2015年の賀状に「3分の1宣言」を発し、傘寿を迎えるに当たり、公私にわたる人的交流を含め生活規模を縮小していくこととした。酒、旅、同窓会などの諸会合を整理させていただく。ブログも2日に一回ペースの日記形式から、週一回ペースの随想形式とする。年賀状も必要最小限の3分の1に圧縮させていただく。
酒量は3分の1に減らすのではなく、3分の1を減らすことにする。これには各方面から批判があった。生活規模を3分の1にするのに、酒量は3分の2にとどまり矛盾するというのだ。これに対しては、3分の1宣言は、「3分の1に減らすか3分の1を減らすか明確にしていない。宣言には違反しない」と強引に押し切った。
予てからの課題である書籍、書類、酒器を含む小道具類の整理も、3分の1を減らすこととする。狭い部屋に大きな書棚が三つあるので、その一架の処分を目指す。酒量ともども、この縮小は並大抵のことではないだろう。
量は減らすが生活の質は落としたくないと思う。量と質の積が生活を構成するとすれば、量の減っただけ質を高めなければならない。物量は回数や数量で測るが、質は何で測るのだろうか。生活の質となれば、満足度や充足度などで測るのだろうか? 来年の大みそかに、一年をどう振り返るか楽しみだ。
既に行く年に対する思いはなく、来る年への期待に心は向かっている。
まず日本に、いや世界に光を与えてくれたのが、ノーベル物理学賞を受けた赤崎勇、天野浩、中村修二、三人の科学者だ。この三人は、青色発光ダイオード(LED)を発明・実用化してその功績が評価された。正に世界に新しい光を与えたのだ。
授賞式が行われたストックホルムの街がLEDの光で三人を迎えたように、この発見は既に実用化されて人類に大きな貢献をしている。2012年にノーベル生理学・医学賞を受けた山中伸弥教授のiPS細胞も、身近な医療に役立つ実用的なものであった。網膜の再製など、加齢黄斑変性に悩む私には身近な光明だ。私の生きているうちには市販化されそうにないが。
日本の科学者が、ノーベル賞という雲の上の存在を、実生活に引き下ろしてくれたことを誇りに思う。
科学の世界で、もう一つ大きな夢を与えてくれたのが、はやぶさ2号の打ち上げであった。先祖はやぶさ号のドラマチックな帰還から数年、待ちに待った快挙である。途方もない遠いところに、途方もない時間をかけて向かう旅だが、それを寸秒の狂いもなく成し遂げようとする…、まさに途方もないロマンである。
傘寿を迎えようとする老人にも、「はやぶさの帰ってくるまで、あと6年は生きよう」と、生きる勇気を与えてくれる。
これらに反し、科学界に暗い影を落としたのが理化学研究所のSTAP細胞事件であろう。今年の日本科学会は、小保方さんに明けて小保方さんに暮れたと言っていいだろう。この若き美人科学者は、年初にさっそうと登場して、暮れに疲れ果てて姿を消した。
彼女は、研究者として未熟であったのだろう。しかし、全てを彼女の未熟のせいにして幕引きが行われたようで、何ともスッキリしない。当初脚光を浴びたのは小保方さんであったかもしれないが、その論文は11人の共同執筆ということであった。貴重な人材を自殺で失ったりしたが、理研ともども残りの人たちはどうなっているのだろう。
あの薄汚い政治界でも連座制というものがあって、陣営の一人が罪を犯せば候補者も連座することになっている。神聖なる科学界の事でもあり、もっとすっきりした処理をしなければならないだろう。
年末になって、海の彼方から大変なニュースが飛び込んできた。ニューヨーク・ヤンキースの黒田博樹投手が、古巣広島カープに帰ってくるというのだ。今年のスポーツ界は話題に事欠かなかった。錦織圭(テニス)、羽生結弦(フィギュア―スケート)、萩野公介(水泳)……、しかしこれらはすべて吹っ飛んで、私は黒田復帰のニュースに感動し、喜びに浸った。
黒田投手は、ヤンキースの先発ローテーションを守り抜き、年俸約19億円、来年度もヤンキースは更改を望んでいたという。またタイガースなどから18億円などのオファーが示されていたともいう。大リーグにとどまれば広島の年俸(4億円プラス出来高給)の4~5倍は稼げたのだ。
それをすべて振って、「育ててくれた広島でもう一度プレイしたい」と帰ってきた。カープは貧乏球団だ。金で買えないので一生懸命選手を育ててきた。そして育った選手の多くは巨人や阪神に出て行った。金と権威を求めてのことだ。残ったのは山本、衣笠、大野、野村など数少ない。
