旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

トルコ紀行⑯ ・・・ ベリー・ダンスに興じた最後の夜

2009-10-31 13:16:05 | 

 イスタンブール最後の夜は、ベリー・ダンスを見ながらの夕食。
 アヤ・ソフィア、トプカプ宮殿、ブルー・モスクを見学していささか疲れ、このツアー初めての連泊のホテルに早めに着いてゆっくり休む。風呂を浴びベッドに横たわり、体力を回復してベリー・ダンスの会場に向かう。

 当初私は、このショーにさしたる期待はしていなかった。美味しい料理と美味しいワインを飲めればいい、などと思いながらの参加であったが、ドッコイ! これはなかなかの見ものであった。ツアー仲間23人も、この6日間の行動で慣れ親しみ、和気あいあい最後の晩を楽しんだことにもよるのだろう。
 司会も心得たもので、各国から集まっている観衆をとらえて、それぞれの国の国家や有名な歌を演奏する。わが日本人向けには「上をむいて歩こう」や「さくらさくら」(「花」だったかな?)などが演奏され、私も声を張り上げて歌った(他国、特に元気の良いラテン各国に負けないように)。

      

 ところで、ベリーダンスとは何か?
 Wikipediaによれば、「ベリーダンス(Belly dance)は中東およびアラブ圏で発展したダンス・スタイルをさす言葉であり、これを呼称するために造語された西洋の呼称」とある。そして、「アラブ圏ではラクス・シャルキー(Raqs Sharqi 東方の踊りの意)、トルコ語ではオルヤンタル・ダンス(Oryantal dance 東方舞踏の意)として知られている。特にラクス・シャルキーと言う言葉の起源はエジプトである」と記してある。
 さらに読み進むと、「ベリーダンスは女性の肉体の『丸さ』『ふくよかさ』を前面に押し出したスタイルを採り、痩身であることを良しとするダイエット嗜好とは対照的である」とあり、特にラクス・シャルキーに至っては「官能に彩られた、成熟した女性の存在の力を表現するダンス」であり、「有名なダンサーたちは40歳以上であり、若い踊り手はダンスを触媒にして何かを伝えるにはあまりにも乏しい人生経験しか有していない」と断じている。わが仲間の間では、「ダンサーが年寄りで、美人でもない」などの意見も飛び交ったが、われわれは「豊かな人生経験を持って、ダンスを触媒にして表現しようとした成熟女性の内面」を見落としたのではないか?

 「Belly=腹」をもって単なる「腹踊り」と思っていた私は、帰国後この下りを読んで深く反省をしたのであった。もっとも隣席のK氏とは「騎馬民族を髣髴とさせる男性の踊りがいいねえ」などと共鳴しあっていたので、実は「女性の踊りにまでは思いが至らなかった」というのが真相であるが。
                          
         


トルコ紀行⑮ ・・・ ブルー・モスク

2009-10-29 18:44:56 | 

 スルタン・メフメットⅡ世は征服王の名をほしいままにし、その版図を北はロシア、南はアフリカ北部、東はペルシャのバグダッドまで広げた。ヨーロッパの国々はその脅威にさらされ続けたのである。

 オスマントルコの全盛は、メフメットⅡ世の3代あとのシュレイマンⅠ世のときに頂点に達し、以降一世紀、17世紀に入ったトルコはペルシャやハンガリーなどの領土を失い、疲れ果てていたと言える。
 
まさにそのような時代の皇帝スルタン・アフメットⅠ世が建てたのが「ブルー・モスク」、正式名を「スルタン・アフメット・モスク」という。彼は“帝国の苦悩”を納めるため、外へ向けてきたエネルギーを内に転換させたようとした。重荷であったオーストリア戦争を終結させ(つまり手を引き)、アナトリア各地の内乱を鎮圧して民心安定に力を尽くす。
 
そして取り組んだのが「新たな建造物の建設の指導」(エルデム・ユジェル著『イスタンブール』37頁)であったのだ。彼はこのモスクの建設に自ら手を染め、「基礎堀りに最初のつるはしが入れられてから、皇帝は疲れ果てるまでその他の作業者と一緒に、作業に励んだ」(同署38頁)と伝えられている。
                     

 壁に明るいブルーのタイルが多用されていることから、ブルー・モスクと呼ばれているが、そしてブルーこそはトルコが最も尊ぶ色ではあるが、私には“最盛期を過ぎた帝国の苦悩”を表す色に思えた。それは、あまりにも広壮で、あまりにも優雅で屹然としているだけに、一層そう見えたのかもしれない。
 
