旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

楽しみな高知・四万十の旅

2012-10-30 14:28:21 | 

 

 今年は海外に出向かなかっただけ、国内では珍しいところに出かけた。
 6月の「阿蘇仙酔峡・久住高原」は、高校同窓会で帰郷した折に日帰りで行った行楽で、これは子供のころから何十回も行った先であるが、阿蘇の仙酔峡まで行ったのは、おそらく3,40年ぶりのことだと思う。7月は「白馬・五竜高山植物園」に出かけたし、8月は秋田「西馬音内盆踊り」に参加し、10月は「尾瀬の燧(ひうち)裏林道」を歩いた。これらはいずれも初めての体験であった。

 その締めくくりとして、11月6日から二泊三日で高知に出かける。高知には2、3回行ったが、広島時代に車を飛ばして松山、足摺岬、高知市を慌ただしく回ったり、弘田龍太郎の取材で安芸市に行ったりで、肝心の高知市を堪能したとは言えない。
 なぜ高知に行くことになったかといえば、高校時代の友人K君が高知市に住みついており、「俺の居るうちにぜひ来い」とかねてから誘いを受けていたからである。彼は三日間とも空けてくれて、私とワイフを案内してくれるという。

 初日は中土佐町久礼の西岡酒造店など酒蔵を訪ね、その夜は久礼にある旅館『黒潮本陣』に泊まる。併設する「鰹の黒潮工房」や、「太平洋を一望する露天風呂」など期待している。
 二日目は、せっかく中土佐町に泊まるのだから、近くの四万十川上流から四万十川を一巡りしたい! 私は四万十に行ったことがないので、今回の旅のメインにこれを据えた。
 ところがドッコイ。四国南西部を逆S字型に流れる四万十川は全長196キロ、源流からでなくても窪川あたりから河口の中村(四万十市)まで丹念にたどり、それから高知市まで帰ることを計算すると優に10時間をこえる行程となりそうだ。これをすべて友人の運転に委ねるわけにもいかず(実は私は運転できない)、何処か途中までで引返す案を検討している。いずれにせよ、沈下橋をはじめ、初めて見る“秋の四万十川”を楽しみにしている。
 その夜は、はりまや橋に近いリッチモンドホテルに泊まるので、K君推薦の店で「高知の味」を味わい、夜の「はりまや橋界隈」を愉しみたい。
 最終日は、高知城下の「木曜市」(ちょうど木曜日にあたる)や桂浜や牧野植物園、龍馬記念館など、市内観光をゆっくり楽しんで、ANA最終便で帰京する。

 K君には迷惑をかけるが、おそらく最後になるであろう「高知の旅」を楽しみたい。


歌いつがれた日本の心・美しい言葉⑭ ・・・ 『荒城の月』 

2012-10-28 16:35:14 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 昨夜10月27日は、旧暦9月の13夜であった。古来、8月15夜の月(中秋の名月)と9月13夜の月が一番美しいとされ(いずれも旧暦)、月見の宴がもたれてきた。ところが今年は、中秋の名月に当たる9月30日は台風に見舞われ、昨夜は厚い雲に覆われた。それを予期した私はその前夜に当たる8月14夜と、9月12夜の月を、一応カメラに収めておいたが…。

  
                  

 それはさておき、この月見の宴の時節になると思い出す歌が『荒城の月』である。この歌を秋の季節に引き合いに出すことには大方の異論があろう。何と言ってもこの歌の出だしは、「春高楼の花の宴 巡る杯かげさして」と春という言葉から始まるのだから。
 しかし私には秋の印象が強い。まず「荒城」というイメージは「花の宴」に合わない。荒城が一番ぴったりくるのは「秋陣営の霜の色」である。だから、歌いつがれた名曲を季節を追って書き並べるとなると、秋の項に加えざるを得ない。

