旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

二月も終わる

2010-02-27 18:43:53 | 時局雑感

 

 今年もアッという間に2ヶ月が過ぎ去ろうとしている。いつの間にか日が暮れるのが遅くなった。わが庭の紅梅は、早くも盛りを過ぎた。
 前にも書いたように、一週間後に迫った「熊野古道歩き」に備えて周辺を歩き回っているが、日に日に梅が開き、様々な木々が春に向けて生を主張しようとしているように見える。季節の移ろいだけはどんな力も押しとどめることは出来ないのだ。

 三月はいろいろな行事が目白押しだ。面倒を見ている会社の決算の月であり、わが社自体も新体制に向けてかなり流動的な動きになるだろう。その中で、75歳を迎える私は、第一線から身を引く願いを出しているのであるが、どうなることやら・・・。
 酒の会もいくつかある。特に2021日の「山形酒蔵めぐり」は楽しみだ。『十四代』、『出羽桜』、『東光』、『米鶴』の四つの蔵を回る計画だ。相当に勉強になると思っている。

 先ずは、“熊野古道”歩きを無事に終えよう。那智の滝は一度は見たいと思っていたし、古来名高い修行の道がどのような光景であるのか・・・、いつかは歩きたいと思っていた道だ。
 山男の義兄との旅は、いつも得るものが大きい。三月は先ずこの旅から始まる。

  
      羽根木公園の梅


浅田真央 涙の銀メダル

2010-02-26 17:15:53 | スポーツ

 

 日本国中の期待を一身に集めたオリンピックフィギュアスケートの浅田真央が、銀メダルを獲得した。オリンピック銀メダルといえば本人も国中の人も喜びに沸き、まさに「銀メダルに輝いた!」と報じられるべきだと思うが、本人のインタヴューは涙で言葉にならず、テレビの前のわれわれの顔も「輝いた!」という状況ではなかった。

 終わってしばらくして、娘が「可哀そう・・・金メダルでなければダメなんて・・・」とつぶやくのを聞いて、私もハッとして複雑な気持ちになった。
 ショートプログラムで史上初のトリプルアクセルを跳び、このフリーではそれを二度跳ぶ快挙を演じながら、インタヴューの彼女は悔しさに涙があふれ、話す言葉は声にならなかった。「トリプルアクセルを二回とんで、やることはやったが、全体として満足してない。悔しい・・・」と泣きじゃくった。

 私はショートプログラムで高得点をたたき出した後のインタヴューで、「しっかりと十分に練習してきたので、その通りにやりました」と晴れやかに語る彼女を見て、本当に素晴らしい子だ、とつくづく思っていた。練習をし尽くしその通りに自信を持ってやる・・・、そんな素晴らしいことがオリンピックという場で出来るとは・・・、しかも19歳の女の子だ。
 そして今日のフリーも、その通りにやって見事銀メダルに輝いたのだ!
 しかし彼女にとっては不満が残った。「しっかりと十分に練習してきた」のに小さいがミスを犯した。それは彼女には許されなかったのだろう。その悔しさが後から後から涙となって彼女を責めたのであろう。

 彼女のミスなど誰も責められない。逆に、彼女に学ぶべきは果てしなく大きい。それは彼女が、銀メダルという世界最高水準の演技が出来るようになるまで「しっかりと十分に練習を積み」、オリンピックという大舞台で、(小さいミスはあっても)「その通りにやった」ということだ。並の人間に出来ることではない。


楽しみな熊野古道

2010-02-23 17:23:43 | 

 

 1月3日のこのブログ「今年の旅」で、当面俎上にのぼっている計画として、国内では3月の熊野古道、海外は4月の「トスカをたどるローマの旅」と書いた。ローマの方は計画が煮詰まっておらず無期延期となっているが、「世界遺産熊野古道を歩く」旅は二週間後に迫って来た。楽しみである。