確かに広壮であった。中に入ってドームの天井を見上げたとき、その広大さに驚いた。モスクを出て、私はガイドのフラットさんに訊ねた。「このモスクは、世界で一番大きい聖堂ではないのか?」と。ところがそうでもなかった。彼の答えは、
 
「世界で一番大きいのはヴァチカン宮殿、二番目はロンドンのセント・ポール寺院、三番目はミラノのドゥオーモ(大聖堂)、四番目がこのブルー・モスクだ・・・」
と言うことであった。
   

 私は未だヴァチカンを見ていない。しかしミラノ大聖堂を見たときの驚きを思い起こした。ミラノには四泊し、毎日あの聖堂の前に立ったし、聖堂の屋根の上からアルプスを遠望した。そして何よりも、その建設に費やした五百年の歳月に思いを凝らした。

 しかし、このブルー・モスクには別の思いが残った。私の思いは、実際に回った順序と全く逆に、「アヤ・ソフィア――トプカプ宮殿――ブルー・モスク」と歴史を上向(下向?)したが、そこには、イスタンブール(現在名)という土地に刻まれた千数百年に及ぶ東西両文明の盛衰が息づいていた
                                                       
 
    活気に満ちたイスタンブールの街


トルコ紀行⑭ ・・・ トプカプ宮殿

2009-10-27 13:49:06 | 

 アナトリアに勃興したトルコ民族オスマントルコにとって、その西の一角に栄華を誇ってきたコンスタンチノープルを征服することは、どんなに夢多きことであったろうか。野心に燃え、文字通り夢多き21歳のスルタン・メフメットⅡ世は、その事業に全生命をかけたのであろう。もちろん、千年にわたり栄え続けたビザンティン文明は、熟しきって崩壊に向かっていたのであろうが、それでも、16万といわれる大軍で2ヶ月を要する大事業であったのである。1453年コンスタンチノープルは陥落、オスマントルコ帝国が誕生してイスタンブールと呼び変えられた。

 ビザンティン文明の象徴であった「アヤ・ソフィア」は、モスクに改装されたが破壊を免れた。メフメットⅡ世は自らの名を付した「ファティフ・モスク」を別に建て(ファティフは征服者の意)、居住と為政の本拠としては「トプカプ宮殿」を建てた。
           ハーレムの塔
     
 
そこには自らが住む住居はもちろん、議会をはじめ政務を執り行うあらゆる施設が設けられ、ハーレムまで設けられてきたのである。なお、ハーレムは当初の宮殿には無く、これが設けられたのは5代あとのムラトⅢ世の時であったという(澁澤幸子著『イスタンブール歴史散歩』33頁)。新しい政権を確立することに全精力を集中したメフメットⅡ世には、そのような施設を置く余裕は無かったかもしれない。ムラトⅢ世の時代は、オスマン帝国も絶盛期を過ぎ、もはや衰退に向かいはじめた時代である。「戦うことよりハーレムに快楽を追う皇帝が続き、帝国は衰退の道を歩いた」というような記述もある(前掲書8頁)。
    ハーレムの部屋

 メフメットⅡ世が建てたトプカプ宮殿は、オスマントルコが世界に目を向けるまさに権力の中枢であったのであろう。トプカプとは「大砲の門」を意味するそうであるが、ボスフォラス海峡からマルマラ海を眼下に納めるアクロポリスに建てられた宮殿は、船を主要な交通手段とする当時の世界に、大変な威力を示したことであろうと思われる。

 われわれは、広大な敷地に点在する館に展示されている宝物をはじめ、歴史的遺産を見学し、一番突端のレストランで昼食をとった。そこで初めて、待望のトルコ料理「羊肉のケバブ」を食べたことも含め、“イスタンブールの威力”を感じたひと時であった。
                   
   ケバブ


  宮殿の中庭にて ・・・ 「疲れましたなあ」


24節気の酒 ・・・ 霜降

2009-10-25 13:20:06 | 

 23日は24節気の霜降(そうこう)の日であった。寒露の露は、いよいよ強まる冷気によって霜となる季節である。この日から次の節気である立冬(11月7日)までを霜降とし、この間の強い北風を木枯らしと呼ぶことになっている。
 最近の温暖化のせいか、とても霜や木枯らしという感じではないが、言われてみればこのところ急速に寒くなってきた。秋田あたりは最低気温5度と出ていたので、本当に霜が降りているのかもしれない。

