旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

今年も暮れていく

2007-12-31 17:06:10 | 時局雑感

 

 今年も暮れようとしている。
 ふり返れば、初めての体験をいくつかした。一つはドイツ、フランス、イギリスというヨーロッパの大国に初めて行った。これまでかなり世界を回ったが、その締めくくりのような旅であった。その歴史の重みもさることながら、現代社会の病根をじわりと乗り越えようとしている姿に、さすが大国の持つ風格を感じた。EU(欧州連合)の今後のイニシアティブに期待する。
 国内では、この歳になって初めて上高地に行った。二日間とも一点の雲もない快晴に恵まれ、この世のものとも思えない美しさに感じ入った。同時に、この世のものたる現実の日本の、あまりにも汚れた姿を悲しく思った。「偽」にまみれた日本は、いつの間にか危ない国になってしまった。

 もう一つ、私が今年始めたことに、このブログがある。ひょんなことから今年の正月に始め、二日に一回のペースで書き続けた。しかし、一瞬にして世界とつながるこの世界も、常に危険と隣り合わせにあると感じる。インターネットを通じた想像を絶する広い可能性を生きるためには、それにふさわしい「新たな規範」、「新たな哲学」を、人類は身につけなける必要があるのではないか?

 こんなことを考えながら、今年も暮れていく・・・・・・

         07年12月31日 tabinoplasma 
                                


元祖「哲学者の道」を歩く

2007-12-29 14:13:41 | 

 

 前述したように、ハイデルベルク城からネッカー川をはさんだ対岸の中腹に「哲学者の道」があり、アルテ橋の袂からそれに登る小道がつけられている。かなりの急坂とは覚悟して取り付いたが、想像よりはるかにきつい道で、石畳の急坂を汗びっしょりになり20分はかけてたどり着いた。「道を究める」には努力が要るものだとつくづく思った。
 上がってみると、想像していたより広い舗装の道で、登ってきた小道の方がよほど哲学的であったが、ただ、ここから眺めるハイデルベルクの街、ネッカー川、アルテ橋、ハイデルベルク城などの景観は一級品であった。
 今日の表題に「元祖」と入れたのは、私はこれまで二つの「哲学の道」を歩いているからだ。一つは京都東山の琵琶湖疎水に沿う哲学の道だ。西田幾多郎ほか京都学派が思索にふけったという。
 もう一つは、大分県臼杵市のわが実家にある。私の三弟が家を守ってくれており、庭いじりの好きな彼は、狭い庭ではあるが中央の大きな庭石のまわりに小道をつけ、「哲学の道」と名づけた。私は帰郷するたびにその道を歩かされる。それは全長10メートルに満たず「哲学する」には至らないが、周囲の小枝を避け、くもの巣などに注意しての歩行であるので、それなりの努力は要する。
 それに比し、この「哲学者の道」こそは元祖といえよう。1386年に創設されたハイデルベルク大学は幾多の碩学を排出し、ノーベル賞受賞者だけでも8人を出した。名だたる学者が歩いたのであろう。かのマックス・ウェーバーも歩いたに違いない。彼は1897~1903年間ハイデルベルク大学の教壇に立ち、この道の麓に住んでいたという。退職直後にかの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を出したので、その構想は哲学者の道で練られたのかもしれない。
 ゲーテもショパンも歩いたといわれる。同じ哲学の道にも大小さまざまあるのである。
                     


威厳に満ちたハイデルベルク

2007-12-28 16:30:13 | 

 

 このドイツ旅行の最後の訪問地はハイデルベルク。帰国の前日、友人夫妻と四人で、このドイツ最古の大学都市を訪ねた。そして、その落ち着いた、威厳に満ちた街を歩いて、ドイツ国家の高い品格に触れた感じがした。最後に訪れるに最もふさわしい町といえよう。
 
