『最後まで、諦めないで頑張ろう。』
非常に大切な言葉。どんなことでも、諦めなければ、止めなければ、ほとんどの系で、達成されることが多いから。
でも、「諦めないで頑張ろう!」っと思考したということは、その前に、確実に、諦めようとする感情が放出されたということだ。諦めちゃいそう、っというふうに思っちゃっているってことだ。
ここで、明確に定義しておこう。「思考」とは自らの心に何らかの意識を持って放出するモノや言葉であり、「感情」とは状況に遭遇あるいはそれを認知してすぐに自らの意識とは関係なく勝手に放出されるモノである。
これに加えて、実質的に行う、「行動」。
「思考」「行動」「感情」は、人間を一体問題で捉えたときに必要な重要なパラメータである。
これら3つに対する条件に自らを放り込み、自分自身をSelf-Consistentに解き続けることによって、答えが時間依存性つきで出てくる。(平均場近似とかで言うところの「Self-Consistent」ね。)
具体的に先ほどの例で言うなら、「諦めないで頑張ろう」という言葉によって思考をし、それに依存した行動をとる。出来る限りボールを追いかけようとか、出来る限り思いっきりやってみようとか。そして、その自らの行動を認知し、新しい感情が生まれる。「ちょっとはマシになったかな、よしよし」とか「まだ駄目だ、イヤだなー」とか。そして、それによって、さらに思考をし、「諦めないで頑張ろう」と考えたり、「流石に無理そうだから、かっこイイ負け方を探そう」とかの言葉を放出し、それに依る行動をとる。すると、また、その状況に応じた感情が放出され、思考して言葉を放出し、行動する、っと繰り返し、時間依存つきの解答が秒のオーダーで次々に出てくる。
自分自身に依って、「思考」「行動」「感情」の3つのパラメータは変わる。それらを考慮し、自分自身をSelf-Consistentに回すことになる。
よーわ、…→「思考」→「行動」→「感情」→「思考」→「行動」→「感情」→…っと、この順番(だけでも無いけど、多くの系ではこの順番であると思う)で、自分自身を放り込むことによって、人間は時間依存的に答えを提出し続けているのだ。
時間を区切って考えると、あるtermにおいて、今のループと一回前のループの自分自身の値がほとんど同様だった時、それは、Self-Consistentに解けたことになり、はき出された解は、ホンモノである。あくまで一体系におけるホンモノだが、これだけでも難しい。
これを年のオーダーで、同様な解がはき出され続けたことは、少なくとも、俺は、無い。
こういうふうなモデルで考えてみると、賢くなればなるほど自分自身がコントロールできるようになる、ってのが嘘だって、簡単にわかる。
絶対的な凄まじい賢さがあったとしても、それに伴う行動力や感情の豊かさや器の大きさが無ければ、その部分で、プログラムは止まってしまう。だからって、無理矢理、プログラムを回そうとすると、賢さのレベルが極端に低下するし、感情や行動に支障を来たすことになる。
ってことは、賢すぎて、「行動」や「感情」の条件のとこで行き詰ってしまってしまうとき、賢さのレベルを落とすか、他のパラメータを引き上げなきゃいけない。
ただ、この中で一番重大なパラメータは、当然「感情」であり、これがあり余ってしまうと、この「感情」に依りすぎる答えがはき出されることが巨視的になる。つまり、「感情」が他のパラメータに関して支配的であると、非常に良い結果も生むが、悪い結果を生むリスクも大きいっということだ。
この条件設定の中で、ここ数年、思考や行動のレベルを、いくらなんでも、上げ過ぎていた気がするから、もう少しだけ、感情のレベルを上げてみようと思った。それが1カ月くらい前かな?
