旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

五能線・金木の旅(3)

2013-06-29 10:34:46 | 

 

 五所川原で五能線を降りて、津軽鉄道に乗り換え金木に向かう。津軽鉄道というだけで、太宰治の匂いがしてきた。何と言っても「走れメロス号」というのがいい。カメラを向けると、観光宣伝のお嬢さんがポーズをとってくれた。

         

 津軽鉄道はワンマンカーで車掌もいないが、ここにも観光宣伝のお姐さんは乗っていた。途中の毘沙門駅の名前や佇まいがいいのでカメラを向けていると、傍に来てそのいわれなどを説明してくれた。
 「ところで、金木に着いたら昼食をとりたいが、ご推薦の店はないか」と問うと、よくぞ聞いてくれたとばかりに語りだす。それによれば、「麺類なら、金木駅の上に『ぽっぽ屋』というラーメン屋がある。これはおいしい。お寿司なら斜陽館の近くに『奴すし』という店があり、ここの“太巻きすし”を食べろ。ただし、一本とると二人でも食べきれない。半分たのんで二人で食べろ」とのこと。
 金木に着くと『奴すし』に直行、早速注文すると見事な太巻きが出てきた。何と言っても魚介類など11品目が巻き込まれており、津軽鉄道のお姐さんの言うとおり半分を注文したが、大きな太巻き4個が出てきて、二人には十分であった。店の雰囲気と言い、イケメン店主の立ち居振る舞いと言い、申し分のない店であった。

   
    太巻きすしの説明をする観光姐さん
    
    見事な太巻きに驚く。美味しかったなあ
    
      『奴すし』のイケメン店主
                  

 寿司とともに飲んだ「じょっぱり」も効いていい気分となり、「津軽三味線会館」と「斜陽館」(太宰治記念館)をゆっくりと回った。

        斜陽館


目のレーザー治療、無事に終わる

2013-06-27 10:23:39 | 時局雑感

 

 昨日、目のレーザー照射治療を終えた。右目が見えにくくなったのは、「毛細血管拡張黄斑浮腫」が原因らしい。どうも脳内出血ならぬ眼内出血のようなもので、それが網膜を覆うと、幕がかかったようになるので見えなくなる、ということらしい。
 したがって、失明予防のためその血瘤をレーザーでつぶすというのだ。その血瘤は0.何ミリと小さくいくつもあるが、幸いにも網膜の中央を外れているので、一つ一つレーザーを当ててつぶすという。網膜の中心部にレーザーを当てると、それにより視力を落すので注意を要するらしい。

 やってみれば2,3分で終わったが、しかしの間、10発や10数発はレーザーを打ったであろう。「ハイ、終わりました」と医者は平然としていたが、10数発のうち一発でも手がそれて網膜の真ん中を打つことなどないのだろうか?
 「てんてん手毬の手がそれて…、紀州の蜜柑になった」話なら楽しいが、「レーザーの手がそれて失明しました」なんてゾッとする。まあしかし、進んだ医術と経験豊かな医師の技量からそんな心配はないのだろう。

 昨日は、朝から瞳孔を開く目薬などをさしっぱなしで、その上、痛くはなかったがレーザーを当てられ、目を使う気になれなかったが、今朝は少しはスッキリしているのでブログなど書いてる。しかし以前よりよくなった感じはなく、まあ、この年になっては「現状維持―失明防止」ができれば御オンの字というところであろう。

    
                    散歩道はどこもあじさいが満開


五能線・金木の旅(2)

2013-06-25 14:03:35 | 

 

 五能線というのは、五所川原の五と能代の能をとって名付けられた、つまり五所川原・能代間の線だと思っていた。しかし正確には、「川部―東能代」間をいうようだ。このことは、前述した5年前の「幻と消えた五能線の旅」の際に、当日のブログ(2007年11月11日付)に書いてある。
 それによれば、「1908年開業した秋田側の『能代(現在の東能代)~能代町(現在の能代)間』と、1918年の青森側の陸奥鉄道『川部~五所川原間』の開業に始まり、やがてこれがつながった1936年に全通した(Wikipediaより)」とある。加えて「営業キロ数147.2km、全線単線(伏線区間も電化区間もなし」とも書かれてある。
 つまり、奥羽本線という東北の山中を走る幹線の、川部駅(弘前の北の駅)と東能代駅を、日本海側の海岸線でつないだものらしい。これは日本海側の各町村の交通の便を助けたと同時に、海岸線を走るだけに風光明媚な眺望を乗客に与えることになった。
 しかも、絶景ポイントを走る時は列車のスピードをゆるめてくれるというサービスがうれしい。新幹線ができたり、スカイツリーが建ったりで、いまや速さと高さを競い合っているが、このような鉄道が今もあることがうれしい。

