旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

日本は決勝トーナメントへ進む資格があるか? … W杯ポーランド戦を観て

2018-06-29 14:19:48 | スポーツ


 W杯サッカーで、日本が決勝トーナメントへ進出して湧き上がっている。2年ぶり3回目の進出で、その限りではうれしいことだ。しかし、もう一つすっきりしない。私はすでに、第一戦のコロンビアとの試合について、相手の決定的なミスによるものとはいえ、全戦のほとんどを10人で戦ったコロンビアから1点しか取れなかったことに対し充足感に欠けたと書いた。そして昨夜の日本の試合は、それに輪をかけるものどころか、到底容認できるものではなかった。
 ポーランドに先制ゴールを許し、果敢な戦いで得点を期待する後半に入ったが、折しも入ったコロンビア・セネガル戦の情報でコロンビアの先制、優勢が伝えられた。両試合がこのまま終われば、日本はセネガルに「反則注意数の差」で勝り、決勝へ進めることが判明したのだ。そこで日本のとった戦術は、コロンビアの勝利という「他力」を前提に、当面の敵ポーランドとはできるだけ戦わず、反則を犯さない、というものであった。それから10分強、日本は自陣営内での「ボール回し」に終始して一切攻撃することはなかった。
 場内は、当然のことながらブーイングの嵐である。選手はその屈辱に耐え、他力に頼った。結果はその通りになって決勝進出を手に入れたが、このようなことがあっていいのか?! 残り1~2分なら、このような戦術もるかもしれない。10分を上回る時間である。しかも負けているのである。当然、点を取りに行くべきではないのか? 決勝進出の資格は、戦いにより、勝利してこそつかむものではないのか?
 私は、ブーイングの中で「ボール回し」を繰り返す日本を見て、試合放棄、試合逃避だと思えて恥ずかしかった。多くのマスコミやテレビ番組で、評論家たちが「これも戦術、これも成長への道のり」などと言っているが、そんなことまでして決勝トーナメントに進まなければならないのか? 戦い続け、勝ち進んでこそ決勝トーナメントではないのか。全力を出して戦い敗れても、だれも文句は言わないだろうし、それがスポーツだ。
 断っておくが、私も、日本の決勝進出を願うことでは人後に落ちないつもりだ。だから83歳の老体に鞭打って深夜一時まで起きて観たのだ。しかしそこに、サッカーという素晴らしいスポーツの姿はなかった。


高幡不動尊のあじさい

2018-06-27 16:52:20 | 時局雑感


 今年はあじさいの当たり年ではないのか? 周囲を回っても、例年と際立って存在感を示している。咲き誇る数も花の大きさも、例年に勝っているように思える。
 そこで、「あじさいの名所はどこだ? 近間にあれば行ってみたい」と妻に問うと、「高幡不動よ」という返事がオウム返しに帰ってきた。そこで、もう一週間前になるが、21日に出かけた。昼飯に門前蕎麦でも食べよう、と言うのが第二の狙いであった。
 さすがに、1100余年前(平安初期)の建立といわれるお寺だけあって、咲き誇るあじさいの数も半端ではなかった。とても全山回る馬力もなく、珍しい花をいくつか写真に集めて退散したが、十分に見ごたえがあった。全てはそれぞれ、その時節のものである。

 

 
    
         
 
   

          
     

 


充足感に欠けたW杯サッカー対コロンビア戦の勝利

2018-06-21 15:46:44 | スポーツ


 W杯サッカーの初戦、対コロンビア戦の勝利に日本国中が湧いている。何といっても、W杯史上でアジア勢が南米諸国に勝ったのは初めてという、歴史的快挙であるからだ。私ももちろん、この勝利を喜んだ。しかし、もう一つ充足感に欠けているのだ。
 理由はただ一つ。全戦のほとんどを、相手は1名減の10名で戦ったからだ。サッカーは11名で戦う。あの広いグラウンドを、10名の選手(除くキーパー)が連携しながら走り回るゲームだ。1名の減員は決定的ではないのか? 試合開始直後(3分後)に、コロンビアの一選手が「意図的なハンドプレーで相手のゴールの機会を奪った」という罪でレッドカードを突きつけられ退場となった。しかもPKを与えられた日本は、それで1点を先取した。その後87分間、コロンビアは10人の選手で戦い通した。
 その10人を相手に、日本は1点しか取れなかったことに、私の未充足感があるようだ。
 それにしてもサッカーという競技は厳しい競技であるということを思い知った。「手を使ってはいけない」という決まりになっているのだから、それを冒した者が反則を問われるのは当然だ。しかも悪質な反則なら退場処分を受けても仕方なかろう。しかし、相応の処分を受けるのであるから、その後のゲームは、退場者分の補充を認め「11人づつで行うという正常な状態」で続けていいのではないか、と思う。
 しかしサッカーの精神は、「そのような重い罪を犯す人間を抱えたチームは、その責めを、全員で、最後まで背負っていかねばならない」と言っているかに見える。これは厳しい。その裏には、サッカーにおける「1点の重み」があるような気がする。その「1点の重み」の機会を奪うような反則は、犯した人間はもちろん、仲間全員で最後まで背負っていかなければならない程の罪なのだ。
 11人中1人欠ける…、これは将棋なら角落ちみたいなものではないか? この重い罪を背負い、ほぼ全時間を戦った相手から1点しか取れなかった。これは物足りなかった。それとも、日本人的友愛の精神(和をもって貴しとなす)が、最小限の得点に止めた、と言うのなら別だが。