    秋陣営の霜の色
    鳴きゆく雁の数見せて
    植うる剣に照りそいし
    昔の光いまいずこ

 この二番の歌詞には、かの有名な「植うる剣」論争もありにぎやかだが、私はそれについてはいたって単純な解釈をしている。荒城…陣営…の延長線上で、戦いに敗れ刀を杖にようやく城にたどり着いた武将が、草むらに突き刺して倒れこんだ刀の様、と思っている。その解釈で、「秋」と「照りそいし」という言葉が十分に生きると思うから。

 それにしても名曲である。土井晩翠の歌詞と言い滝廉太郎の曲と言い、日本が誇る歌曲であろう。事実、これまた日本が誇るテノール歌手藤原義江は、広く海外で日本を語る歌として歌い続けたといわれている。
 荒城のモデルは、二高の教授であった土井晩翠としては仙台の青葉城ということになるが、滝廉太郎としては郷里大分県竹田市の岡城となる。私は大分県臼杵市の生まれであり、口ずさむたびに、幼い時からたびたび訪ねた竹田市の岡城の城壁が瞼に浮かぶ。


時ならぬ新人歓迎会

2012-10-27 10:23:48 | 時局雑感

 

 昨夜はわが社の新人歓迎会であった。新人歓迎会などと言うものは、大体4月か5月が相場であろうが、わが社は久しく新卒者を採っていない。というより、正社員を採用していない。
 昨夜の新人なる人たちも、全部アルバイトで、20代から30代後半に及ぶ4人だ。アルバイトとはいえ4人も一挙に入ってきたので、一つ歓迎会をやり気勢を上げようということになったのだ。

 このような状況は、今の日本の企業実態、特に中小・零細企業の状況を示していると思う。一つは、これは大企業にも多くみられるが、臨時雇用、不正規雇用が多くなったことによるのだろう。企業として現下の景気動向からみて、長期雇用をする自信がない。人件費負担を極力抑えるために臨時雇用でつないでいく。この傾向は長期的に見て、企業にも従業員にも決して良い結果をもたらさないと思うが…

 もう一つは、働く側も正社員を望まない傾向が強い。いわゆるフリーター志向であるが、企業に縛られることなく自由に生きたい傾向が特に若者には強いのであろう。特にわが社のような映像製作会社に集まる若者は、映画製作とか、芸術性を追求する人が多いので、正社員を薦めても断られる例も多い。

 このような諸々の傾向を映しだした「時ならぬ新人歓迎会」であった。ただ、前述したように、このような傾向は企業側にとっても労働側にとってもいい傾向とは思わない。何よりも日本の強みは物つくりであり、その基礎は、長期的に一つの事業体に技術や経験を蓄積していくことにあったと思うから。

  
  中華料理飲み放題で、大いに気勢を上げる


逗子の浄楽寺から三崎港めぐり

2012-10-25 15:33:43 | 

 

 19日は、むつみ会(銀行仲間の同好会)同志による「浄楽寺、三崎港めぐり」の行楽に出かけた。前日までの尾瀬の疲れをものともせず、快晴の三浦半島を満喫した。
 なぜこの日を選んだかというと、 浄楽寺が所蔵する「運慶の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像」の特別公開日(年に二日)に当たるからである。この阿弥陀三尊像は、浄楽寺を建立(1189年)した和田義盛とその夫人のために、運慶が小仏師10人を率いて造立したものとされ、三尊像の両脇に並ぶ不動明王像、毘沙門天像(この二つは運慶像としてよく見るもの)ともども見ごたえのあるものであった。

  
             浄楽寺にて

 そこから車を飛ばし三崎港に赴き、市場や付近の魚屋などでで買い物(カマスのひらき、タコの燻製、うるめイワシ等々)をし、快晴の海に惹かれて遊覧船に乗り込んだ。城ケ島にまつわる話などを聞きながら沖合に出ると、そこで船を止めて魚の餌付けをやる。全員船底に降りてガラス窓越しに様々な魚を観賞するという仕組みだ。

  
      
 
   観光フェリーの船底より

 船から上がると近くの『まぐろ・地魚料理“くろば亭”』に上り込み、今見てきた魚類が盛りだくさんの料理に舌鼓を打った。酒も黒龍や雪中梅など銘酒が並んであり、大変満足の一日でした。

      


77歳の尾瀬④ … 日本人は「海の日」に山へ行く?