 熊野古道といえば単なる旅行気分で歩けるような道ではなく、中辺路(なかへち)コースだけでも高低差数百メートル、総行程は数十キロに及ぶ古来の難所、もちろんそのほんの一部を歩くに過ぎないがそれなりの緊張をしている。
 靴も無いので、トレッキングシューズを買い求め、足慣らしのために近くの散歩コースである松沢病院周辺などを週末の都度歩いている。また通勤時の駅の階段も、エスカレーターを極力避けて歩いたりしている。そんな程度で役に立つのかどうか知らないが、心構えだけはしておかねばなるまい。何といっても相手は古来名高い修行の地であるので、まず精神面で負けては戦(いくさ)にならないと思うから・・・。

 資料も集めている。あちこちのチラシや行程の詳細地図を入手したし、本も一冊買ってきた。どの本がいいのか分からないが、「紀伊路に行くので紀伊国屋なら何かあるだろう」と出向き『世界遺産熊野古道を歩く――紀伊山地の霊場と参詣道』(田中昭三監修、JTBパブリッシング)を買ってきた。
 読んでみると面白い。知らないことばかりで興味深々だ。この調子では、例によってしばらくこの旅のとりこになりそうだ。
 まあいいだろう、こんなことでもなければ、わが祖先たちが何を求めて何をしてきたのかなど考えることもないのだから。しばらくは、神も仏も一緒にしてひたすら極楽浄土を求めた先人たちの後を追おう。


素晴らしかったリヒテルズ直子さんの講演

2010-02-21 18:40:47 | 政治経済

 

 昨夜、リヒテルズ直子さんの講演を聞いた。題名は「子どもたちの幸せ感世界一のオランダの教育と それを支える政治・マスコミ・市民社会」という長い題目であったが、その通り、オランダの教育を中心に政治、経済、社会生活全般にわたる極めて示唆に富む話であった。
 リヒテルズさんは1955年下関生まれで、九州大学大学院卒業後世界各国を回る中でオランダ人と結婚、現在はオランダで教育を中心に多彩な活動を続けている。私は、かねてこのブログでも書いてきたように、日本の今後を見定める上で北欧とオランダの生き方が大きく参考になると思っている。既に彼女の図書『残業ゼロ授業料ゼロで豊かな国 オランダ』をこのブログで紹介したが、直接聞く彼女の話は、新たに目からうろこの落ちる思いであった。
 その中身は、1時間20分の話にしては内容が濃く、とてもここに書ききれない。講演レジメをもとに内容を整理しようと思っているが、2,3の主要点だけ列記しておく

 オランダは4周目(1週目「市民社会の成立(良心の自由の確立など)」、2周目「機会平等の確立(国家主義的反動と戦争の苦い経験からの開放)」、3週目「異文化社会との共生(世界の貧富解消への理想)」、4周目「ポスト・グローバリゼイション(世界規模化する産業社会からの脱皮)」)に入っているが、日本は3周遅れを取り戻して、一気に4周目に追いつけるか?
・大学入試制度を廃止して多様な教育を ・・・ 大学入試試験は、子どもを産業社会の歯車のひとつにするための選別制度。知識の量が人間を幸せにする保証はない。
・小選挙区制をやめて比例代表制に ・・・ オランダは完全比例代表制。小選挙区制は市民の政治参加意欲を萎えさせる! 比例代表制は、少数の意見もその存在を示し、国民はそれらの存在を知り様々な判断をする。例えば、極右勢力が増加すれば、それを見て「何か今の政治に欠陥が生じているのではないか?」と反省する。それがいいのだ。

 私がオランダから一番学びたいことは、「ポルダーモデル」――「ワークシェアリング思想」であるが、そのようなことを考えていると、日本がいつ追いつけるのか気の遠くなるような思いである。


雨水とともに、ようやく暖かくなるきざしが・・・

2010-02-20 14:17:19 | 時局雑感

 

