旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

市民球団広島カープと、黒田の復帰戦勝利

2015-03-30 15:59:40 | スポーツ

 

 今日の各紙は、「黒田 復帰戦勝利」と広島カープの勝利を報じている。カープの一ファンとして、この日を迎えた感慨は一入(ひとしお)だ。

 広島カープは、昭和24(1949)年12月5日、広島市や地元財界・有力者の支援のもとに「広島野球クラブ」として誕生、県民球団の性格を打ち出し、資本金は広く一般から募集した。迎えた昭和25年は41勝96敗1分、勝率2割9分9厘で8位(最下位)に終わった。わずか1厘だが勝率が3割にも満たなかったところに、この球団のその後の苦難が感じ取れる。以降43(1968)年に3位(Aクラス)になった以外は、50(1975)年に初優勝を遂げるまで一貫してBクラスを抜けでることはできなかったのである。
 初代監督は地元出身の石本秀一。氏は3年半カープの指揮を執ったが、グランドでの監督業はさておき、一年中金集めに奔走していたと聞いている。日本野球界の生んだ偉大な野球人に、野球をさせる余裕をカープは持っていなかったのである。
 当時のホームグランドは観音新町の広島県営球場であったが、その客席の要所々々に四斗樽が置かれてあり、観戦を終えた人々は、その樽の中に何がしかの金を投入して球団資金の一部に寄付していた。風呂屋に行っても、つり銭はカープ支援箱に投入される。また、球団は資金集めのためにたびたび債券を発行、市民がそれを購入して支援した。もちろん、配当はおろか元本すら返ってこなかったのであるが…。
 1975年の初優勝以来、一時黄金時代を築くが、親会社を持たないカープが金のないことに変わりはない。高給で選手を買うことはできず、逸材を探しては2軍から期間をかけて必死に育てる。育った選手は、名を成すと巨人や阪神に出て行く。
 しかし、その恩義を忘れない男もいたのだ。黒田博樹……、この男は、自分を育ててくれただけでなく、メジャーリーグに送り出して武者修行させてくれた恩義をも忘れなかった。アメリカで仕込んだ高度な技術をひっ提げて、真っ直ぐ広島カープに帰ってきて、そのマウンドに立って2740日ぶりの勝利を挙げた。
 「お帰りなさい」の幕を掲げスタンドを埋め尽くすファンは、市民球団的性格に引き寄せられた新たな層(カープ女子等)などで、かつてなく厚みを増していた。黒田はそれをどう感じ取ったことだろうか…。
 本日の毎日新聞スポーツ欄、富重圭以子記者のコラム「自由席」は、次の言葉で結ばれていた。
 
「球団の体質と、選手の性格と、ファンの熱気。そのどれが欠けていてもあり得なかった至福のシーズンが始まった。」

    
       2015年3月30日付毎日新聞より


お酒のさかな 食べ物篇(1) … イカ、げそ

2015-03-26 12:55:03 | 

 

 

 お酒とともに食べるものと言っても、豪華な会席料理から、いわゆる「あて」と呼ぶに相応しい小物に至るまで様々ある。
 戦前の映画だった(「無法松…」だったかな?)と思うが、坂東妻三郎が、手の甲に乗せた塩か味噌をなめながら酒を飲む一コマがあった。塩や味噌では「あて」と呼ぶにも淋しいが、枡酒ではよく片隅に塩が盛られる。その塩とともに飲む酒は甘味が増して何とも美味しい。酒を引き立てる最も素朴な「あて」は塩かもしれない。
 最も素朴な酒の肴といえば、「げそ」の類ではないか? いわゆるイカやタコの足を簡単にあぶったものである。八代亜紀が『舟唄』で、「お酒はぬるめの燗がいい 肴(さかな)はあぶったイカでいい」と唄っているので、イカはそもそも贅沢な肴には入ってないのかもしれない(私は最も好きな魚介類の一つであるが)。しかも、げそとなればその足である。
 足で思い出すのは、このすさまじい句である。

  熱燗や食いちぎりたる章魚(たこ)の足    鈴木真砂女

 鈴木真砂女は、銀座で飲み屋(小料理屋『卯波』)を営んでいたので、これは自分の経験なのかもしれない。それとも客の飲みざまを詠んだのだろうか? 同じく真砂女に、「熱燗やいつも無口の一人客」という句もあるので、その一人客が、カウンターの隅で熱燗を呷りながらタコの足を食いちぎっている様を想像すると迫力がある。
 それに比し八代亜紀の方は(『舟唄』の作詞は阿久悠)、「…イカでいい」とは言いながら、そのイカは足(げそ)ではなく甲が想像され、淋しげではあるが余裕がある。もしかして食べたのは「げそ」かもしれないが、「…肴はあぶったげそでいい」では唄の雰囲気に合わない。真砂女の句で食いちぎったのは、絶対に足でなければならないが。