  
 
1号車1番A席の筆者。 酒は「まんさくの花」純米美郷

     
  運転席後ろの展望室より
    
よく見ると、五能線の線路には草が生えていた! いいなあ…
      
    
 鰺ヶ沢~五所川原間では津軽三味線のサービス


ようやく実現した「五能線・金木の旅」

2013-06-23 17:04:45 | 

 

 2007年11月10日…といえば5年半も前の話。私は五能線の旅を計画した。弟(5番目の弟)が経営する秋田県八郎潟にあるY社の会議に出席し、翌日の空きを利用した計画であった。それは何か月も前から綿密に練られ、朝九時前に「リゾートしらかみ」に乗り込み、五所川原を経て金木に太宰治を訪ね、帰りの「リゾートしらかみ」が十二湖あたりを通過するころには、日本海に夕日が沈むはずであった。
 ところがその計画は出発30分前に取り消された。前日の会議が長引き、重要な議題の論議が翌日にずれ込んだためである。弟はそれを重く受け止め、ずっと忘れずにいたらしい。今回Y社の株主総会出席を機に、「そのツケを払おう」ということになった。
 
私に異存のあろうはずはなく、この計画は一挙にまとまった。

 かくして、昨6月22日、5年数か月を経て「五能線・金木の旅」が実現した。朝8時50分、八郎潟駅から「リゾートしらかみ“青池”号」に乗り込むと、弟の用意した私の席は、「1号車1番A席」という、いわば特等席であった(弟がB席)。この席は海側に面し、前は展望室から運転席があるのみ、この展望室と自席を行き来しながら、いわゆる270度の展望を十分に満喫した。

  


      

 因みに付言すれば、弟は「5年前のツケを払う以上、兄貴に払わせるわけにはいかない」と、運賃から飲食代に至るまですべて払った。つまり私は大名旅行をしたわけである。

  
         


医者通いの日々が続く…

2013-06-19 11:40:53 | 時局雑感

 

 今日は年2回の定期健康診断の日だ。夏の定期検診は血液検査とレントゲンだけ。とはいえ、このところ酒が過ぎているので肝機能が気になり、昨夜はアルコールを断った。最近の検診では、前日の食事やアルコールについてに制限はない。だから通常通り飲んで、ありのままの数値を調べるのがいいとも言う。
 反面、前日飲むと必ず悪い結果の出る某酒飲みの、「前日アルコールを断って、アルコールを断てば正常値に戻り得るという結果を試すのが定期検診だ」という有力な意見もある。この年になってどちらでもいいわ、とも思ったが、何となく結果を気にしてアルコールを断った自分を情けなく思う。

 昨年暮れから毎月通い詰めた歯医者は、一応の決着を見て「これから暑くなるので、次回は涼しくなる10月頃にしましょう」ということになった。別に完治したわけではないが…
 腰痛は時として起こるので、近くのマッサージに通っている。これも、よくなることはあるまい。

 問題は目だ。左は加齢黄斑変性でほとんど見えない。頼りの右も急激に視力が落ち、今回の検診では、1.0から0.7に落ちた。そこで、来る26日にレーザー光線治療を施すことになった。。
 下された病名は「傍中心窩毛細血管拡張黄斑浮腫」という長ったらしい名前。4番目の字はよく判別もできない。いずれにせよ、視力を妨げている黄斑浮腫をレーザーで退治しようということらしい。
 「傍中心…」となっているので網膜の真ん中ではないのかもしれないが、レーザーで網膜を傷つけることは避けられないと思えるし、治療による視力の低下も避けられないのではないか? などと不安もよぎる。しかしこれこそ、この年になって目が見えなくなっても仕方ないのかもしれないし、医者に任せるしかすべはない。

 いずれにせよ、そろそろ活動の範囲を制限しなければなるまい。さて、どうするか?