 昨19日は24節気の雨水。雪がとけて雨となる時節である。それにともない昨日あたりから暖かいきざしが戻ってきた。
 今年は暖冬の予想であったと記憶するが、厳しい寒さが続いた。東京にはついに雪の降ることもなくなったのか、などと思っていたが今年は「2年ぶりの積雪」などとなり、それも一回どころか二回も積もった。
 二回目の先日(16日?)などは朝起きて真っ白になっているので驚いた。しかもまだチラチラしており、通勤は大丈夫かな、などと不安になったりしたのであるが、道路はシャーベット状ですらなく、周囲の雪も瞬く間に消えてなくなった。
 しかしわが家のハナミズキが、短い時間といえども雪化粧姿を見せてくれたのは嬉しかった。冬はやはり、このようなシーンがなければつまらない。

     

 思えばこの雪は、自然が「雨水」という節気のあることを示すために仕組んだのかもしれない。降りしきる雪もやがて季節の移ろいと共に雨に変わっていくのだよ、そして春を迎えるのだよ・・・ということを示すには、雪も見せなければならないし、そのあと「暖かいきざし」を示していかねばならない。
 自然は、雨水と言う言葉が未だ生きていることを、実演つきで教えてくれたのだろう。

 

 


『虫庭の宿』を読んで③ ・・・ 「別府のようになるな!」

2010-02-18 19:52:36 | 

 

 奇想天外なアイデアマン(中谷氏)と類まれな企画折衝力の持ち主(溝口氏)、それに抜群の行動力(志手氏)があいまって、由布院は新しい街づくりに進む。それまでの由布院は「別府の裏のひなびた温泉宿」に過ぎず、周囲にたくさんある温泉町にも及ばず、彼らは「別府様とは及びもつかぬが、せめてなりたや天ヶ瀬に・・・」などと唄っていたという。

 ところが彼らは、やがて別府と全く逆方向の町づくりを目指すようになる。大型化、歓楽街化する別府に対し、自然と由布院町の個性を生かした町づくり、小さい旅館が様々な客層をそれぞれ受け入れながら「癒しの場所」を提供して行く。『玉の湯』や『亀の井別荘』などは一泊5万円から7万円などと高い。しかし『玉の湯』など部屋数は18部屋で、それ以上増やさない。人気が出てきたからといって客を独り占めしない。35万円クラス、12万円クラス、1万円以下クラスの旅館が、相応の客を分担して受け入れて行く。
 家族連れなどの「癒しの里」にこだわり歓楽街化を徹底的に避ける。大型ホテルなどの進出とあくまで戦ってきた。「パチンコ屋は無いのか?」と言う客には「どうぞ別府に行ってください」、「女はいないのか」という人にも「どうぞ別府に行ってください」と言ってきたというから面白い。つまり別府を反面教師とし、「別府のようになるな!」を合言葉にしてきたといえよう。
 ヨーロッパに学び、何よりも自然を愛し、由布院しかないものを育てる郷土愛に燃えつづけた人たちの執念が、今の由布院を作り上げたと言えるのだろう。

 実は昨年5月、同窓会出席のために別府を訪ねた。そして別府の寂れ具合に驚いた。商店街もさびしく、美しい海岸通りに人影も少なく、町全体に何か灰色のモヤが架かっている感じがした。
 聞けば、大型ホテルの進出で、一館で2~3千人の客を吸収、ホテル内にレジャー施設、買い物施設すべて整えているため、客は町に出ることも無く、小さい旅館と商店街が全て寂れていったという。大企業栄えて民は滅んだのである。
 「お湯もいいし、別府湾に臨む環境もいい町がどうしてこんなことに・・・?」と同行したワイフとしきりに話し合ったのであった。市場原理主義、新自由主義の小泉竹中路線の挙句が、一部大企業の繁栄の一方に広大な貧困を生み出した現下の日本の姿と同じである。
 由布院を築いた人たちは、数十年も前にどうしてこのことに気づいたのだろうか?


