旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

『葦の手帖』のこと

2008-01-30 17:53:58 | 時局雑感

 

 今朝のNHK「おはよう日本」で、『夢の本』という本について放映されていた。まったく無名の市井人たちが夢について書いたものをまとめた本だが、すでに発行部数は10万部を超えたそうだ。原稿を依頼すると、大半の人が「夢なんてありません」と答えるが、何とか書いてもらうと“すばらしい夢”がつづられ、書いた本人から「何もないと思っていたが夢ってあるものですねえ」と言われることが多いという。また、その『夢の本』を読んだ人から次々と原稿が寄せられ、その手紙の数は2万通に達したという。
 
これこそ「本」だ! と思った。多くの人に夢を与えながら、いつの間にか10万部に達するのだ。
 
私の手元に、先日友人から戴いた『葦の手帖』という本がある。エッセイ塾「葦の会」の同人誌だ。会員二十数名、月二回例会を開き専門家の指導を受けながら研鑽を積み、年一回、各人が自信作を一篇提出してこの同人誌を発行しているという。すでに十四年続き、手元にある同誌は「第十二集」となっている。三年目から発行を続けているのであろう。
 
読み進むと、何とも心地よい文章が続く。いずれも、各筆者の周辺で育まれた心温まる物語である。珠玉のような輝きをもって読む人の心を温めてくれる。
 
この本はせいぜい200~300冊の発行かもしれない。二十数名の会員が、ひとり10冊程度を購入し、親しい人に手渡しているのであろう。それは、会員相互を強固につなぐ絆となり、またその周辺の人たちの心を和ませ、その絆をも強くしているのであろう。
 
これまた「本」であるとつくづく思った。

 
前回のブログで、新風舎の破綻原因のひとつが、数名の著者による「800の書店に並ぶという約束を果たしていない」という訴えに発したようだと書いた。その実情は分からないが、本の値打ちが「本が並ぶ書店の数」だけに依存するもでは決してない、とだけは言えるのではないか。


新風舎の破綻

2008-01-28 17:42:33 | 時局雑感

 

 このブログの題名「旅のプラズマ」は、一昨年出版した自著の題名をそのまま使っている。ブログをはじめた背景に本の宣伝という狙いもあったからだ。
 
ところが、その本の出版社「新風舎」が破産してしまった。年が明けた1月7日に民事再生法の申請、しかしその後破産に移行し、ついに会社をたたむことになった。
 
私は、新風舎のやり方はわれわれ無名の書き手にとっては大変にいい仕組みだと思っていた。しかし結局どこかに無理があったのだろうか? 残念ながら“共創出版”(著者が出版費の一部を持ち、出来た本は出版社の力で宣伝、販売する方法)も姿を消すことになるのであろうか?
 
私が契約したのは二年前で、無事に出版でき一刷を完売、おかげで昨年には二刷となり増刷分の印税も受け取った。しかし現在制作中の方は、出版も出来ず払い込んだ金も返らないとなれば大変だ。
 
それにしても、破産の引き金になったと思われる「数名の著者の訴え」には疑問がある。訴えの内容は「出版本は全国800の書店に置く約束なのに置かれてないこと、および約束の部数印刷してない」ということのようだ。
 
私が契約したときも、800の書店にFAXで宣伝をすることになっており、しかし「置いてくれるかどうかは書店側の意向によるので、著者ともども宣伝しましょう」となっていた。そもそもわれわれ無名の者の本を、800もの書店が置いてくれるはずはなく、どこで新風舎側と控訴著者の意向が行き違ったのであろうか? それとも営業マンが出来ないことを承知で、契約を取るためにウソをついたのであろうか?
 
また印刷部数は私の場合「一刷り500冊」であったが、もし同じなら、全部印刷していないというのは考えにくい。何万部とか言うのならいざ知らず、500冊くらいは分けて印刷するなど不採算なことはしないと思われるからだ。
 
私はつまらないことで裁判をしているなあ、と思っていたが、ついにそれが命取りになったようだ。もったいないことをした、という思いだ。
                            


「ドイツの友」に会ってきます。

2008-01-26 11:25:09 | 

 