でも、世間で、あまりにも、感情パラメータを支配的に扱っていて失敗している系を見ると、ちょっとだけ、怖い気もする。
まぁ、空間依存的には、そういう集団はいなく、逆に、、ってのも、多い気もしますけど。。
言葉だけ掴んでも、満足できなきゃ、意味無いのにね。
俺は、どんなこと(一体系でも二体系でも多体系でも)に対してもホンモノを求める、という点において、良い意味でも悪い意味でも、器用じゃない、融通が効かない、フレキシビリティがない、っと言える気がします。
そして、それを戯言だと思うことのほうが、よっぽど惨めな気がしてならないのです。
非常に大切な言葉。どんなことでも、諦めなければ、止めなければ、ほとんどの系で、達成されることが多いから。
でも、「諦めないで頑張ろう!」っと思考したということは、その前に、確実に、諦めようとする感情が放出されたということだ。諦めちゃいそう、っというふうに思っちゃっているってことだ。
ここで、明確に定義しておこう。「思考」とは自らの心に何らかの意識を持って放出するモノや言葉であり、「感情」とは状況に遭遇あるいはそれを認知してすぐに自らの意識とは関係なく勝手に放出されるモノである。
これに加えて、実質的に行う、「行動」。
「思考」「行動」「感情」は、人間を一体問題で捉えたときに必要な重要なパラメータである。
これら3つに対する条件に自らを放り込み、自分自身をSelf-Consistentに解き続けることによって、答えが時間依存性つきで出てくる。(平均場近似とかで言うところの「Self-Consistent」ね。)
具体的に先ほどの例で言うなら、「諦めないで頑張ろう」という言葉によって思考をし、それに依存した行動をとる。出来る限りボールを追いかけようとか、出来る限り思いっきりやってみようとか。そして、その自らの行動を認知し、新しい感情が生まれる。「ちょっとはマシになったかな、よしよし」とか「まだ駄目だ、イヤだなー」とか。そして、それによって、さらに思考をし、「諦めないで頑張ろう」と考えたり、「流石に無理そうだから、かっこイイ負け方を探そう」とかの言葉を放出し、それに依る行動をとる。すると、また、その状況に応じた感情が放出され、思考して言葉を放出し、行動する、っと繰り返し、時間依存つきの解答が秒のオーダーで次々に出てくる。
自分自身に依って、「思考」「行動」「感情」の3つのパラメータは変わる。それらを考慮し、自分自身をSelf-Consistentに回すことになる。
よーわ、…→「思考」→「行動」→「感情」→「思考」→「行動」→「感情」→…っと、この順番(だけでも無いけど、多くの系ではこの順番であると思う)で、自分自身を放り込むことによって、人間は時間依存的に答えを提出し続けているのだ。
時間を区切って考えると、あるtermにおいて、今のループと一回前のループの自分自身の値がほとんど同様だった時、それは、Self-Consistentに解けたことになり、はき出された解は、ホンモノである。あくまで一体系におけるホンモノだが、これだけでも難しい。
これを年のオーダーで、同様な解がはき出され続けたことは、少なくとも、俺は、無い。
こういうふうなモデルで考えてみると、賢くなればなるほど自分自身がコントロールできるようになる、ってのが嘘だって、簡単にわかる。
絶対的な凄まじい賢さがあったとしても、それに伴う行動力や感情の豊かさや器の大きさが無ければ、その部分で、プログラムは止まってしまう。だからって、無理矢理、プログラムを回そうとすると、賢さのレベルが極端に低下するし、感情や行動に支障を来たすことになる。
ってことは、賢すぎて、「行動」や「感情」の条件のとこで行き詰ってしまってしまうとき、賢さのレベルを落とすか、他のパラメータを引き上げなきゃいけない。
ただ、この中で一番重大なパラメータは、当然「感情」であり、これがあり余ってしまうと、この「感情」に依りすぎる答えがはき出されることが巨視的になる。つまり、「感情」が他のパラメータに関して支配的であると、非常に良い結果も生むが、悪い結果を生むリスクも大きいっということだ。
この条件設定の中で、ここ数年、思考や行動のレベルを、いくらなんでも、上げ過ぎていた気がするから、もう少しだけ、感情のレベルを上げてみようと思った。それが1カ月くらい前かな?
でも、世間で、あまりにも、感情パラメータを支配的に扱っていて失敗している系を見ると、ちょっとだけ、怖い気もする。
まぁ、空間依存的には、そういう集団はいなく、逆に、、ってのも、多い気もしますけど。。
言葉だけ掴んでも、満足できなきゃ、意味無いのにね。
俺は、どんなこと(一体系でも二体系でも多体系でも)に対してもホンモノを求める、という点において、良い意味でも悪い意味でも、器用じゃない、融通が効かない、フレキシビリティがない、っと言える気がします。
そして、それを戯言だと思うことのほうが、よっぽど惨めな気がしてならないのです。