清らかな「止まらぬ涙」 ・・・ 上村愛子選手の健闘を称える

2010-02-16 14:07:05 | スポーツ

 

 四年に一度のオリンピックは、四年に一度しか味わえない感動を、必ず幾つか与えてくれる。始まったばかりのモントリオール冬季五輪は、早くもその一つを与えてくれた。
 モーグルの上村愛子選手が流した涙である。

 上村に、止まらぬほどの涙を流させたものは何だろう? 「微妙なタイミングミスはあったが、滑り自体に悔いはない」という滑りを終えて暫定2位、そのあと一人が上位を取り最終走者カーニー(優勝者)を迎えて暫定3位・・・、彼女は正直に「このまま3位で居たい・・」と思ったと言う。カーニーの見事な滑りで優勝が決まった瞬間、上村はメダルを逃し、あふれ出た涙はいつまでも止まることはなかった。
 「悔しいから」と言ってしまえばその通りだろうが、そんな単純なものではない気がする。「なんで一段一段なんだろう」という彼女に言葉に、その「止まらぬ涙」の原因があるようだ。この彼女にとって一番解けない謎が、彼女の涙をいつまでも絶やさなかったのではないか? 
 既に彼女は涙を流し続けてはいないだろうが、この謎は未だ解けてはいないだろう。努力をし尽くし、新技術を磨き上げ、幾多の大会で勝利を手にしながら、
4回にも及んだオリンピックだけが「どうしても与えてくれなかったメダル」の謎は誰にも解けない。

 しかし、4回もオリンピックに出場し、四回とも入賞し且つその都度順位を上げていった選手なんて世界に何人いたのだろう? こんな名誉と喜びを持つ人間は、どこまで幸せなんだろうとも思う。しかし彼女は、「4回の入賞を全てお返しするので、1個のメダルをください」と言っているのかもしれない。それが「なんで一段一段なんだろう」という言葉に凝縮されている。
 努力をし尽くし、世人には近づくことも不可能な栄光にチャレンジし続けた者だけが味わう境地であろう。そこには当然、誇りも満足も混在する。それだけに彼女の流し続けた涙は清らかで、見るものに清清しい感動を与えたのであろう。


『虫庭の宿』を読んで② ・・・ 個性豊かな人々の不抜の戦い

2010-02-14 11:58:55 | 

 

 町つくりの話には、それを支え続けた人物の話が必ず出て来る。それも伝説的な人物が多く、別言すれば、そんな人物がいなければ歴史に残る町つくりは出来ない。そして由布院にもそのような人たちがいたのである。
 それを代表するのが三人――いずれも旅館業者で、「玉の湯」の溝口薫平、「亀の井別荘」の中谷健太郎、「山のホテル夢想園」の志手康二、の各氏であった。この類まれな才能を、神は「由布院を守るために」その地に集めたと言うしかあるまい。

 溝口薫平氏は、日田の博物館に勤めていたが、「玉の湯」の養女喜代子さんと結婚して由布院を生きる場と定め、中谷健太郎氏(雪博士中谷宇吉郎の甥)は東京で東宝の映画助監督をしていたが父の死去で已むなく由布院「亀の井別荘」に帰り、ちょうど代替わりした「夢想園」の志手康二氏を加えた運命的なトリオが組まれることになるのである。
 日本が高度成長に踏み出す1964年、溝口薫平、志手康二とも31歳、中谷健太郎30歳の春であった。
 中谷健太郎氏は抜群のアイデアマンで、想像を絶するような町おこしアイデアを次々と出していく。しかしそれを自治体や周囲が納得するものにするためには、工夫と折衝力が要る。それをやったのが「気配りの天才」と言われた溝口薫平氏であった。まとめられた案は実行されねば意味が無い。その先頭に立ったのが、周囲に強力な仲間を持ち行動力抜群の志手康二氏と言うわけだ。
 350頁に及ぶこの分厚い本に、奇想天外な発想を何とかものにして実現していく三人の活動が面白いように出てくる。しかも学ぶことを怠らない。1971年、三人は45日間のヨーロッパ旅行に出かける。1ドル360円時代に一人70万円を銀行から借りて、無銭旅行のような旅を重ね、ヨーロッパの町や旅館のあり方を学ぶ。そのくだりを読むだけでもこの本は面白い。その教訓を次々と由布院に生かしていったのだ。