黒田は大リーグだから許していたが帰ってくるとは思っていなかった。背番号「15」を空けて待っていた広島も偉いが、それに応えた黒田の心意気は泣かせる。来年2月で40歳になる黒田は、それまで現地で調整して、2月の沖縄キャンプに合流するという。爽やかなり、40歳! というしかない。
40歳といえば他にもいる。旭天鵬が40歳を越えて、三賞受賞や幕内勝ち越しなど次々と記録を改めている。9月場所で初めてマス席から相撲を見たが、旭天鵬の美しい姿に惚れぼれした。控えめで淡々と記録を更新する姿は、これまた爽やかだ。
葛西紀明は41歳でオリンピック銀メダルを獲得(本年2月17日ソチオリンピック)し、その後も大会で優勝するなどレジェンドを重ねている。7回もオリンピックに出場すること自体考えられないことだが、だんだん成績を上げていくとは想像を絶する。驕らず、謙虚で、しかしここぞという時は万全の勇気をもって颯爽と飛ぶ。
2014年のスポーツ界…、それは「爽やかな40歳」につきる。
不穏な国際情勢の続く中で、その不穏に油を注ぐ方向に日本は一歩踏み出したのではないか? 将来、日本を戦争の危険が覆うようなことがあれば、「…2014年、安倍内閣のあの閣議決定がすべての発端であったか!」と今年を思い起こすことになるだろう。
自衛のために軍隊を持つが(これも憲法上相当な疑義があるが)、「よその国に出かけて戦争だけはしない」というところに最後の歯止めをかけてきた。憲法第9条があるからだ。ところが、こともあろうに一内閣の閣議決定で、それを可能とする実質改憲を決めてしまったのである。
およそ、民主主義の国とは言えないのではないか? その延長線上で、安倍内閣は着々と自衛隊の海外派遣の準備を進めている。今日の新聞紙上でも、[ミサイル迎撃、海自艦に共同交戦装備 『集団的自衛権』念頭」(毎日新聞一面)、「自衛隊海外派遣で恒久法 政府・自民、国際協力迅速に」(日経新聞一面)という見出しが報じられている。
もちろん、これら戦争政策に対する反対の動きも進んでいる。先の総選挙で、沖縄の四つの区すべてで基地拡張反対派が勝利し自民党が全敗したこと、また、安倍政権の政策に一貫して反対を表明してきた共産党が大きく躍進したことも、この民意の表れであろう。
中でも、心に残る言葉が二つある。一つは、沖縄知事選で翁長氏の応援演説に立った菅原文太さんの言葉だ。
「政治の任務は二つある。一つは民を飢えさせないこと。もう一つは、…これが一番重要なことだが、絶対に戦争をしないこと」
今や菅原さんの遺言となったこの言葉は、いかなる政治家の演説よりも迫力があった。心に深くとどめておこう。
もう一つは、ノーベル平和賞受賞者マララさんの国連演説だ(本稿12月10日付ご参照)。これは教育の重要性についての発言であるが、イスラム国の「マララ殺害声明」の中で命を懸けた発言であるだけに、戦争勢力に対する痛烈な戦いと言わねばなるまい。
私たちは、この17歳の少女の勇気をもらって、日本の当面する課題に立ち向かわねばならないと思う。
前回で、自然災害による多数の死者について書いたが、人の命を絶ったのは自然だけではない。膨大な人命を失う戦争やテロの火種は、減るどころかますます増大している。
アラブの春から4年が経過するが、アラブ諸国や中東情勢は民族問題に宗教的対立が重なり、春の到来はほど遠いようだ。イスラム国などという新たなテロ組織の登場は、和解とか共存とかいう言葉を空しくし、世界平和という人類多年の希望を絶望の淵に追いやる気持ちにさえなる。
ウクライナ情勢は何を指し示しているのだろうか? そこに住む人たちがどのような体制に組して生きるかは、まったくその人々の選択にまかされるが、一国の一部であるクリミヤ半島を力でもぎ取るような行為は、植民地時代の遺物だ。 歴史は進歩し、人類は新たな高度な時代に前進を続けているものと思っていたが、全く進歩などしていないのではないか?
EU諸国の報復は、原油安とも重なってルーブルの下落を引き起こしロシア経済を苦しめている。いく度か世界大戦の火種になってきたクリミヤ半島が、第三次世界大戦の引き金になるようなことを、人類はまだ続けようとしているのであろうか?
戦争やテロによる人名殺害だけではない。アメリカでは白人警官による黒人殺害が、日常的な生活の場で行われている。理由はそれぞれあるのだろうが、丸腰の少年を撃つなどはあってならない。アメリカは世界のリーダーと言われ、最先端を行く民主主義国ということになっている。人種差別問題も解決できない国が、世界の手本たりうるのか?