名だたる町の配置は、必ず美しい川を挟んで街がつくられ、それをまた美しい橋が結んで絶妙なバランスを構成している。ドナウ川を挟むハンガリーのブダペスト、モルダウ川にまたがるチェコのプラハは、いずれも川を隔てて王宮の丘と旧市街が拡がり、それを、前者はくさり橋、後者はカレル橋という有名な橋が結んでいる。
 
ハイデルベルクもネッカー川にまたがり、それをアルテ橋という文字通り「古い橋」がつないでいる。立派な橋門を持ち、十個近いアーチ型の橋げたが並ぶアルテ橋は、歴史を感じさせるとともに、ネッカー川に映す影が両岸の街と背後の山の緑と調和して気品がある。街に入りまず目に付く圧倒的な観光スポットだ。
 
ところが、それにも勝る観光的建造物が左岸の山の中腹にあるハイデルベルク城だ。フランスとの戦争でルイ十四世に二度にわたり徹底的な破壊を受けて、いまや廃墟となっているこの城は、むしろ廃墟であるがゆえに神々しい威厳をたたえているとも言えるようだ。これほど“静寂な威厳”を感じたものも珍しい。見た瞬間、後ずさりしたくなるような圧力があった。
 
ケーブルカーで上り、城から美しい市街やアルテ橋を眺め、城の中も見学した。びっくりしたのは城の地下に巨大な樽が据え付けられており、それは当時税金として取り立てたブドウを、ワインとして蓄えたものと言う。「決して良質のワインではなかったであろう」と解説者は言っていたが・・・。さすがにブドウの国の税金はブドウで払うのだ。
 
城壁から川向こうの山の中腹を見ると、一筋の道が通っている。それが、かの「哲学者の道」だ。どうしてもその道にだけは立ってみたい、と向かう。(続きは次回)
                     


甘さによるワインの格付

2007-12-26 14:54:23 | 

 

 今回のドイツの旅で、まったく新しい「酒の甘さ」を体験した。そもそも戦後日本酒の糖類添加によるベタベタ甘さにうんざりして、日本酒離れが起こり日本酒の低迷は今も続いている。
 
一方で、酒は甘くなければ飲むものはいないだろう、と私は思い続けてきた。べたべたしない透明な甘さ・・・、これが酒には欠かせない。ウォトカでもラムでも、あのほのかな甘さがあるから飲むのだ。
 
今回のドイツワイン「アウスレーゼ」で、ブドウの香りの生々しさを持ちながら、しかも重量感を感じさせながら、なおかつ全くべとつかない透明な甘さに初めて出会った。
 
この甘さは何から生まれるのか・・・。もちろん製法技術にもかかわるが、大半は原料たるブドウの成熟度に起因する。つまり、ブドウを摘む時期によって甘さが異なる。長く実をつけ、摘む時期が遅いほどブドウは熟れる。熟れるほど糖度が高まり、それで造るワインは甘くなる。
 
普通に育てれば早く熟れて、摘まないでも熟して散ってしまう。それをいつまでも実を付けさせて糖度を増す。遅いのは11月や12月の雪の降る時節まで実を持たせるそうだ。その摘む時期の順序により、「アイスワイン」――「アウスレーゼ」――「トロッケン」――「ベーレン」などとランク付けして呼ばれるようだ。
 
だから、ワイン製造者にとってブドウの成長度合いこそ勝負となり、蔵にいるよりブドウ畑にいる方が長いと言われるのはその所為だ。

 前回書いた「アウスレーゼ」が美味しかったので、私はドイツの友人に頼んで「2003年もを」を6本、「2004年もの」を3本取り寄せた。彼はリューデスハイムの蔵元から買い入れ、日本に帰るときに(彼は月に1、2回帰国する)手荷物で持ち帰ってくれた。
 
これを職場に持ち込むと、大変な好評を得た。ある女性は「首藤さん、これはいけません。このような美味しい酒を常日頃飲んではいけません。これは禁断の酒です」とまで言った。(写真は2本のアウスレーゼのラベル)
 