 この時節の酒はなにか・・・。一口に言えば「鍋をつつきながらの燗酒」ではないか。
 昨日は、夕方から武蔵野日赤病院に知人を見舞ったが、折りしも降り始めた雨で薄ら寒く、吉祥寺の『ENZO』に飛び込んで先ずは「あんこう鍋」を注文した。酒は新潟酒がそろってあり、まず「〆張鶴純(純米吟醸)」を「あんきものポン酢」や「焼き牡蠣」などで飲む。これはいずれも美味しかった。
 「〆張鶴純」は、フルネット社の『地酒人気銘柄ランキング』の純米吟醸の部で、かの『十四代』を抑えて第一位を誇る酒。新潟の酒米「五百万石」を50%に磨き、ふくよかに米の味を出してかつキレのよいの酒だ。

 やがて「あんこう鍋」が煮えてきたので燗酒が飲みたくなり、同じく新潟の上越の酒「能鷹」純米酒を飲む。これがまた鍋に合った。最後に再び「〆張鶴純」に戻り、鍋のアンコウをつつき大満足であった。

 寒くなるとやはり鍋と燗酒だ。
                          

           


トルコ紀行番外編

2009-10-24 21:29:11 | 

 今日はブログは書かない。だいたい二日に一度のぺースで書いてきたのに、最近はペースが速すぎる。 だから今日は休憩。
 休憩のついでに、トルコ紀行の記事につき訂正を加えておく。
  それは、ガイドFIRAT氏の呼び方について。
 私たちはツアーの間、彼をフラットさんと呼び続けた。ところが最後の日になって彼の名刺を受け取るとFIRATとなっているので、私は自分が聞き違っているもと思って、従来の英語読みに準じて「フィラット」と書き続けてきた。
 しかし、他のブロガーたちの記事を読んでも、彼らしき人を全てフラットと書いているし、何といっても我らがツアー仲間で呼んできたフラットは懐かしい。真偽は別にして、やはりフラットと呼ぶべきであろう。

 もう一つ、彼は自分の名前の紹介に際して、「フラットはユーフラテス川に因む・・・」と語った。彼の名前が、チグリス、ユーフラテスというあの歴史的名前に由来することを感動を持って聞いたのであるが、ユーフラテスは一般的には「Euphrates」となっている。「ph」は日本読みでは「フ」である。若しかしてトルコ語の「fi」は「ph」かもしれない。とすれば、Firatはフラットと呼ぶべきであろう。

 理屈はともあれ、これをもってFIRAT氏はフラット氏と呼ぶことにする。
 従って、これまでの記述をさかのぼって改めることにする。(あくまで、真偽のほどはわからないが・・・)
                          
      フラットさんの名刺


トルコ紀行⑬ ・・・ イスタンブール 「聖堂、宮殿、モスク」

2009-10-23 21:49:15 | 

 ガラタ塔から物見をした“イスタンブールの中枢”にいよいよ立ち入る。この旅の目玉の一つ、ザ・イスタンブールと言っていいのだろう「アヤ・ソフィア聖堂」、「「トプカプ宮殿」、「ブルー・モスク」がそれである。
 
わがツアーはこれを逆の順序で見た。(そう見たのだ。つまり観るまでには至らなかった。時間も無く、混雑と旅の疲れが観察を許さなかった) しかし私は、オスマントルコ帝国皇帝スルタン・メフメットⅡ世とその後の帝国の盛衰を、この三つの建造物に追ったので、見た順序と逆に、その印象を書き残していく。

 アヤ・ソフィア聖堂は、西暦360年に建てられたというからビザンティン帝国(東ローマ帝国)の建国330年とほぼ歴史を共にする。しかし幾多の内乱で焼失を重ね、現在の建物の原型が作られたのは西暦537年という。爾来、キリスト教会として916年の役割を果たし、1453年、オスマンとルコに降ってモスクに塗り替えられ、イスラムの祈りの場所として482年、1935年より博物館となって現在に至る。
     