かくいうわが国でも、人殺しが日常的に行われている。キレたと言っては人を刺し、金が欲しいと独り身の老人を殺す。日本の平穏は、2、30年前に比し確実に悪化している。
人類は果たして進歩しているのだろうか?
吉祥寺の『曼荼羅』で毎年12月23日に開かれるこのコンサートに、もう10年近く通っている。息子夫妻がギターとピアノで出演すこともあるが、高田エージさんの不思議な魅力にひかれての要因が大きい。
毎年ほぼ同じ歌を歌っている。そのマンネリズムがたまらなくいいのだ。このブログにも数回書いたが(2008. 1.13と12.27付、2010.12.25付、2012.12.31付など)、読み返すとほとんど同じことを書いている。中でも「そのままでいいよ」と「永遠だったらいいなあ」の2曲が好きで、とくに最後に「永遠…」を歌うと安心して家路につける。マンネリズムの力というしかない。
今回エージさんが専ら話題にしたのが、大橋恵(ピアノ、息子の嫁)の懐妊のことだ。妊娠5か月で大きくなったお腹をかかえて弾くピアノを、エージさんは、「何か違うなあ…」、「音がやさしい…」、「一人ではなく二人で弾いてるんだなあ…」などと、曲の合間に何度も語った。そして息子に向って、「首藤君、…人生だなあ。君はこの間、大学に入り、卒業し、結婚してパパになろうとしている…、人生だなあ…」と、これも何度も語った。
高田エージさんは、同じ歌を歌い続けながら、それに人生の変化を重ね合わせている。マンネリズムと言ったのは失礼になるかもしれない。しかし変化を見ながら、「そのままでいいよ」と言い続ける。なにもしないそのままが一番美しいことを知っているのだ。偉大なマンネリズム、と言うべきか。
左から、ボーカル高田エージ、ピアノ大橋恵、ギター首藤潤
演奏後「恵チャンの安産を願って」と声を合わせるメンバー
ここ数年、自然災害の規模や質がひどくなってきているように思える。今年もまた、想像をしていなかったような自然災害に見舞われ、多くの人命が失われた。
まず広島市の安佐地区を襲った土砂災害だ。起こってみれば、前々からその危険があったはずだと思えるが、そこに住む人たちもあのような災害は想像していなかったのではないか? 大雨の結果が数十名の命を奪うことになるなど、これまであまり考えなかった。広島には6年間住んだだけに、他人事とも思えない災害であった。
あまり考えてなかった災害としては、木曽御岳山の噴火だ。日本で火山の噴火は珍しくないが、それが一瞬にして数十名の命を奪う状況は想像していなかった。既にこの稿にも書いたが、昨年訪れてその美しい山姿を眺めつくしただけに、怖さが身に染みた。
美しいといえば富士山をおいてないが、その噴火が取りざたされていることを聞くと、人類はいよいよ終末期を迎えつつあるのではないか、などと思う。
暮れになってとどめを刺されたのが、長野北部地震だ。なんたって発生の6時間前までその地にいただけに、それこそ他人事とは思えなかった。ただ、数十戸の家屋が倒壊したにもかかわらず一人も死者を出さなかったことが幸いだった。それは、松代地震などの経験から、地域を挙げて災害対策を怠らなかったせいだと聞いて、日常的な訓練や心構えが大きな差を生むことを痛感した。
東日本大震災以来、その地震規模と津波はもとより、大雨、大雪、火山の噴火など、従来と規模も質も異なる災害が迫っているような気がして、これまでの常識的対応ではどうにもならないのではないかという不安がある。しかし長野北部の人たちの対応を知るとと、そこに人智の素晴らしをみて、望みを捨ててはいけないと思う。神の試練は続くのだろう。
娘の主宰するオペラ普及団体ミャゴラトーリに、うれしいニュースが二つ続いた。
一つは、『MOSTLY・CLASSIC』というクラシック音楽雑誌の「2014年回顧」という番組で、「副編集長の選ぶ今年の催しベスト5」に、7月に座・高円寺で公演した『ラ・ボエーム』が2位に選ばれたことだ。オペラ界の鬼才岩田達宗氏の演出を得て、娘をはじめミャゴメンバーが心血を注いで取り組んだ公演であっただけに、その喜びは一入だ。
なにせ金のない団体で、演出家はじめ指揮者(柴田真郁氏)、ピアノ(古藤田みゆきさん)ほか歌手たちにも満足な出演料も払えない中、「小劇場演劇的オペラ」という新しい試みと趣旨に賛同してくれた人たちが、猛暑の中を真剣にとり組んでいた様を見てきた私にとっても、涙の出るほどうれしいニュースであった。