この禁断の酒で年を越すべく、手元に未だ2本だけ残してある。
                            
                            


ドイツワインの華「アウスレーゼ」に感動

2007-12-24 14:28:57 | 

 

 リューデスハイムのもう一つの思い出は、この町を中心にライン河畔で造られるワイン《ラインガウ(RHEINGAU)》の中でも華と言われる「リースリング アウスレーゼ」(Riesling Auslese)との出会いである。
 実はこの旅に出かける前、娘婿に「お土産はアウスレーゼをお願いします」と頼まれていた。アウスレーゼが高級なワインとは聞いていたが、まあそこそこのものを買えばよかろうと、軽い調子で引き受けていたのだ。
 ところがフランクフルト三越で探したところ、ずらりと並んだワインの一番右端にあるアウスレーゼは、96ユーロの値段がついている。円に換算するとざっと1万6千円である。
 「冗談じゃねえ、こんな高いものをアイツに買って帰れるか」などと思いながら、アウスレーゼは半ば諦めていた。ところが、リューデスハイムの街の酒屋さんでこれを見つけたのだ。さすがにワインの街の酒屋さん、床から陳列棚まで沢山のワインが積み重ねられるように並んでいる。その中から、わがドイツの友人が見事にアウスレーゼを見つけ出してくれたのだ。
 見ると、中央の陳列台の上に、数本が鎮座しており、RIESLING AUSLESE と書いてある。値段は、2003年もの中瓶(0.5L)が13ユーロ(約2200円)、2004年もの大瓶(0.75L)が24ユーロ(約4000円)。「これこれ・・・」と思って各一本ずつ買い込み、下着などで幾重にも巻いて、大事に大事にバッゲージに詰めて日本に持ち帰ったのである。

 帰国後、早速娘夫婦の家に持ち込みみんなで飲んだ。
 その感動は、これまた筆舌に尽くしがたいものがあった。ブドウの茎や葉の香りがする生々しさを持ちながら、すっきりと透明な甘さ・・・、相当な甘さであるが一切べとつきを感じさせない。いくらでも飲める重量感のある甘さを、私は初めて知った。
 長くなったので続きは次回。
                     
                                 


思い出のリューデスハイム

2007-12-22 13:20:42 | 

 

 ライン下りの眼目の一つは両岸の山の中腹に点在する古城だ。中世ドイツの群雄割拠時代、各地に絶大な権力を持つ選帝侯とよばれた諸侯や大司教が築いた城跡だ。しかし今はほとんど廃墟であり、当日が曇天であったこともあり際立った印象は無かった。
 むしろ、両岸に次々と現れるおとぎの国のような美しい街が心に残った。その中でもリューデスハイムの町が思い出深い。
 私たちは街を散策し、お土産を買い、有名な「つぐみ横丁」で昼食をとった。どのレストランも生演奏をやっており、狭い横丁をぞろぞろ歩く人たちには、店から流れ出る音楽にあわせて、抱き合い踊りながら行く人もいた。
 この街はライン流域でも屈指のワインの産地で、生来陽気な街らしく、次に機会があれば2~3泊したい街だと思った。

 街の後背地はなだらかな丘陵地で、広大なブドウ畑となっている。そのブドウ畑が森に突き当たるとことろ、標高225メートルの「ニーダーヴァルトの丘」に、巨大な《女神ゲルマニア像》が立っている。この像は、普仏戦争に勝って、「ドイツ再統一の象徴として1877年から1883年にわたり、国民の寄付で建立されたもの。像高10.55メートルで、高さ25メートルもある石の台座には各種兵器をたずさえた兵士達に、領主、軍司令官、それに「ドイツ帝国の鍛冶屋」ビスマルクを従えた皇帝ウィルヘルム一世など、約200人の等身大の群像をブロンズレリーフであらわしている」(Rahmel-Verlag『ライン川』18頁)
 原口隆行氏はその著『ドイツ・ライン川鉄道紀行』で、「普仏戦争は、一面でライン川をめぐる攻防でもあった。だからこそ、この女神はライン川のはるか彼方、フランスを睨み据えて堂々と立ち聳えているのだ。かつてのドイツ帝国を象徴するモニュメントである。」と書いている。(同著97頁)
 私も、なんともドイツらしい像だと思った。ただ、そこから見下ろす広大なブドウ畑とリューデスハイムの街並み、その向こうを
流れるライン川の眺めは、雄大で美しかった。