 東ローマ帝国の首都として堅ろうを誇ったコンスタンチノープルを、オスマントルコのメフメットⅡ世が攻略した経緯は既に書いた(8月19日)。若干21歳の若き皇帝メフメットⅡ世は、2ヶ月の激闘の末テオドシウスの城壁の一端を破りコンスタンチノープルの町になだれ込み、白馬を駆って町の中央に乗り入れたが、アヤ・ソフィア聖堂の威厳に感動し、馬を下り地に伏して神に祈りをささげたという。
 もちろん、その神はキリストの神ではなく、アラーの神・・・。彼は即座に、その聖堂をモスクに改造することを命ずる。ただ、彼は全てを破壊することをしなかった。聖堂内の壁を覆う夥しいキリスト教のモザイクを、漆喰で塗りつぶしはしたが破壊することはしなかった。エルデム・ユジェル著『イスタンブール』にも、「スルタン・メフメットは、イスラム教信者ではない民衆の宗教観念や崇拝にも配慮を示した」(P8)と書いてある。

 若き征服者の胸を去来したものは何であったのだろうか? 征服王の名を後世に残し、時に及んで残虐をほしいままにした男の配慮で、われわれは今、漆喰の下から現れた歴史的美術(モザイク)を見ることができるのである。
      

 彼は、自らの名を付すモスクを別に建て、政務、居宅、全ての権力を行使するトプカプ宮殿を別に建てる。アヤ・ソフィアは、文字通り「聖なる智恵」の聖堂として今に残ったである。
                           
             


トルコ紀行⑫ ・・・ イスタンブール 「ガラタ塔」

2009-10-22 21:08:50 | 

 遺跡(エフェソス、アンタルヤ)、石灰棚(パムッカレ)、奇岩や地下都市(カッパドキア)など浮世離れした世界を離れ、カイセリを発って空路イスタンブールに降り立つと、「都会に帰ってきた」という印象を強くもった。東西両文明の合流する町といっても、一口で言えば「イスラムの要素を交えたヨーロッパ」で、大聖堂や教会の代わりにミナレット(尖塔)に囲まれたモスクが立ち並んでいるが、東洋の東の端から見ればヨーロッパに過ぎない、と感じた。私にとっては、イスラム自体もかなり遠い西の国であるからか・・・?

                

 最初に訪ねたのは、新市街の南端、ガラタ橋の近くに立つ『ガラタ塔』。
 
先ず一番高いところに連れて行き、市内の全貌を把握させるというのは、極めて合理的なガイドである。思えばこれまで、どこの町に行っても一番高いところに上った。シカゴのシアーズ・タワー、ニューヨークの今は無き世界貿易センタービル、上海のテレビ塔“東方明珠タワー”、台湾(タイペイ)の“Taipei101”・・・、いずれも世界一の高さを競ってきたビルだ。しかしこれらは高すぎた。シアーズ・タワーは大ミシガン湖と大イリノイ平原を睥睨(へいげい)するには気分いいが、町を見るには高すぎ、タイペイの“101”は時おり雲に隠れて町の姿が遮られた。

 それに比べるとこのガラタ塔はイスタンブールの町の様子を見るための塔だ。さすがビザンチン時代の“物見の塔”であっただけあり、町の息吹が聞こえてくるような展望がうれしかった。
 
まじかに見る金閣湾を大小さまざまな船(舟)が往来し、その船がくぐるガラタ橋の向こうに旧市街が広がる。ボスフォラス海峡に突き出した岬にトルコ国旗が翻り、右にトプカプ宮殿(特にハーレムの塔)、アヤ・ソフィア聖堂、ブルー・モスク、などのドームと尖塔が並ぶ。なお右方の一番高い丘に立つシュレイマニエ・モスクに至るまで、実に美しい光景だ。
  
              

 眼下に広がる家々のオレンジ色の屋根を見ていると、規模は違うがブルージュのマルクト広場に聳える“鐘楼”を思い出した。あれも確か“360度を見渡せる物見の塔”だったと記憶する。

  久しぶりに都会に帰り、先ず物見を済ませて、いよいよ旧市街の中心部に向かう。
                           
 
 ガラタ塔のK母娘、K夫人はご自慢のブルーの着衣    
 
  添乗員大三輪さんの ワンちゃんジャケット
                  

 

 
 どこに行っても猫はいる・・・向こうから茶猫ものぞいている


トルコ紀行⑪ ・・・ カッパドキアの地下都市

2009-10-20 11:20:59 | 

 カッパドキアについては書き記す対象ではないとして書くのはやめたが、地下都市については少し触れておく。聞くにつけ驚くことばかりであったので。

 カッパドキアの地下都市は紀元前の記録もあるらしいが、はっきりしているのは西暦2~3世紀から、迫害を受けたキリスト教徒たちが隠れ住んだことにはじまるようだ。
 
われわれは数ある中の一つ「カイマクル地下都市」を見学したが、まず、地下8階に及ぶ構造に驚いた。しかも広大で、2万から3万人が住んでいたという。われわれは1時間ぐらいかけて6階ぐらいまで降りたが、全体のほんの一部を見ただけだ。厨房や寝室などはもちろん、礼拝堂から学校、ワイン醸造所まである。
   ワイン醸造所