素晴らしかった「笛田博昭テノール・リサイタル」

2013-06-15 12:17:06 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 このところ腰痛に悩まされ横になりっぱなしであったが、昨夜、「腰ならし」のために浜離宮朝日ホールまで出かけた。笛田博昭のテノールを聞くためだ。
 1時間30分の演奏時間は「腰ならし」にはちょうどよく、特に腰を悪化させるようなことはなかった。それどころか、その素晴らしい歌唱力は、腰の痛みなど吹っ飛ばしてくれた。

 従来のテノール歌手のイメージを全く変えるものだった。テノールと言えば、やさしい高温で、柔らかいイメージが浮かぶ。ところがこの歌手の声は、鋼の強靭さを思わせ、体も大きく豊かな声量の響きは日本人離れしていた。
 娘に言わせると「日本オペラ界の宝」ということだが、まだ30歳半ばのようで、確かに将来日本を背負う歌手に育つ予感に満ちていた。
 3曲歌ってくれたアンコールの最後、トロヴァトーレの「見よ、おそろしい炎を」で、ハイ・ツェーを披露する迫力、これにはみんなスタンディングオーベーションで「ブラボー」を叫んだ。
 彼のこれからに期待する。
 


さくらんぼ、フルーツとワイン、パイプオルガンを満喫 (昨日の続き)

2013-06-13 13:10:19 | 

 

 交通渋滞と腰痛には悩まされたが、さくらんぼ、ワイン、パイプオルガンは満喫した。
 さくらんぼ園に着くと、「食べる宝石」と呼ばれるサクランボがたわわに実っている。「どんどん食べなさい。食べてみなければ何もわかりません」という案内人に促され、目の前に下がる「宝石」を食いまくった。こんなに食べたのは初めてだった。木によってすべて味が違う。何が何だかわからないが、様々な味を味わった。
 渋滞遅延から、当初予定の時間(1時間)を30分に短縮され、最初はがっかりしたが、30分で十分だった。それでも食べ過ぎて、続く昼食の弁当はかなり残した。こちらも渋滞のおかげで30分短縮されたがちょうどよかったのであろう。世の中うまくいくものだ。

          
             

 パイプオルガンコンサートの一部と二部の間の1時間、フルーツとワインがふるまわれた。これも食べ放題飲み放題で、ブドウはもちろん、さくらんぼ、キューイなど様々な種類のワインを飲みまくった。。山梨ならではのもてなしを感じた。

 町の誇る桃源文化館の桃源ホールがコンサートの会場。750席の中規模ホールは町の規模にふさわしく、何と言っても舞台の奥に据えられたパイプオルガンが素晴らしい。仕様書によれば、「フランス ベルナール・オーベルタン社の製作、3段手鍵盤+足鍵盤 48ストップ、 パイプ数2,914本…」とある。
 パイプオルガンと言えば天井高くそびえる印象が強いが、ホールの規模にふさわしく「高さ8.3m、幅6.3m、奥行4m、総重量13. 5トン」と落ち着いた雰囲気。ファザードの感じが何とも優雅で、フランスの国柄を思わせる。それでも大きいことに変わりなく、パイプ数2,914本には驚いた。
 コンサートの題名は「愛の風~フランスからの贈りもの」ということで、4人の歌手による歌曲を交えて専ら「愛の唄」が演奏されたようだが、パイプオルガンから流れ出るバッハの曲は、いずれも宗教曲に聞こえた。

      
  
   

 


再び強烈な腰痛にやられる

2013-06-12 18:09:06 | 時局雑感

 

 ここ一週間ブログを書いてない。それどころか寝たきりである。2年ぐらい前にやられた腰痛が再発したのだ。もちろんそれには理由がある。遠因(根本原因)はさておき、トリガーとなったのは次に掲げる長い名前のツアーに参加したことだ。

 富士の国やまなし国民文化祭オフィシャルツアー
      ~パイプオルガンフェスティバルと特産さくらんぼ狩り
     ツアー~

 このフェスティバルは、6月8日(土)、山梨県の南アルプス市で開かれた。この長い名前のツアーに参加するためには、長い時間バスに乗り、長いパイプから出るオルガンの音色を聞くために、長い時間椅子に掛けていなければならなかった。
 もちろん、南アルプス市はそんなに遠くない。東京新宿からは通常2時間半から3時間で行ける。ところが、ひどい交通事故に巻き込まれた。朝8時に新宿を発ったバスは、八王子を通過するころにはノロノロ運転を始めた。聞けば「小仏トンネルで玉突き事故が発生、この先どのくらい時間がかかるかわからない」とのこと。
 トンネルの中の玉突き事故だとすれば、その台数によっては簡単には片付くまい。途中下車して近くの温泉でも入って帰った方がいいのではないか…などと考えたが、高速道路では降りることもできない。
 結果は、それほどの事故でもなかったようで、1時間ほどオーバーして南アルプス市に到着した。その1時間を、サクランボ狩りで30分、昼食時間を30分短縮して(各1時間の予定)、オルガンフェスティバルの始まる午後1時には間に合うことになった。それから、途中1時間の休憩(ワインと果物を楽しむ時間)をはさんで5時まで、長い時間をかけて長いパイプから出る音を聞き続けた。(オペラ歌手の歌曲もあったが)
 9時過ぎに帰宅、その日は何ともなかったが翌朝目が覚めると腰が痛くて起き上がれない。出勤日火曜日も休ませてもらい、ようやく今日になって動き始めた。