 ともあれ、私は酒の肴としてはイカが好きだ。飲み屋に行って特に注文する物がないと「イカ納豆」か「イカの丸焼き」を頼む。「げそ」も含めて。

    
  この食い荒らされたイカは、北海道直送の高級「イカの沖漬け」であった
      (新宿御苑前『うま久』にて)


お酒のさかな

2015-03-21 12:47:17 | 

 

 長いこと酒を飲んできた。その思い出はつきない。酒だけではなくて、飲みながらいろいろなものを食べた。飲みながらいろいろな話をした。時には高歌吟唱し踊りまくったこともある。酒は、その液体だけでは存在しえないものではないか?

 飲み屋に入り酒を注文すると、酒と共に「つきだし」が出てくる。頼みもしないのに必ず出てくる。客もそれを当然のこととして、箸をつけ、盃を呷る。「つまみ」とか「あて」とか呼ばれ、それに続き注文する料理ともども、酒を飲むには欠かせない。
 しばらく飲んでいると、それだけでは足りなくなる。店主や女将とたわいのないことを喋り、話が弾むと「もう一杯!」となる。同僚が居れば、話は会社の話になる。「だからうちの会社はダメなんだ!」、「あんな部長では、会社の将来に夢はない!」などと、悪口を言いながら酒が進む。

 酒はさまざまな食べ物と共にあり、果てしない話題と共にある。つまり、「さかな」と共にあるのである。「さかな」とは何か? 広辞苑を引くと次のように書いてある。

 「さかな … 肴、魚 酒菜の意」とあり、次の二つの説明が続く
   
①    酒を飲むとき、添えて食う物
   
②    酒席の興を添える歌謡や話題など 

 いわゆる「さかな=肴」とは、この二つの意味を含むのである。「さかな」と言えば何となく魚を意識し、魚介類を描くが、それだけでなく「菜」、つまり酒と共に食す料理一般を含み、もっと広く、「酒席を盛り上げる歌や話題」をも意味しているのである。

 こうなると「お酒のさかな」は、単なる「つきだし」や「「つまみ」や「あて」などという言葉では収まらない。これまで飲んできた思い出と共に、「お酒のさかな」を辿ってみることにしよう。

      


もどかしい東北震災復興、特に、絶望的な原発事故に胸が痛む

2015-03-13 11:56:19 | 政治経済

 

 東日本大震災から4年が過ぎた。その日に当たる11日を中心に、テレビや新聞で様々な問題が取り上げられてきた。そして、このような大災害からの復興が、いかに難しいことかも思い知らされた。
 一口で言えば、4年も経って遅々と進まぬ「復興」のもどかしさである。日本は相当な資力を持った国であろう。安部首相は世界中を飛び回って、援助資金をばらまいている。加えて、全国から、いや世界各地からかなりの支援金も集められただろう。しかし復興は思うように進まない。
 集められた金はどこに行ったのだろうと思う。ただ、津波対策という想像を絶するような課題に対処する街づくりという課題が、事を難しくしていることも否めない。三陸を中心にした街づくりは、従来の概念を根本的に見直す必要があると思われるから。

 もう一つ。復興を最も難しくしているのは原発問題であろう。これは、おそらく将来にわたって住めない地域を生み出し、その解決は絶望的に見えて胸が痛む。
 ちょうどこの時期、原発の危険性を訴え続け、問題解決に闘い続けた、京都原子炉実験所助教小出裕章先生が、定年退職を迎えたのは象徴的であった。
 先生は、今月末の定年を前に、2月27日最終講義を行った。「原子力廃絶までの道程」と題するその講義で、先生は次のように述べている。
 「事故の収束なんてとんでもない。肝心な現場は見えず、溶け落ちた核燃料などの炉心は、いまだにどこにどのような状態で存在するか分からない。人が近づくと即死するほどの放射能があるからです。こんな過酷な事故は、発電所では、原発事故でしか起こらない。4年経っても原子炉の現場に立ち入ることができないのです」
 また講義を通じて、「今後、原子力に対してどう向き合うのか、私たちは未来の子供たちから必ず問われる」、「被爆から子供を守りたい」、「大人は福島原発事故の責任を取れ」と訴え続けた。(以上毎日新聞3月6日付「特集ワイド」より)