 今日は久しぶりに懐かしい人に会ってきます。
 昨年秋、二週間にわたるヨーロッパ旅行でお世話になった「ドイツの友人」が出張で来日(帰国?)しているので、今から新宿で会って食事をすることになった。
 既にこのブログに「ドイツの友人」として何度もご登場願った人であり、ドイツ各地とロンドン及びその周辺を案内してくれた人だ。懐かしい思い出話が尽きないものとワクワクしている。旅はこうしていつまでも続くのが楽しいのだ。
 実は、これまたブログに何度も登場した「フランスの友人」セルジュ君一家がこの四月に日本を訪れる。リヨンに住む彼とは、姉妹都市横浜に同行し、そこにある『古リヨン」』を訪ねる約束になっている。これまた、二日間にわたり丁寧に案内してくれたリヨンの街を思い出させてくれるに相違なく、約束の四月十八日を心待ちにしている。
 もう一つ、リヨンからフランクフルトに向かう飛行機で隣り合わせになり、空港でもいろいろとお世話になったジュンコヴィッチ氏からも新年の挨拶メールが来て、今年日本にくる予定があるという。早速「是非ともわが家に来てくれ。あなたはファンタスティックな畳の部屋を体験できるだろう」と返事をしておいたが、はたして来日はいつになるか・・・?

 旅はいろいろな人を結び付けてくれて、いつまでもその交際が続く架け橋となってくれる。だから旅はやめられないのだ。

 では、「ドイツの友」に会うため新宿に出かけてきます。
           08年1月26日午前11時30分


IT論争(2)

2008-01-23 21:59:27 | 時局雑感

 

 IT論争でいつも争点になるのが、メールで各人の行動報告がされることにより社内のコミュニケーションがよくなる、という点についての論争だ。
 私はそんなことによりコミュニケーションはよくならない、むしろ悪くなる、と考える方だ。N君は、各人の報告がメールで読み取れて、誰が何をしているかがよくわかるので良いとする。。
 実はわが社は正社員15人(含むパート)、他にアルバイト数人が絶えず出入りしている程度の会社だ。もちろんワンフロアーで、ちょっと大きな声を出せば全員に聞こえる。にもかかわらず互いにメールで連絡をし合っている。もちろん、出張者もいれば、他社への常駐者もいるので、その人たちにはメールなどの連絡を要することはある。
 しかし、隣や後ろに座ってる人にメールを送ることにはどうしても抵抗がある。加えて、メールを送っておけばコミュニケーションが取れていると判断する感覚には、到底理解しがたいものがある。
 真のコミュニケーションは「フェイス トゥ フェイス」だと思う。
 相手の表情、目の動きなどと合わせた意思疎通こそがコミュニケーションだと思う。
 コンピューターという無機質な媒体を通して、高度な人間の感覚が全て通じるとは到底思えない。
 しかし現代人は、熱く燃える「心」を、冷たい機器の「デジタル文字」に置き換えて接し合っているのだ。
 このようなものが「コミュニケーション」(注)とは到底思えない。

(注)「社会生活を営む人間の間に行われる知覚、感情、
      思考の伝達」(広辞苑)

                     

                               


IT論争

2008-01-22 22:41:24 | 時局雑感

 

 N君と飲むといつもIT論争になる。私はITについて否定的な意見ばかりを言い、N君はITの有効性を説きまくる。もちろん、私はIT技術の素晴らしさをいささかも否定しないし、N君もその害悪を認めないわけではない。両極端の立場から、、何とかこの素晴らしい技術をうまく使う手はないか、ということを追求していると思っている。
 私は、朝から晩までパソコンの前に釘付けになっている人間(含む自分)を実に哀れに思う。職場においては、パソコンを眺めていれば仕事をしていることになっている。全てが無とは言わないが、プログラマーや映像製作者を除いて、パソコンを眺めている間は「価値を生み出している」とは思えない。せいぜい評価して「仕事の準備をしている」か「情報を探っている」程度だ。とすれば、その時間は短いほど有効だ。しかし、パソコンさえ眺めていれば「仕事をしている」とされている。しかも、仕事とは無関係のことをしている時間が相当数あるはずだ。
 仕事を離れて自宅などでは、自分の時間を何に使おうが勝手であるが、この世界に入っていくと異常な世界に引き込まれていく怖さを感じる。私は自分が弱い人間であることを自覚しているつもりであるので、IT世界とは一線を画すことにしている。
 つまり、ブログにおいても「自分を発信する」ことだけに止めている。もっと言えば「自分のために書いている」といっていい。それなら何もブログでなくてもいいのではないか? という疑問が生じるが、公開していることにより「書き続ける」ことを強制することに意義を求めているのかもしれない。だから私は本名で書いている。偽名で書く逃げを避けたいと思っているからだ。
 こうなってくると、何が何だかわからなくなるが・・・。
                      


