旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

弟、淳の死③

2015-11-30 11:09:36 | 時局雑感

 

 淳は、教師をやり、農民になり、絵を描き、また郷里の山を海を楽しんで生きたが、それだけではない。彼は「9条の会・うすき」の代表として社会運動にも多くの足跡を残した。講演会や平和憲法の宣伝活動に取り組み、会の事務局長を務める女性を市会議員に当選させるなど多彩な活動をした。
 中でも彼が最も自慢としたのは、「9条の会・うすき」の主催で、大江健三郎氏を臼杵に招き講演会を開催したことである。大江氏は、大分県では一度も講演をしたことがなかった。淳はその大江氏に、得意の画筆をふるって臼杵の風物や野上弥生子の生地であることなどを長文の絵手紙にしたため、大江氏の心を揺さぶり、ついに招致に成功したらしい。大江氏は大分県内で初めて開く講演会を、大分でも別府でもなく小都市臼杵で開催することになったのである。1300名入る臼杵市公民館は満席となり、大成功であったと報じられている。

 私が見舞に帰った今月11日(死の一週間前)、ちょうどわが家で「9条の会・うすき」の事務局会議があった(事務局会議は代表の家で開くことを恒例にしているとのこと)。淳は私に、「兄貴、オブザーバー参加して東京の情勢でも話してくれ」というので出席した。淳は、熱に苦しみながらもベッドから起き上がり、わずか二間離れた客間までも車イスという痛々しさであったが顔をだし、開会の挨拶をした。
 「ミャンマーでアウンサンスーチー氏が勝った。世界の民主主義運動は確実に前進している。民主主義の前進を阻むものには鉄槌が下されるのだ。皆さん頑張ろう」

 彼は、「失礼だが私はこれで休ませてもら」と言い残してベッドに引き上げた。そしてこれが、淳の最後の演説となった。会が終わりベッドに行くと、「会議はどうであった?」と聞くので、来るべき「憲法9条にノーベル平和賞を」という大分の集会に、いかに多くの人を動員するかについて実にきめ細かい討議をしていたこと、みんな生き生きして実にいい会だ、と報告すると、
 「兄貴、『党派を認め合い、党派を持ち込まず』、これが大衆運動の鉄則だ。これで俺は運営をし続けた」
と語った。多様な生き方を貫いたが、最後に、包容力を持った政治家淳の一面を見せてくれた。

   
大江健三郎講演会を報ずる大分合同新聞(2008年6月21日付)
 写真は、大江氏に送った絵手紙を広げる淳
     
        大江氏との懇談(左端が淳)


弟、淳の死②

2015-11-28 13:52:50 | 時局雑感

 

 淳は75歳で逝ったが、その生きた中味は、実に多様で豊かであった。
 本業は教師であったが、まずその天分を発揮したといってよかろう。小中学校の教師として「よい先生」と慕われ、最後は臼杵小学校の校長まで勤め上げた。街を歩くと周囲から「先生、先生」と呼びかけられていたが、小学校の校長先生にとっては、町民は皆教え子に等しいのであろう。
 山を愛し、絵を描いた。特に絵の才能は、私が最もうらやましく思った才能である。幾多の県展で入賞を果たし、地元紙大分合同新聞が漱石の『硝子戸の中』を連載した際、半年にわたって挿絵を描いた。「曇りガラス」などの新手法を編み出し、様々な画風に挑んできたようであるが、画題は主にブナにしぼられ、死ぬまでブナを描きつづけた。個展も、東京や秋田を含め数度におよんだ。
 ブナは、絵の題材にしただけではない。教師を退職するや、退職金をはたいて九重の飯田高原に山小屋を構え、周辺にブナを植えた。ブナの素晴らしさを、それを育てる実践を通じて周囲の人に語りかけ、「いろり荘」と名付ける山小屋は仲間たちのたまり場になっている。
 また、臼杵湾に面する佐志生の山にミカン山を経営し、採れた夏ミカンを毎年全国の愛好者に送っている。私の周囲にも、それを待ち望んでいる人が何人もいる。「兄貴、俺は今や農民だ」と語っていた。また、山菜類とともに魚貝を好み釣りを愛していたから、彼は、ふるさとの自然にどっぷりつかって生きてきたと言ってよかろう。

 彼はただ自然とともに生きただけではない。「憲法9条の会・うすき」の代表として、その活動に多くの足跡を残した。その話は次回に譲ろう。

  
  佐志生のミカン山で作業する弟夫婦(2012年夏)


弟、淳の死

2015-11-27 14:57:51 | 時局雑感

 

 ここ2週間ブログを書いてない。それは、弟(臼杵市在住)の死という悲しい現実に直面していたことによる。葬儀などで時間もなかったが、投稿する心の余裕もなかった。
 しかし、机上に並ぶ9年に及ぶブログの歴史を眺めていて、この冷厳な事実を書き残しておく必要もあると思った。

・昨年(2014年)の春、健康診断で肺ガンが見つかる。
 放射線治療で、このガンは退治されたと聞き喜んでいた
・今年4月初旬、母の7回忌を取り仕切り、その健在ぶりを見せた
・ところが5月中旬、再発して大分のアルメイダ病院に入院
 高校傘寿同窓会で帰省して病院に見舞うが、急激に衰えていた
・以降、入退院を繰り返す
・10月主治医の「何とか年を越すように頑張りましょう」の発言あり
・11月10~12日帰省して見舞う。私の旧友S君を加え河豚を食べる
 遺作となった「冬のブナ」に筆を入れる姿に、「年は越せる」と確信
 したのだが…