2012-10-24 15:35:53 | 

 

 燧裏林道の途中から引き返えし、出発点の御池ロッジでゆっくり体を癒した。一行が帰着するまでには3時間近くの時間がある。山菜そばのけんちん汁をすすり、ロッジの周囲の美しい紅黄葉に見とれる。

         
      御池ロッジにて

 人の少ない売り場でぽつねんとしている売り子さんに、「一年で一番人が来るのは、やはりミズバショウの時期ですか?」と尋ねると、意外な返事が返ってきた。
 「ミズバショウの時期は5月中旬から6月ですが、5月は雪が残っており、6月は連休のない月でいずれも人は来にくい。一番多いのは7月の海の日です。次は10月の体育の日。いずれも400以上駐車できる駐車場がいっぱいになる…」とのこと。
 これには驚いた。日本人はどうも海の日に山へ行くらしい。もちろん海にも行くのだろうが。海の日と体育の日は必ず連休となるが、尾瀬はやはり、入山の行程と湿原を歩く行程から、本格的に楽しもうとすれば連休を必要とするのであろう。「尾瀬は深い」と改めて思った。

 もちろん、尾瀬を楽しむ人たちは同時に温泉も楽しむのだろう。私たちも桧枝岐村の温泉を楽しんだ。一泊した民宿『郷(さと)』でも、宿の浴衣とつっかけ姿で公共浴場へ出かけた。この露天風呂は素晴らしかった。すぐ下を流れる川のせせらぎを聞きながら「紅葉の湯舟」を楽しんだ。しかも翌日も、9時間の林道歩きで汗と雨でぬれた体を、このお風呂で温めて帰路に就いた。日本人には何と言っても温泉だ。

 最後に、民宿『郷』の料理の美味しさに触れておく。ヤマメの塩焼きや鹿の肉などに始まる12品ばかりの山菜料理を、イワナの骨酒でたっぷり食べた。文句なし、の一言!
 部屋に帰っての二次会では、Wさんが提供した焼酎「百年の孤独」で盛り上がった。宮崎県高鍋のこの焼酎は今や“幻の名酎”となって、ほとんど手に入らない。

 こうして、77歳の尾瀬は貴重な思い出を残してくれた。いくつになっても新しい体験はいいものだ。


77歳の尾瀬③ … 小雨に煙る紅黄葉の美しさを満喫

2012-10-22 12:27:08 | 

 

 二日目の尾瀬本番、燧裏林道のことは既に書いた(20日付本稿)。私は予定を越えて(というより、私の行程表の読み違いより)、2時間のところを3時間歩いて「段吉新道分岐点(尾瀬ヶ原と三条の滝への分岐点)」まで歩き、そこで一休みしてその3時間を引き返した。
 その片道行程は約6キロらしいので、「2キロを1時間かけて歩く」、つまり平地の二倍の時間を要することになる。もっと言えば、尾瀬というのは決して平地ではないのである。
 田代と呼ばれる湿原は確かに平地であるが、それはほんの一部で、次々と現れる田代をつなぐ道は、私にとってはかなりの山道であった。もっと言えば、尾瀬に行くにはひと山越えなければ入れないのだ。よく写真に見る「平坦な湿原を走る木道」は、ひと山越えたり下ったりしなければ現れない。バスを降りたら木道が続いているのではない。そして、だからこそ尾瀬は俗世界から守られてきたのだ、ということを初めて実感した。