(追記)一つ心配なことがある。コロンビアは、1994年のW杯米国大会で、自国選手のオウンゴールでアメリカに負けた。その選手エスコバルは、帰国後射殺された。今回ハンドの罪を犯したカルロス・サンチェス選手が、殺害されるようなことだけはないことを願う。


米朝首脳会談の実現を評価し、今後の世界平和の進展に期待する

2018-06-14 14:27:44 | 政治経済


 実現が不安視されていた会談が行われ、両首脳の直接の口から、北朝鮮の安全の保障と完全非核化が約束されたことを高く評価する。まさに歴史的快挙と言っていいだろう。
 ところが、これを謳った共同声明に疑問をはさむ声がある。アメリカ政界を中心としたもので、「北朝鮮の完全非核化」の文言に「完全かつ検証可能で不可逆的な」と言う言葉、いわゆる「CVID]が謳われていないので約束が守られるかどうか不安だというのだ。アメリカの尻馬に乗る日本の政界やマスコミ、またそれに同調する評論家等に共通する。
 しかし、これは片手落ちの指摘ではないか? トランプによる「北朝鮮の安全の保障」にも、このCVIDは加えられていない。どのように安全を保障するのか具体策は何も書かれていない。トランプは信頼できるが、金正恩は疑わしいというのだろうか? 
 私は、北朝鮮という国はとんでもない国とは思っている。それは、人の国の人間を拉致したり、世襲的に独裁制を敷いたり、およそ近代国家の体裁を整えていないからだ。とはいえ、主権を持った一国であり、その国の将来はその国の国民が決めていくしかないと思っている。その主権国の大統領が、世界の前で自ら発言したことには重みがある。彼は声明文で、北朝鮮の非核化を、「確固として揺るぎのない約束」として再確認した。むしろトランプは、北朝鮮の平和保証の約束に、「確固としたゆるぎない約束」とまで言っていない。
 このような言葉や、CVIDなどの言葉が入れば、それだけで信用に足るとでもいうのだろうか? 言葉ではないだろう。これからの実践が問題である。そしてそれは、まさにこれから始まるのであり、段階的、持続的であらねばならず、国家間の約束である以上、双務的、ギブアンドテイクの関係でなければならない。非核化にしても、国家体制の安全保障にしても、瞬時に実現するようなものではないからだ。

 私は、前にも書いたが、この会談が金委員長の「誰も攻めてこないことが保証されるのならば核兵器などいらない」という、極めて高い平和理念(金委員長がそれに気づいているかどうかは知らないが)にもとづいていることを評価しているのだ。この理念は世界平和に通じるものを持っているからだ。核開発を通じて、これがいかに国民生活を犠牲にするものかを身にしみて感じた金委員長は、北朝鮮の平和さえ保証されれば、必ず核放棄に向かうのではないか?


子供はだれのものか … 結愛(ゆあ)ちゃん虐待死事件に思う

2018-06-11 15:18:42 | 時局雑感


 船戸結愛ちゃん(5歳)が、電気もつかない部屋に軟禁され、食事も一日一食しか与えられず衰弱死させられた事件が問題になっている。当の父親は、「しつけのため」と言っているようだが、想像を絶する虐待致死事件である。
 今の社会では、子供は家庭が育てることになっている。子供は、生きることつまり衣食住をすべて親に依存している。困ったときはすべて親に頼り、内外の恐怖から逃れるためにはすべて親にすがる。その親が、生きるに必要な食事も与えず、朝四時起床による体操やひらがな書きなどの課題だけは強制していた。彼女は毎朝、目覚ましをかけて起き、暗い中で課題をこなしていたという。そして、衰弱が進んでも医者にも診せてもらえなかったのだ。
 動物でもこうはしない。多くの記録映画が示すように、動物の親たちは、命がけでエサを集めて子共に与える。外敵が襲えば体を張って子供を守る。人間だけが(もちろん一部の人間だけであるが)、このような虐待をするのではないか? 人間社会特有の格差や貧困から自分自身を守るために。また、生半可な自我に目覚めて、その自我を守る、つまり自分のわがままを満たすために。

 結愛ちゃんは、どんなに不安であったかと思うと胸が詰まる。最後に頼るべき親に何を感じていたのであろうか? 「もう おねがい ゆるして …」と書き残されたメモは、誰に向けられていたのであろうか? 5歳の彼女は、ついに、人の愛を知らずに死んでいったのではないか?
 子供は社会のものだ、と言われる。しかし、子供を育てる能力のない親の手から、その子供を社会の手に委ねる仕組みを今の日本は持っていない。私を含め日本人の意識自体が、そのような水準に達していない。私たちは、準備不足のまま未知の手数料会に足を踏み入れているのではないか?


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