堕ち行く国力

2008-01-20 19:01:04 | 政治経済

 

 昨年秋のヨーロッパ旅行の体験と、今年元旦から始まった日経新聞の連載「YEN還流・・・沈む国と通貨の物語」に共通点を見出し、1月10日付ブログで「弱い円」について書いた。ところが、それをめぐって、いつもコメントを頂く友人などと、はからずも国力論争となった。
 私は、日本の国力はバブル崩壊以降問題は多いが、技術力を中心にそんなに落ちているはずはないと思い続けているのであるが、円はそれほど強くないはずだとする見解も多く、為替問題の難しさに迷い込んでいたのであった

 さて、その1月10日のブログに日経新聞より引用した行天豊雄氏の「通貨は経済、政治、文化など総合国力の尺度」という点から日本の国情を見直すと、私も日本の国力に自信がなくなってきた。
 
以前は「政治は二流だが経済は一流」といわれていた。しかし政治にいたっては二流どころか四流ぐらいではないか? 文化に至っては日本古来のものをどんどん失って『モノマネ三流文化』に堕しているのかもしれない。
 頼りの経済もバブル崩壊から低迷が続き、これにも自信をなくしていたところ、先日の国会で太田弘子経済財政担当大臣が、ついに「もはや日本は『経済は一流』と呼べない」と白状した。自慢であった一人当たりGDPも、「かつての世界一からOECD(経済協力開発機構)加盟国中18位に落ちた」のでは、これまた三流かもしれない。(以上引用は19日付毎日新聞より)
 私がヨーロッパで感じた実感・・・・・・イギリスやドイツ、フランスで生きるには、日本で生きる二倍の金が必要(日本の国力は欧州の二分の一?)なのではないか、というのは真実なのかもしれない。
 いやはや落ちぶれたものである。
                     


NPO銀行について(2)

2008-01-19 12:28:54 | 時局雑感

 
 前回、NPO銀行のニュースを見て、驚きと感動を覚えたことを書いた。それは、銀行員として生きてきた自分の半生を顧みて、あまりにもかけ離れた存在であったことからきた驚異と感動であったからだ。
 NPO銀行は無利子の資金を集めているからといって、安易に金を貸しているわけではない。審査には百を越えるチェック項目があるという。しかもかなり日数をかけ、実態的には経営指導的なことまでやって、相手NPOの事業がうまくいくように、同時に貸した金が間違いなく回収されるように慎重に運営されているようだ。
 貸金の最高額は3百万円。これがいかにもNPOという感じだ。ある農村のNPOが「農業体験実習」を行うために古い宿泊施設の改装を試みた。2百万円ぐらいかかりそうだが、普通銀行はそれすら貸してくれない。NPO銀行に申し込んだところ、かなりの厳しい審査や経営指導を受けながら「150万円の融資」をうけられた。その人たちが喜び勇んで、みんなで改装に取り組んでいる姿が映し出されていた。
 前述したように私は銀行に勤め、融資業務に長く携わってきたが、そのような「生きた融資」をした実感を持ったことは無い。一般に銀行は、「金の必要な人には貸さない。あまり必要でない人に貸す」のである。金の必要な人は危ないからだ。不必要な人に貸せば安全だし預金として残り、その預金をまた他の人に貸せるのだ。
 こうして銀行は業績を拡大していった。
 真の「国民のための銀行」とは何か? 現役時代から常に頭にあった疑問に対する一つの回答を、このNOP銀行に見る思いがしたのであった。
                     