ライン(Rhein)下り

2007-12-21 13:19:51 | 

 

 日本でも最上川や球磨川を下ったが、どこの国にも川を舞台にした観光がある。ニューオルリーンズではミシシッピー・クルージングで大らかな気分になり、コスタリカでは一日がかりのリバー・ラフティングでスリルを味わった。オランダの運河クルージングは、小じんまりしてまた別の味があった。
 ライン河はドイツの「父なる河」と呼ばれている。単にドイツだけでなく、ヨーロッパの歴史を担った大動脈ともいえる河だ。
 スイスのアルプスに水源を発し、オーストリア国境、ドイツ国境を流れ下り、スイスを離れるとドイツフランス国境を北に向かう。やがてドイツ領土内に入り、ハイデルベルクを擁するネッカー川、フランクフルトの在るマイン川、トリアーを流れるモーゼル川などを合流しながら大河となって、ボンやデュッセルドルフを育んでオランダ国境を越え、アーネムを経てロッテルダムから北海に注ぐ。
 全長1320kmは、世界の大河に比して決して長くないが(ナイル、アマゾン、揚子江などは6千㌔超)、その果たした役割と風光はいずれにも劣らないといわれている。
 その中流、マインツ・コブレンツ間の約90kmが、ライン河の中で一番美しいといわれるロマンティック・ラインである。
 私たちは、その中でも最もメインとなる「リューデスハイムーーゴアルスハウゼン」間を下った。左右に点在する古城と美しい街を眺め、背後に広がる広大なブドウ畑に心を委ね、地元ワイン「ラインガウ」を飲(や)りながら・・・・・・。(続きは明日)
                     


「偽」について

2007-12-18 17:35:21 | 時局雑感

 

 今年一年を最も端的に表す文字として「偽」が選ばれたが、それがピッタリであるだけに何とも悲しい。テレビでこの字を書いたお坊さん(清水寺の管主?)が、「このような字が一国の一年を象徴する字として選ばれるなんて、まったくもって情けない」と怒りまくっていたが、日本もひどい国になったものだ。
 ホテルやマンションの偽装問題が起こって、住むところが信用できなくなったのでは生きていけるのかなあ、などと思ってきたが、問題はついに日日の食べ物にまで及んできた。自然の動植物を食べて生きていた原始時代は、食べることも自己責任で、ある意味では毎日の食事も命がけであったといえよう。現代では食べ物は大半が加工物で、食べる方は生産者を信じて食べるしかない。そして、生産者は絶対にウソをつかない、というのが社会の掟(おきて)となっていた。お互いに生きるために社会を構成している以上、構成員は、この掟だけは破ってはいけないのだ。
 もう一つ社会の構成員がお互いに生きるために守ってきた掟に、人を殺さない、というのがあった。昔からいじめもあり、喧嘩もあり、殴り合いもあった。しかし、相手を殺すとか、生きていけないような不具者にまでする、ということはしないという掟があった。しかしこの掟も最近は簡単に破られるようになった。しかも親が子を殺す、子が親を殺す、また弟子を鍛えると称して死に至らしめる、などいうことが起こってきた。自分ひとりでは未だ生きられない子供は、親に全幅の信頼を寄せ、親だけは自分を守ってくれるという掟の中に身を委ねて生きている。その掟がやぶられるような社会には、発展性どころか永続性もないのではないか?
 いつから日本はそんな国になったのだろうか?
 社会における最低限の掟だけは守られる国・・・、そこに日本のよさを感じながら生きてきたのであるが、その根底が怪しくなった。しかも、解決策が簡単に見つかりそうもない問題だけに恐ろしい。
                            