しかも、1位が「サイトウキネン・フェスティバル松本」で、3位が「大野和士リヨン管弦楽団演奏会」であるので、「名も知れない小団体が小澤征爾と大野和士の間に入った」と大喜びをしたわけだ。選者の批評も、「柴田の『ボエーム』で久々にオペラで泣かされた」とあり、規模とか資力ではなく、思い、理念を真剣に貫き通せば意は通じるのだろう。
もう一つは、自治労共済本部の取材を受けて、機関誌『きょうさい通信』にミャゴラトーリの活動が見開き2ページにわたって取り上げられたことだ。こちらは、「子供を含め初めての人に本物のオペラを」という理念に沿って「日本語セリフでつなぐ原語公演」という形式を続けているが、その趣旨と活動を大変いい記事で紹介してくれた。
この形式による公演は、来年既に二つが予定されており、自治労の方々にこの記事を読んでいただき、一人でも二人でも関心を持っていただければと願っている。
総選挙の結果は、議席数で3分の2以上を与党に与えた。策略的な不意打ち選挙で、争点を明確にしないままで、安倍政権のすべての方向があたかも信任を得たかのように言われている。選挙中には声高に言わなかった集団的自衛権や原発問題なども、政権のこれまでの方向が承認されたとしており、その延長線で改憲問題にも踏み込んだ対応を取ると発言している。
白けムードの今回の選挙に、国民の半数はそっぽを向いた(棄権)が、今後の安倍政権の動きにはそっぽを向いていてはいけないだろう。一つ一つ真剣に考えて、信任を与えていない事項にはハッキリとノーと言わねばなるまい。
海外のメディアなどでも、投票率52%は政権に対する不信任の意思表示ではないか、としているものもある。しかもその中で、自民党の得票率は比例区選挙で33%である。議席の大半を占めた選挙区でも48%と過半数に満たない。議席数は小選挙区制という選挙制度のからくりの結果である。
いずれにせよ、安倍自民党は、国民の半分にボイコットされた選挙で33%の支持しかない政党である。このことを安倍首相は肝に銘じて政権運営に当たるべきだし、何より国民は、その現実に立って国民の意思を常に反映していく努力をなすべきであろう。
投票に行かない人は何を考えていたのだろうか? 大阪毎日放送(MBS)ののラジオ番組による世論調査で、投票に行かなかった人に「もし投票するなら比例は何党ですか」と問うたところ、「投票に行ったら日本共産党に入れた」と答えた人が47%であった、という結果がある。自民党が2位の26%で、民主党に至っては5%であったという。
これが真実で、これらの人が多く選挙に参加していたら、日本の政治地図は別のものになっていたかもしれない。議席数に現れた選挙の結果と日本の現実は違っているのかもしれない。政権担当者も広く国民も、心して今後に当たらなければなるまい。
第47回衆議院議員選挙があっけなく終わった。与党に巧みに仕掛けられて、思惑通りに終わったという感じだ。このようなことで民意が集約されたとしていいのだろうか?
何処かのテレビでキャスターが報じていたが、自民党幹部は、大義なき選挙という言葉が世上に流れたとき、「これで勝ったと思った」と言っていたそうだ。大義なき選挙――つまり争点なき選挙となれば、与党の信任投票に終わる、ということらしい。民主も維新も「大義なき選挙」と言って、これという争点も対案も示さなかったのだから、まさに自民党の思う壺であり、初めから与党圧勝は決まっていたのであろう。
自公は、「丁寧に」とか言って恰好はつけながら、やりたい放題をやるのではないか? 特に集団的自衛権の行使容認から憲法改悪の道は怖い。戦後、国民はこの怖さから3分の2議席だけは阻止してきたのだが、このところ、あっさり渡してしまっている。今後の世論喚起が重要で、世論調査なども含め国民の意思表明がキメ手となろう。
中間野党が対決姿勢も具体的政策も示し得ず終わったのに対し、共産党の姿勢は際立っていたのではないか? この党は大義なき選挙など言わないで、この選挙を「安倍政権の暴走にストップをかける絶好のチャンス」ととらえた。そして、経済と国民生活、主として消費税問題、集団的自衛権、原発再稼働、沖縄の辺野古基地移転、などに対案を示しつつ明確な対決姿勢を示した。
それら対案の実現性などはともあれ、その主張は一貫しており、ぶれない党というふれ込みも含めて国民に一定の選択肢を示したのではないか? その結果が、8議席から21議席への躍進となって表れたのであろう。
「3分の2議席確保…歯止めなき暴走」をチェックするためにも、今後議会で一定の影響力を持つであろう共産党の動きは、注目する必要があろう。