吊り橋から見る紅黄葉の織りなす景観は素晴らしかった

 私は一行が目指した三条の滝と平滑の滝を見ることはできなかったが、初めて見る尾瀬の紅葉を満喫した。曇りで時折小雨のぱらつく天候であったので、実は景色についてはあきらめていたが、とんでもない! 紅より黄の多い葉々はしっぽりと小雨に濡れて、息をのむ美しさを湛えていた。苦労して「ひと山越えた者」が初めて見ることのできるものだと思った。
      
 11時半、疲れた足を引きずりながら御池ロッジに帰着。12,3キロ、6時間の行程は予定を越えるものであったが、何とか歩き終えたことに自分としては満足した。特に義兄には迷惑をかけたが、「行ってみなければ絶対にわからない」旅の醍醐味を、また一つ味わった。

   

 
  「草紅葉(くさもみじ)」も初めて見た。姫田代にて
          


77歳の尾瀬② … 初日、帝釈山、田代山の途中まで登る

2012-10-21 15:14:46 | 

 

 朝6時半に調布を出発したバスは、東北道を走り那須塩原温泉街を抜けて福島県に下り、12時ごろ猿倉登山口に到着。そこで昼食を済ませ、田代山、帝釈山に登り馬坂峠へ下るというのが初日の日程。ところが、先回りして馬坂峠で待つはずのバスが、そこまで行けないことになったので、帝釈山登山はあきらめて田代山付近まで登り、バスの待つ猿倉登山口に引返すことになった。
 この計画変更が私の判断を狂わせた。「それなら行けるところまで登って引返せばいいんだ」ということになり、当初は登らずにバスで待機する予定の登山に参加することになった。
 空は快晴、紅葉は目に染みるほど美しい! その光景が私を山に誘った!

    
     紅葉というより黄葉だった

 もちろん私は田代山まで行けなかった。明日の尾瀬歩きのことを思い体力温存という弁解付きで途中で休憩、私とワイフはそこで帰ってくる一行を待つことにした。ところがドッコイ。山の掟で二人だけを待たせるわけにはいかない、と言う。結局責任者の一人、わが義兄が約一時間の休憩に付き合うことに。

  

    休憩した場所は様々な紅葉に囲まれ秋を満喫したが…

  つまり二日間にわたり、全員(19名)に心配をかけ、リーダーの判断を仰ぎ、サブリーダーの一人たる義兄から山行の楽しみの一部を奪ったのである。それにしても「山の掟の厳しさ」を教えられ、身勝手な行動がいかに迷惑をかけることになるのかを痛感させられた旅であった。

 
       
          
                   


77歳の尾瀬…過酷、しかし美しかった! 

2012-10-20 16:17:58 | 

 

 尾瀬…、正確には燧裏林道から帰ってきました。その行程は、77歳の老人にとっては想像をはるかに超える過酷な道のりでした。それは湿原の平らな木道を歩くだけのものでなく、私にとっては厳しい山登りと山下りの連続でした。しかしそこは、これまた想像をはるかに超える美しい光景の連続でした。以下、いくつかの実感を書き記しておきます。

 「尾瀬(燧裏林道)から帰ってきました」などと書いたが、私はその全行程を歩いていない。朝4時半に桧枝岐村の民宿『郷(さと)』をバスで出発。出発点の御池に着いたのが5時。真っ暗である。小雨模様なのでバスの中で朝飯(民宿の用意してくれたおにぎり)を食べて5時半前に出発。真っ暗であるからみんなヘッドライトだ。そんな準備もない私とワイフは義兄の照らす懐中電灯を頼りに歩く。6時ごろから少し明るくなってくるが、木道を注意しながら歩くことに早くも神経を使う。
   ……
 このような状況であるから、とても本格的な山の会『調布頂会』の皆さんに順調についていくことはできない。もちろん私は、最初から全行程を歩くことはあきらめていた。事前に渡された行程表によると、「分岐点(尾瀬ヶ原と三条の滝への分岐点)」まで2時間、「2つの滝めぐり」2時間、分岐点より帰路2時間で全行程6時間となっていた。
 そこで私は、きつい下り上りの滝めぐりは避けて分岐点で休み、滝めぐりから帰るみんなを待って帰る…、つまり「2時間歩き、2時間休み、2時間帰る」往復4時間と決めていた。ところが出発時点で知らされたのは「全行程9時間」ということだ。つまり、分岐点まで3時間、滝めぐり3時間が実態らしい。
 しかも、想像していた「平坦な湿原の木道」はほんの少しで、湿原の前後は私など老人にとってはかなり過酷な「山登り、山下り」だ。これにはほとほと参って、3時間かけた分岐点からの帰りは3時間半をかけてようやく出発点の御池にたどり着いた。
 もちろん、山の会のルールで、途中で引き返す者をそのまま返すわけにはいかず、サブリーダーの一人である義兄が私とワイフについて帰ってくれた。申し訳ないことこの上ない!