年賀状の季節

2007-12-16 11:07:06 | 時局雑感

 

 昨日、意を決して年賀状約200枚を書き上げた。まだ十分に時日の余裕があるが、どうせ年内にやらなければならないことなので処理した。
 ピーク3百数十枚出していたが、250枚、200枚と減らしてきて、最終100枚前後にしたいと思っているがなかなか減らない。昨年も200枚をかなりオーバーしたし、今年も新年を迎えて未出状者に返事を書いていると大分オーバーするだろう。
 年賀状は、来年の挨拶を今年のうちにするので、気持ちの上ではピンとこない。本来は「昨年お世話になったことを謝し、今年お世話になることをあらかじめお願いする」挨拶状のようだが、あまり相手にお願いするのも申し訳ないので、私はそのような言葉をほとんど使わず、一方的に「自分の現状を発信する」ことだけにしている。来年の挨拶を今年のうちに書く「ピンとこない」意識も作用しているのかもしれない。
 そこで、昨年(実は今年であるが)自分が為した最も典型的なこと」を先ず書いて「元気に生きてますよ」ということを知らせ、「今年(実は来年であるが)にかける思い」を一言添えることにしている。
 まったく自分のことを一方的に発信するだけであるので、貰った方は迷惑かな? と心配はしている。
 しかし、一年を通して一度も会うこと無く、言葉も交わさなかった人に、いくら旧来の関係者とはいえ「お世話になりました。今年もよろしく」と言うことは、あまりにも空虚と思えるので、「生きていますよ」ということをわかっていただける発信だけにとどめているのだ。
 本当に親しく、日日お世話をかけたりお世話されたりしている人には、年賀状など不要なのではないか? そう思うと、日常的なつながりは無かったが関係を絶ちたくないという人、これが年賀状の対象者かもしれない。
 せいぜい数十名、多くて100人であろう。
                     


トラボウレスーー隠されたリヨンの通路

2007-12-14 15:35:46 | 

 

   リヨンのことでどうしても書き残しておかねばならないことは、トラボウレス(TRABOULES)という通路のことだ。結論から言えば、これは「建物の中を通過する道」のことである。しかもその建物は公共の建物ではなく、それぞれ個人の所有する建物である。
 ある通りに面した4~5階建ての建物に、
狭い、暗い通路が開いている。人の家の中に入るようにその通路に入って行ってドアを押すと、狭い中庭みたいな空間に出る。周囲には4~5階の住宅が聳えていて、それぞれ螺線形の階段が昇っている。その広間には井戸などがあるから、それを共同で使っているのだろうか?
 入ってきた反対側のドアを押すとまた狭い通路があるので、そこを歩き突き当たりのドアを押すと、全く別の通りに出る。
 「これはアナザーストリート(さっきと別の通り)だ」
と、わが友セルジュ君は通りに出る度に誇らしげに語った。また
 「わが町もドイツ軍にパルチザンを組んで戦ったが、ジャーマン・ソルジャー(ドイツ兵)は、この通路で常にわれわれを見失い、また中庭に迷い込んだ奴らは周囲から絶滅された」
とこれまた胸を張って語った。
 街の美しさを称えると、セルジュ君は「俺はここで生まれ育った。両親もリヨンで生きた」と胸を張るし、歴史遺産のどれをとっても誇り高く語った。
 私は、想像を絶する悪事が絶えない日本の現状を振り返り、自分の街に誇りを持つ彼を、本当にうらやましく思った。
                     
 


投票ボタン

blogram投票ボタン