 小出先生は、原子炉実験所に41年間勤め、原子力問題と闘い続けたが、定年まで助教のままだった。教授にも、准教授にも昇進しなかった(同前)。「…私も少しずつ引いていく…4月から仙人になろうと思います」と言って、爽やかに教壇を去ったが、この引退は、原発問題に対する私の絶望感をますます強めた。
 しかし、いつまでも先生に頼るわけにはいかない。私たちは、それぞれの分野で、自分のできる限りのことをしていかねばならないのだろう。

       
                      庭の白ツバキ


旅さまざま(つづき)

2015-03-06 14:40:25 | 

 

 前回この稿で、旅の原点は歩くことにあるのではないか、と書いた。それに比し、自分の駆け歩き旅は旅の名に値したのか、と反省の弁も書いた。ところがそれ以上に、旅そのもののイメージを打ち壊された思い出がある。

 私は、一応、全都道府県に行ったことになっている。私には「その地に行った」ことの定義があり、「そこに少なくとも一日は滞在し、その地の食でその地の酒を飲み、その地の何らかの文化に触れる」ことをもって、その地に行ったことにしている。その意味で最後に行った県は青森県であった。
 1999年6月19日、私は秋田県側から発荷峠を超えて十和田湖畔に降り立った。その夜は蔦温泉に宿泊する計画で、先ずは十和田湖畔で昼食の宴を張り、「これで全県制覇だ」と友人二人と祝いの盃を上げた。
 昼間から宴たけなわとなり一同上機嫌、そこへバーキューの材料を運んできたお姐さんに、「これから蔦温泉に行くのだが、どう行けばいいの?」と尋ねた。その返事はこうであった。
 「さあ…、わたし蔦温泉など行ったことないので分かりません。…、わたしこの小坂の町から出たことないんです」

 その返事に、私たちは唖然とした。しかもその口調は明るく、さりげなく、何のこだわりもなかっただけに、一瞬酔いがさめる思いであった。彼女はまだ若い(30歳前か?)ので、これから小坂の町を出て各地を旅することもあるかもしれない。しかし彼女には、あちこちを訪ねて未知の欲求を満たしたい、という風情は全くなかった。
 食事を終えて外に出ると、彼女は、おそらくそのうちの何人かは自分の子供であろう数人の子供と楽しげに遊んでいた。四季それぞれ、美しい変化を見せるのであろう十和田湖畔の広々とした山野は、彼女にとって世界のどこよりも心安らぐ地に違いない。
 彼女はやさしい笑顔で私たちを見送ってくれた。私はそれに手を振りながら、全県制覇などというようなことが、何ともちっぽけなものに思えてならならなかったのである。

  
   ちょっと寂しげだけど、庭の沈丁花も咲きました
          
          そして、お部屋の隅にも飾りました


旅さまざま

2015-03-02 10:04:58 | 

 

 先月の日経新聞「私の履歴書」は、日揮グループ代表の重久吉弘氏であったが、その中に「東海道を妻と徒歩旅行」という項があった。それによると、氏は日揮の社長から会長職を務めるという多忙な時期に、その間隙をぬって、お江戸日本橋から京都三条大橋までの500キロ超を、奥様と徒歩旅行をしたという。一日に最短10キロ、最速25キロを歩き、5年かけて延べ37日を要したという。
 松尾芭蕉や種田山頭火を引き合いに出すまでもなく、「歩く」というのは旅の原点ではないか? 重久氏もその中で、「たくさんの町を通り、多くの人たちと出会った。道を尋ねた老婦人に『家でお茶を』と誘われたり、お店の人に励まされたり。歩くのがこれほど爽快で、楽しいものとは予想していなかった」と書いている。
 外国に行くには、特に日本の場合、歩いて行くわけにはいかないが、その着いた国や町でも列車やバスや車を飛ばして駆け巡ることが多い。国内にあっても飛行機や新幹線で時間を稼ぎ、着いた街をバスや車で駆け巡る。
 2011年10月に出した自著『旅のプラズマ(パートⅡ)』を読み返すと、冒頭に、「30年間勤めた銀行を退職して、既に23年になろうとしている。この間、20回の海外旅行に出かけ、22か国(延31か国)を訪ね、76都市(延86都市)を回った」などと書いてあるが、思い起こせば、その旅はほとんど上記のような「駆け巡り旅」であった。
 俺は本当に旅をしてきたのだろうか? なにか空しいものが心をよぎる。ひとつ歩いてみるか…、と思うにも、今や、一日何十キロの歩行力はない。海外にはここ3年出かけてないし、国内旅行も減ってきている。その背景には、この空しさがあるのだろうか?

     
                 北鎌倉「円覚寺」の梅(2月21日撮影)


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