 こう書くと、すべては南アルプス市のフェスティバルの所為のように聞こえる。かなりの原因はあると思うが、もっと大きい原因は「加齢」にあるのだ。78年の疲れの塊が、時に及んで現れるのだ。だから南アルプス市に責任はない。しかも、初めて訪れた南アルプス市はサクランボも音楽ホールも立派だった。
 その名誉のために、次回はフェスティバルのことを書き加えることにする。
 


アメリカはクラスター爆弾の処理に積極的役割を果たせ

2013-06-05 10:56:54 | 政治経済

 

 一昨日の投稿で、オスロ条約(クラスター爆弾禁止条約)に加盟していないアメリカは爆弾処理に知らんぷりをしているのか? と書いたが、今日の毎日新聞(3面クローズアップ欄)を読むとそうでもないらしい。アメリカの名誉のために書き加えると、「米国務省は『ラオスのクラスター爆弾は大きな問題』だと位置づけ、米国は昨年、不発弾除去に900万ドル(約9億円)を拠出した」と同記事は報じている。
 また、「オスロ条約は爆弾投下国に、被害国の不発弾除去を技術、財政、人的に支援することを『強く要請』している。米国はオスロ条約に加盟せず、クラスター爆弾を放棄していないが、不発弾除去では条約で求められた責任を実行している形だ」とも報じている。
 ただ、「ラオス政府は不発弾除去や被害者支援に年5000万ドル(約50億円)が必要と見積もっているのに対し、国際社会の支援は3000万ドルにとどまっている」(同)とも書かれている。
 アメリカの900万ドルは少なすぎるのではないか? 今回のイラク批准に伴う除去と被害者支援にどの程度の金額が必要になるのか知らないが、そのうち投下国の米英は、どのくらいを負担するつもりだろうか?

 クラスター爆弾問題については、何年か前にも書いたことがあるが、私は核兵器はもとより、このような大量破壊兵器に大きな危惧を持っている。これらは必然的に、無差別に一般国民を殺すことになる。いくら戦争と言っても、これだけは使わないでほしいと願う。
 しかし、国を挙げて殺しあう戦争という狂気の中で、そのような声はとても届かないのであろう。今なおクラスター爆弾を保有し続け、その禁止条約に加盟することもしない狂気の人々に、このような声は聞こえないのであろう。
 


クラスター爆弾除去の責任は誰にあるのか?

2013-06-03 18:07:14 | 政治経済

 

 今日の毎日新聞夕刊のトップ記事に「クラスター爆弾禁止条約イラク批准」という見出しが載っている。それによれば、2003年のイラク戦争で、米英軍はイラク国内に200万発のクラスター爆弾を投下したという。
 クラスター爆弾というのは、親爆弾に数千個の子爆弾が入っており、空中で爆発させてその子爆弾をあたりかまわずまき散らす爆弾である。正に国民皆殺し方式の爆弾である。いまなお不発弾が多く残り被害が続いているという。
 今回の批准により、イラクは10年以内にその不発弾の処理と、被害者の支援が義務付けられることとなり、国際社会がどう支援するか問われそうだと書かれている。
 ところが、アメリカはこの条約にそもそも加盟してない。クラスター爆弾の多量保有国は米、露、中、イスラエルで、そのいずれも加盟していないという。加盟していないアメリカは、イラクの後始末の義務は当然負わないのだろうか?

 とすれば、何か話がおかしくないか? イラクの200万発の大半を撒いたのはアメリカだ。その後始末の責任はアメリカに一番あるのではないか? あれは戦争で、しかも「ならず者国家イラク」をやっつける「正義の戦争」であったので、その後始末など知らない、というのだろうか?
 「国際社会の支援が問われる」という記事の国際社会の中には当然アメリカも存在し、しかも中心的な大国だ。
 アメリカが支援にどうかかわるか見つめたいものだ。


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