 中では当然火を焚くが、敵に気づかれないように「煙は2キロ先の穴から排出した」とガイドは言う。2キロ先まで運ぶと煙の色は消えるとのこと。入り口には丸い大きな石が用意されており、いざ敵の襲撃となればその石で塞ぎ、侵入は不可能であったと。
 
日本の隠れキリシタンどころではない。完全にこの世から“身を隠す”のだ。信仰の力以外に考えられない想像を絶する凄まじさといえよう。
       
  
今でこそ観光化され、バスで乗りつけて見学しているが、まさに「別の星の世界」に見える荒涼としたこの地に最初に踏み入れたとき、そこに住むには勇気を要したことであろう。反面、身を隠すには絶好の場所であったのか?・・・
 
宗教の力を改めて思い知った気持ちであった。


地下都市見学のわが一行についてきた猫ちゃん。当時も猫が居たのだろうか

                                

     
            洞窟教会の見事な天井画

           


トルコ紀行⑩ ・・・ カッパドキア

2009-10-18 08:48:42 | 

 カッパドキア!・・・、これは文章で書き記すような対象ではない。自分の目で見るものだ。このような光景が地球上にあるなどとは思っていなかった。写真では何度も見て、変なところだなあとは思っていたが、実際にこの目で見て改めてそう思った。「別の星に行ったみたい」など書かれているし、私もうっかりそう書いた(929日付「トルコから帰って来ました」)。
 
しかし私はまだ「他の星」に行ったことがない。アメリカのアポロ計画で、人類のほんの数人が経験をしただけで、われわれはその光景をテレビや写真で見ただけだ。
 
あの月の写真を見た印象は、広大な横(ヨコ)の広がりだった。
 
しかしカッパドキアの印象は縦(タテ)だ。
 ニョキニョキとキノコのような巨大な岩が突き出し、
3千メートル級の山が聳え、地が避けたような谷が落ち込んでいる。住居もそうだ。とんがり帽子の巨大な岩に住居や教会が彫り込まれており、また地下7、8階の巨大な地下都市が下へ下へと建設されている。

このようなことを書いても書きつくせるものではない。せめて写真の何枚かを掲げておこう。それとて私のまずい写真ではとうてい表現することは出来ないが。
                           
       
 エルジイェス山(3917m)の日の出
 カッパドキア富士と呼ばれるこの山の噴火(約6千万年前)がこの地の景観を形成

ホテルより鳩の谷を望む

           

      

 


現実味を増してきた核廃絶への道

2009-10-17 11:38:09 | 政治経済

 アメリカが、日本が毎年国連総会に提出してきた核兵器廃絶決議案に、共同提案国として名を連ねることになった。
 これは画期的なことである。被爆国の日本が核廃絶の願いをこめてこの決議案を出し続けていることは、ある意味では当然のことといえる。しかし加害国アメリカはこの提案に反対し続けた。昨年は加盟国192カ国のうち173カ国が賛成したが、アメリカ、インド、北朝鮮、イスラエルの4カ国が反対、中国、イラン、パキスタン、ミャンマー、ブータン、キューバの6カ国が棄権した。

 アメリカは「核拡散」防止には発言を続けてきたが、「核軍縮」に踏み出すことはしなかった。それが今回、日本の「核廃絶」決議案に賛成するだけでなく、一挙に共同提案国となって「核軍縮」に一歩踏み出すことになったのである。これまでの反対3カ国、危険6カ国は「踏み絵を踏まされることになる」と今日付けの毎日新聞は書いている(同紙3面)。
 同時にアメリカは、15日の国連総会第一委員会での声明で、「核保有量を2012年までに01年比半減する」方針を改めて確認した。

 これらの背景に、オバマ大統領の「4月のプラハ演説」、「9月24日の国連安保理発言」があることは言うまでも無く、アメリカはオバマ大統領のイニシャティブのもとで確実に核廃絶の道を歩き出したと言ってよいだろう。
 これを見て、共和党から民主党への政権交代の変化を強く感じる。
 日本の民主党政権も、予算編成などその違いを見せ付ける正念場を迎えている。国民の期待に応えてもらいたいものである。
                           


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