 もちろん、町つくりは「攻める」ことだけではない。むしろ「守る」ことが大半だ。前回書いたようなゴルフ場進出などを阻止するために、三人は戦いまくる。戦記物など読んで「攻めるときより退くときの方が難しい」という実践版のようなものだ。
 とにかく面白い。(面白いなどと言っては失礼だが・・・)


『虫庭の宿』を読んで ・・・ 由布院を守り育てた人々

2010-02-12 20:44:31 | 

 

 『虫庭の宿』(西日本新聞社発行)と言う本を読んで、ふるさと大分に新たな郷愁をいだき、その一町を守り育てた人たちの活動に清清しい感動を覚えた。

 この本は、温泉で有名な由布院町を守り育てた人たちの活動の記録である。多くの人々が現在の素晴らしい由布院町の町つくりに参画するが、その中の中心人物の一人、玉の湯温泉会長溝口薫平氏の語りを、西日本新聞社の元大分総局長野口智弘氏が聞き書きしたのがこの本である。

 私が生まれ育ったのは大分県臼杵市であるが、山が好きであったのでよく由布岳に登った。双子峰の男性的な山で、1583メートルにしては登るのがきつい山であった。その山懐に抱かれた盆地にある温泉地が湯布院町で、当時(半世紀以上前)は、田んぼの中に温泉宿が点在する何の変哲も無い町であった。温泉といっても、せいぜい「別府の裏座敷」という位置づけに過ぎなかった
 それが今や、日本を代表する温泉町となった。しかも、いわゆる歓楽街ではなく、自然と文化と癒しの場所として、心ある人びとの憧れの地になったのである。




 1958年に大分を離れた私は、その後、由布院の名声を聞いてはきた。特に音楽祭と映画祭が東京でも有名になり、私は、おそらく都会の人たちが雑踏を逃れて「あの鄙びた温泉地」で祭りをやっているのだろうと思っていた。むしろ、都会の連中にふるさとの地が荒らされているのではないかとさえ思っていた。
 ところが、この本を読んで、全く逆であったことを知った。都会の攻勢はもちろんあった。それは、由布院の豊かな自然で一儲けしようとする大資本の「歓楽街化攻勢」であった。むしろそれとどう戦うかが由布院の人たちの宿命であったのだ。
 ゴルフ場の進出、大レジャーランドの進出、サファリパークの進出、町の高層化の攻勢・・・これらを全て退けながらの「自然を守る」戦いが、この本につづられている。日本全土が高度成長の材料にされ、魅力ある街ほど「資本の牙」に食い荒らされた中で、由布院が今の姿を築いたことは驚異と言うしかないが、それなりの理由があったことがわかる


高校同窓会の値打ち

2010-02-11 19:50:09 | 時局雑感

 

 昨夜、昭和29(1954)年臼杵高校を卒業した者の同窓(同級)会に参加した。ざっと半世紀以上前の同級生の集まりである。
 当時、5クラスあり1
クラスの生徒数は40~50人であったと思うので、同窓の総数は200~250名であったろう。幹事の報告によれば東京近郊に住むもので把握している対象者は35人ということなので、東京在住者は10数%にあたる。九州は大分県の臼杵という片田舎の人間が、10数%東京に住んでいるというのは意外に多いな、などと思うが、そのうち26人が集まったことになお驚いた。
 集まったものはみんな元気はつらつ、大いに食べ、大いに飲み、また大いにしゃべって楽しい会であった。

 小学校の同窓会も中学校の同窓会も、何十年か前にあったが途切れてしまっている。今後も開かれることは無いだろう。最終職場の同窓会はいろいろなグループで行なわれているが、これは同窓会というより未だ仕事上の生臭さを残している。大学の同窓会はなんとなく中途半端だ。
 となれば、高校同窓会というのは一番値打ちがあるのかもしれない。なんと言っても15歳から18歳ぐらいまでの青春真っ只中で、人生を形作ろうとし始める頃だ。
 その頃の話が、思い出しても一番面白いのかもしれない。


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