、貴方に学ぶことを勧めたのだ。」と。
子墨子の門前に遊学を希望する者がいた、子墨子が言うことには、「どうして、学ばないのか。」と。答えて言うことには、「私の親族に墨学を学ぶ者はいません。」と。子墨子の言うことには、「そうとは限らないだろう、ある男に美しいものを好む者がいても、それなのに、言うことには『私の一族に美しいものを好む者はいない』と、このことだけで、美しいものを好まないのか。それなら富貴を希望するとき、それなのに、言うことには『私の一族に富貴を求める者はいない。』と。このことで富貴を願わないのか。美を好み、富貴を願うことは、人が見ていなくても、それでも人は強くこれを求める。さて、正義は、天下の大器です、どうして、人が見ていることを求めるのか、人が見ていなくても、努力して、正義を行え。」と。
子墨子の門に遊学する者がいて、子墨子に語って言うことには、「先生は鬼神の存在を明知とし、鬼神は人の禍と福を行うと説きます。善行を行う者には鬼神はこの者を富まし、暴行を行う者には鬼神はこの者に災いを与えるとします。今、私が先生に師事することは長くなりましたが、なぜか、福を得られていません。考えてみますと、先生の言葉に不善があるのでしょうか。それとも、鬼神の存在が不明なのでしょうか。私は、どのような理由で福が得られないのでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「貴方が福を得られないからだとして、私の言葉が、どうして、不善なのか。また、どうして、鬼神の存在が不明なのか。ところで、貴方は、徒刑の者を隠匿する刑罰があることを知っていますか。」と。答えて言うことには、「まだ、その刑罰のことを聞いたことはありません。」と。子墨子が言うことには、「今、北にある人がいます、貴方にある学説の編を与えます。貴方は十分にこの学説の編を受けた名誉がありますが、しかし、貴方は自らの名誉を学説の一部だけにしますか。』と。答えて言うことには、「そんなことはしません。」と。「ここにある人が居ます、貴方に百倍する能力を与えます。貴方は、終身、百倍する能力を与えてくれたその人の善き行いを誉めても、貴方はその百倍となる能力を一つも使うことをしないことをしますか。」と。答えて言うことには、「そんなことはしません。」と。子墨子が言うことには、「罪人一人を隠す者もまた罪が有り、今、貴方が隠していることがらは、ここで説明したようにまだまだたくさんあります。つまり、貴方は厚く罪が有る者なのです、罪が有る者が、どうして、福を求めるのですか。」と。
子墨子に疾病があり、弟子の跌鼻が前に進み出て、質問して言うことには、「先生は鬼神の存在を明白とし、鬼神は禍福を行うとし、鬼神は善行を行う者はこの者を賞め、不善を行う者はこの者を罰すると説きます。今、先生は聖人ですが、どうして、疾病が有るのですか。考えてみると、先生の言葉に不善があるからですか。それとも、鬼神の存在が明らかでは無いからですか。」と。子墨子が言うことには、「私に疾病があるからといって、どのような訳で、鬼神の存在が明らかでないことになるのか。人が病を得ることがらは多方面であり、病を寒暑に得ることが有り、病を労苦に得ることがある。(例えれば、屋敷で、)百の門の内の一つの門を閉じても、きっと、盗賊は、どうして、閉じた門だけを理由に、屋敷に忍び込まないのか。」と。
ある二三人の弟子で、重ねて、子墨子に弩弓の射撃を学ぼうとする者がいた。子墨子が言うことには、「だめだね。だいたい、ものごとを知りたい者は、必ず、その者の能力の及ぶ範囲を量って、それからものごとに従事する。戦いを良くする国士でも、戦場で戦いながら、同時に他人を助けることは、なかなか難しいものだ。今、貴方は国士の能力を持つ者ではないから、どうして、学問を学びながら、同時に弩弓の射撃を学ぶことが出来るのか。」と。
ある二三人の弟子が子墨子に、また、言うことには、「告子が言うことには、『正義を説いから、正義を行うことは非常に悪いことだ。』と。お願いします、告子を追放してください。」と。子墨子が言うことには、「それは出来ない、自分の論説を唱えて、それで自分の行動を非難することは、それでも、何も無いよりはましだ。」と。「北にある人がいて、『私、翟は、非常に不仁の人だ。』と言う。(儒者には、私がする)天帝を尊び、鬼神に仕え、人を愛しむことが、非常に不仁な行いであっても、それでも、(天下に対して)何もしないよりましだ。今、告子の言談は、ただただ、弁論のための弁論でしかないが、仁と正義を説いて、それでも、私を非難していない、告子の非難の弁論は、それでも、何も無いよりましだ。」と。
ある二三人の弟子が、また、子墨子に言うことには、「告子は、『仁を行うことは、他の何物よりも勝る。』と言っています。」と。子墨子が言うことには、「まだ、必ずしもそうでは無いだろう。告子が仁を行うと云うことは、これを例えれば、つま先立ちして身長が高いとし、胸を精一杯に反り返して、胸幅が広いとしているようなもので、長く自説を説き続けることは出来ないだろうね。」と。
告子が子墨子に語って言うことには、「私は国を治め、政治を行いたいと思う。」と。子墨子が言うことには、「政治とは、口に出してこのことを言えば、身は必ずこのことを行わなければいけないものだ。今、貴方は口に出して政治を行うというけれど、それに対して、身は、まだ、政治を行っていない。このことは貴方の身の乱れです。貴方は貴方自身の身を治めることが出来ていないのに、どうして、国の政治を治めることが出来るでしょうか。貴方が言葉という安易なところに逃げるのは、貴方の身の乱れです。」と。
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