 ここまで書くと悲惨さだけが残るが、湿原や林道を彩る美しさはこの世のものとは思えないものであった。紅葉(黄葉?)は今が盛りで、時々降る小雨は、その美しさを一層引き立ててくれたようだ。景色より足元に気を取られることの多い私にとっても、目の覚める思いであった。

  
       

 

 
 一面“草もみじ”の姫田代(?)で(朝7時ごろ)


尾瀬に行ってきます

2012-10-16 20:16:48 | 

 

  明日から尾瀬に行ってきます。
 77歳にして初めていく尾瀬は雨のようです。
 「雨の湿原はいいんだ」と言いますが、初めて行く者としては好天を望んでいます。
 まあ、全ては行ってみなければわからない、ということでしょう。


近づいてきた尾瀬桧枝岐村の旅

2012-10-14 14:02:36 | 

 

 尾瀬桧枝岐村への一泊旅行が三日後に迫った。いつものように天候や気温などを気にしながら、旅の準備を整えている。下界――特に東京はまだ暑さが残るが、南会津町の天気予報を見ると最低気温5度とある。真冬の寒さではないか。最高気温は18度なっているから、その中を歩くとすれば結構暑いのかもしれないが…。
 気になるのは雨である。二、三日前から週間予報を見ているが、目的地一帯の天候は、我々が訪問する17日と18日だけに一部雨マークがついている。前後は少なくともお日様がのぞいているのに、目指す二日だけ一部といえ雨マークがついているのは気に食わない。
 もちろん私は山(帝釈山)には登らず、二日目の木道も場合によっては一部にとどめようかと思っているが、それにしても雨の準備を全くしないわけにはいかないだろう。幹事さんからは「着替えの用意を十分にするように」と言われているので、少なくとも準備はしなければならない。
 摂氏5度から18度の山歩き、しかも雨の場合を想定…、と素人だけにいろいろと考える。なんせ尾瀬は初めてだから。
 
 「初めて尾瀬に行く」と話したら、山びこの会のMさんが「奇跡の湿原尾瀬」というDVDを送ってくれた。NHKの一時間番組を収録したものらしい。先日、一緒に行くワイフとこのDVDを見て感動した。尾瀬の美しさはかねてからいろいろな映像や写真を見てきたが、感動したのは単なる美しさなどではなく、その生態系の不思議な営みである。尾瀬沼生成の歴史からそこに住む無数の生き物たちの営みに、何か崇高なものを感じた。

 私が今度行くのは、尾瀬沼ではなく、その裏側の福島県側、桧枝岐村から「燧裏林道」だ。燧ヶ岳をはさんで、尾瀬沼のちょうど裏側になる。写真などを見ると尾瀬ヶ原の木道と同じような景色であるので、尾瀬に違いはないのだろう。
 水芭蕉の季節ではないが、初めての尾瀬を楽しみにしている。どうかお天道様、一瞬でもいいから「尾瀬の最高の美しさ」を見せてください。13時50分現在の週間予報によれば、木道を歩く18日には、曇りマークの一部にお日様マークが輝いている (曇り時々晴れ?)。
 期待して旅立とう。


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