NPO銀行について

2008-01-17 22:37:38 | 時局雑感

 
 今日のNHK「クローズアップ現代」でNPO銀行が採り上げられていた。聞いてはいたが、そのようなものが本当にあるのかと、ほとんど信じていなかった。
 つまり非営利団体に金を貸すこと自体ピンと来なかったし、その銀行が相応に非営利的であるなど想定できなかったからだ。
 私は都市銀行に30年勤めて融資課長などもやってきた男であるが、そのような哲学は私の経験した世界には無かった。
 ところが、その銀行に、無利子、無条件で金を出資する人が沢山いるのだ。しかも出資者たちは結構若い人たちだ。その中の一人が、インタービューに応えていた。
 「今まで銀行に預けていたが、その金がどこに、何に使われたのかさっぱりわからない。充実感が無い。それなら、利子もつかず返ってくる保証も無いが、NPO銀行などで”使われる先のわかる融資”に充てられる方がいい。少しでも世の中の役に立ちたい。」
 これには驚いた。今の若い人たちは、そんなことを考えているのかと感動した。「経済主義だけに走る気はしない」と話していた若者もいた。
 それだけにその金の融資にあたっては、相当な時間をかけて、相手NPOへ経営指導もやりながら審査を進め、最終融資判断を下すらしい。こちらも立派なものだと思った。
 世の中は変化しつつあるのかもしれない。お金第一主義、利潤第一主義から、本当に世の中のためになるために自分の金を使ってもらいたい、と思う時代に変っていくのかもしれない。
 われわれの時代には無かった価値観ではないか?
 もう少し調べたうえで考えてみたいと思う。
                   


そのままでいいよ

2008-01-15 23:01:53 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 一昨日のブログで「永遠ならいいなあ・・・高田エージ」を書いた。昨年暮れの次男のライブ「高田エージ、首藤潤ジョイントコンサート」の感想を書いたものだ。
 私はその中で二人が唄う歌のなかに「ウソをついた後のやましさ」という言葉を聞いて、日本の支配層の中に、ウソをついてまったく恥じない政治家、官僚、財界人の多い中で、「これだけはやめようね」と誓い合っている市井人の生き様を見たのであった。
 また「守りたい人が出来たとき、暗闇なんて怖くない」という歌詞に、名声や地位よりも愛に生きる人たちの生き生きとした声をきいたのだ。
 実はそのコンサートで、もう一つ心に残った歌があった。
 「そのままでいいよ」という歌である。もちろんこれも、高田エージ作詞作曲である。

  そのままでいいよ  そのままのお前が一番いい

  月明かりに包まれて  蝶になってる夢を見た
  空を飛んで森を見た  雲を越えて海を見た

  夜の風に誘われて 花を知って恋をした

  そのままでいいよ  そのままのお前が一番いい

 世は虚飾にまみれている。服飾、化粧、広告・・・実像はすべて覆い隠されている。実像のままのもはほとんど無いのではないか? 日々口にする食物でさえ、色も味も作られている。
 「そのままのお前」を見ることはほとんどない。だから、このコンサートは、一生懸命「そのままのお前」を求めていた。
 愛するものの真実の姿を・・・・・・
                     


永遠だったらいいなあ・・・高田エージ

2008-01-13 17:20:40 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 7日に門松をはずし七草粥を食べ、昨日、鏡餅を割ってお汁粉を食べた。これで正月も終わりである。暮れから正月にかけての「心に残った言葉」として、生活、政治、経済、相場などを書き綴ってきたが、最後に、あるライブコンサートで声を張り上げて歌った歌詞を書きとどめておく。
 ギターをやる次男が、吉祥寺の曼荼羅というライブハウスで年に一回、高田エージさんとクリスマスコンサートをやる。このジョイントコンサートには、次男の応援もかねて家族で参加することにしている。
 3時間以上に及ぶコンサートの最後の歌は、高田エージさん作詞作曲の「永遠」という歌だ。もちろん客席も含め、みんなで、いつまでも、繰り返し歌う。
  

  永遠だったらいいなあ 永遠だったらいいなあ、
    ・・・
  星をきれいだなんて思う気持ち  夕焼けに涙する心
  ウソをついた後のやましさ  キミを想う胸の痛み

  強くなりたいと思った夜  守りたい人が出来たとき
  暗闇なんか怖くないさ  キミが笑えばうれしい

  永遠だったらいいなあ  永遠だったらいいなあ
                 (何回もレフレイン)

 ここには、市井を生きる人たちの素直な気持ちがあふれている。「ウソをついた後のやましさ、キミを想う胸の痛み」こそ、生きていく上で互いが守るべき掟であろう。これだけは持っていようとする”最低限の掟”なのだ。役人が悪事を働こうが、株が下がり、為替が円高になろうが、「「星をきれいだと思う気持ち」、「夕焼けに涙する心」だけは持ち続けよう、と言っているのだ。
 「守りたい人が出来たとき」強くなりたいと思い、暗闇も怖くない。そして、「キミが笑えば」それだけがうれしく、それが「永遠だったらいい」のだ。
 「永遠だったらいいなあ」という素敵な言葉を何回もレフレインしながら、そこに、環境破壊から美しい地球を守り、美しい地球の上に平和を求める原点があると思った。
                     


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