・11月18日午後5時過ぎ死亡、享年75歳。
 直接の死因は動脈瘤破裂。ステント、誤嚥などで喉周辺は痛んでいた
・11月20日通夜、21日葬儀。2日間で延500人以上の会葬を受ける

 私は男ばかり5人兄弟の長男、淳はその3弟であったが、子供のころから5人の中で一番明るく元気であった。人の命のはかなさを、これほど感じたことはなかった。


  
  最後の筆画…遺作「冬のブナ」に筆を入れる(11月11日午前9時半頃)
    
        描き終えて床に就く主を、愛猫イツクが見舞う


「民主主義のレッスン」(春日孝之氏) … ミャンマー総選挙の結果に関して

2015-11-14 10:43:07 | 政治経済

 

 ミャンマー総選挙でアウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝した報道に触れて、毎日新聞アジア総局長兼ヤンゴン支局長の春日孝之氏が、「民主義のレッスン」という評論を書いている。(本日付同紙3面)
 同氏は、「アウンサンスーチー氏の演説を聞きながら、政治家というより教育者のようだと感じた」として、スーチー氏の次の言葉を掲げている。
 『前の人たち、座ってください。後ろの人のことを考えて。これも民主主義のレッスンです。この国の問題の多くは、他人に譲ろうとする気持ちに欠けているところにあります』
 そして、「メディアにも、記者会見で同じ文言の談義を繰り返す」と続けている。

 ミャンマーは今、壮大な夜明けを迎えようとしているが、まず始めなければならないのは民主主義のレッスンなのだ。そのためには、そのレッスンを指導する偉大な教育者を必要としているのであろう。
 私は、それぞれの国の発展度合いは、その国が体現する「民主主義の深度」によると思っている。日本は、15年戦争から第二次大戦の敗北という多大な犠牲を払って民主主義を手に入れた。日本人は、この民主主義を瞳のように大事に育てながら、一生懸命働いて高度成長を遂げてきた。現在の日本は、この戦後民主主義と高度成長が作り上げたものだと思っている。
 ところが1980年代以降、国民が必死で働いて得た豊かな生活、つまり分厚い中間層は、新自由主義の名のもとに破壊され、多くの中間層は貧構層へと落されてきた。日本は格差と貧困問題に曝されている。同時に、その基礎ともいえる民主主義も破壊されようとしている。安倍政権の進める戦争法案が、民主主義、立憲主義を根底から覆すものだとして、多くの国民がその廃案のために立ち上がっているのがその現れだろう。

 戦後70年をかけて育て上げた民主主義は盤石のものだと思っていたが、そうとも言えないのだ。一瞬でも手を緩めれば失ってしまうのだ。民主主義を維持するためには、絶えずレッスンが必要なのだ。ミャンマーだけではなく日本も、偉大な民主主義の教育者を必要としているのではないか。


お酒のさかな 話題篇(5) … 「ベルギー・ビールのつまみ」

2015-11-07 16:28:22 | 

 

 ベルギーといえば美食の国として名高い。ローマに始まるカソリック料理文化が、上り詰めた北限の地、という印象さえある。またベルギー・ビールも多彩でおいしい。さぞかしおいしい料理を肴においしいビールを飲んでいることだろう、と思うのだが、弊著『旅のプラズマパートⅡ~世界の酒と日本酒の未来』に次のような記事を書いたことを思い出す。

 「…しかし、ビールを飲みながら何を食べたかはあまり覚えていない。“ムール貝のワイン蒸し”も“牛肉のビール煮”も、それ自身を夢中になって食べたという記憶だ。ビールはビールで「何も食べないでひたすら飲んだ」という印象が強い。ブルージュの《ヘルベルグ・ブリッシング》でも、ランビックを飲みに行ったブリュッセルの《ア・ラ・ベガス》でも、料理はおろかつまみもとらなかった。そして両店で飲んでいたほとんどの人たちは、何も食べていなかった。
 つまりベルギービールは、料理など無くとも、それ自身が十分に様々な味を持っているのだ。というより、ベルギー・ビールの“つまみ”は、料理より何か精神的なものではないのか? たとえば“語らい”とか“静寂な雰囲気”とか“音楽”とか“絵画”とか……、なにか文化的なものかもしれない。
 中でも絵画……。」(同書24頁)

 いま読み返してみて、もし「文化的なものをつまみにして飲んでいる」となれば、これは大変なことだと思った。しかもこの記述は、決して特殊な情景として描いた記憶はなく、ベルギーでいくつか入った《ビア・カフェ》の率直な印象をそのまま書いたものであった。
 彼らは本当にあまり食べてはいなかった(食べるのはレストランなどで十分に食べるのだろうが)。静かに飲みながらひたすら語り合っていた。何組もの人たちがしきりに語り合っていたが、日本の居酒屋などのような喧噪さはなかった。むしろ静寂とさえ言える雰囲気の中で、しきりにしゃべり合いながら飲んでいた。
 彼らは何を語っていたのであろうか? 私が、それを文化…中でも絵画と思ったのは、その旅で毎日、ベルギー、オランダの巨匠たちの絵を見てきたからであったろう。曰く、レンブラント、ゴッホ、ルーベンス、フェルメール、ブリューゲル、ファン・ダイク……。
 もちろん、彼らがすべて絵画をつまみに飲んでいたなどとは思っていないが、日本で一般に抱く“酒のさかな”と、かなり違った雰囲気であったことは確かであった。


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