旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

後期高齢者医療制度と民意・・・山口2区補選にふれて

2008-04-29 11:30:37 | 政治経済

 

 後期高齢者医療制度が、いわゆる「新姥捨て山制度」として問題になっている。衆院山口2区補選における自民党の予想以上の敗北も、これが一因とされている。民意はようやく動き出したのかもしれない。
 聞いてみればこの制度はひどいものである。75歳になればそれまでの保険制度からこの制度に移され、今まで扶養家族として保険料の支払いが不要であった者からも新たに保険料を取り立て、しかもそれを年金から天引きするという。また、健康診断の行政義務はなくし、治療費の上限をつける「定額制」で必要な検査や治療が受けにくくなるようだ。終末期治療も費用削減で在宅死を増やそうとする方針らしい。
 これまで75年働き続けて、ようやくこれからお国のお世話になろうかと思った矢先、健康診断はやってくれない、治療費は制限する、おまけに保険料は新たに取られたり引き上げられるとなれば、国家とは一体何のためにあるのかを問うことになろう。しかもその国家は保険料の取りっぱぐ
れのないように年金から天引きするという。もはや働くことの出来ない75歳以上は、少ない年金だけが頼りだ。国家の本来の役目は、より多くの医療費を必要とするお年寄りには、逆に医療費を支給して年金の少ない人には補填してあげなければならないのではないか?
 国は何のためにあるのか?
 命にかかわる医療、国の将来を築く教育、本来これらを無料として国民に不安を与えないことこそ国の努めではないのか? 加えて生存の根底となる食料、エネルギーの自給を図る等こそ国家の仕事だろう。

 国民は、いまこそ「国のあり方」を問い直す時期を迎えたのではないか。
 山口2区補選や、同日行われた地方選の動き(県議や市議選一人区での共産党の勝利)などに民意の動きを感じるのであるが・・・。
                            


非平和を象徴した聖火リレー

2008-04-26 14:18:19 | スポーツ

 

 今朝目が覚めると、テレビはいずこも長野市の北京オリンピック聖火リレーを報じていた。私の大事なブログに、この茶番劇についてだけは書くまいと思っていたが、ブログが日記の性格を持ち、自分のカテゴリーに「時局雑感」を入れていることもあって、後日のために一言だけ触れておく。

 テレビを見ると、一般国民の立ち入りを極力押さえ、警察官を含む何百人もの護衛に囲まれて聖火が運ばれていた。オリンピックは平和の祭典と呼ばれ、聖火はその平和を最も象徴するものとされている。
 しかしこの聖火は私には非平和の象徴に見えた。
 平和ならば聖火は、それを見守る観衆の中を誇りと自信に満ちて高く掲げられ、せいぜい伴走者(車)の一人か一台を従えて堂々と運ばれるはずだ。しかしそこに平和はない。むしろ一触即発の危険が充満している。
 このような事態が世界各地で起こっている場合、一番為すべきはその原因を究明し解決に全力を挙げることであろう。にもかかわらず中国政府は(また各国首脳も)、自己の主張を強調するだけでこの茶番劇を推し進めている。
 なぜ、こうまでして聖火を世界各国に走らせなければならないのか?
 それは、国威高揚や経済主義など、オリンピックの政治的利用としか考えられない。近時、オリンピックはスポーツの祭典といいながら経済効果の追求に走り膨張を続けてきた。同時にそれは国威をあおる道具にされてきた。改革開放から新たな世界戦略を進める中国にとって、格好の材料かもしれない。第二次世界大戦の前夜、「民族の祭典」と謳われてヒットラー・ナチスに主導されたドイツオリンピックが想起される。一方には飢えと貧困に苦しむ多くの人々を抱えながら,
茶番劇に膨大な資金をつぎ込む・・・人間はいつまで誤りを繰り返すのだろうか?

 人類には、新たなルネッサンス(原点に帰るという意味で)が求められているのであろう。
                             


セルジュ一家との3日間(3)・・・かくて台風は去りぬ

2008-04-23 16:52:42 | 

 

 セルジュ君の今回来日の目的はたくさん有ったようだ。
その一つに、12歳になった長女ナデージちゃんに広島を見せて、原爆の悲惨さを勉強させることがあったようだ。私はこの点に感服した。日本人も忘れ去ろうとしている第二次大戦悲劇の最高点の一つを、これから中学年に進む子供に教えておこうというのだ。これは見習わねばなるまい。
 もう一つは、最も日本的なものを家族に見せようというものだ。彼の選んだものは、奈良(東大寺)、姫路(姫路城)、広島(原爆ドーム、宮島)、松本(松本城)、日光それに東京の浅草、鎌倉の流鏑馬(やぶさめ)だ。
 中でも自分が一番関心を持っているものが、この流鏑馬である。
 だから、私が付き合ったセルジュ一家の三日目は流鏑馬が全てであった。今日こそ本人希望のJRで新宿から鎌倉に直行、そのまま鶴岡八幡宮に直行して先ず場所をとり3時間近くを待って流鏑馬を見て、そのままわが家に帰った。
 私はせめて大仏様ぐらい見せたかったが、流鏑馬の興奮をそのまま持ち帰りたいのか、「子供も疲れているから大仏はもういい」ということだった。

 しかし、この彼の行動も私には印象に残った。そもそも私の周囲にも流鏑馬を見た経験をもつ者は少ない。それを遠くリヨンに居ながら調べ上げて「4月の鎌倉フェスティバルの第三日曜日は流鏑馬」と突き止め、何度も私にメールで確認をとりながら、それに日程を合わせて来日したのだ。
 鎌倉のこの「武田流流鏑馬」は、遠く6世紀に九州は大分県の宇佐神宮に始まった「家内安全、五穀豊穣」を祈る神事だ。このような歴史に日本人はもっと関心を持っていいのではないか。
 思えばセルジュ君は、リヨンの町を案内しながら「リヨンがいかに古いもの(2千年の歴史)を大切にしてきたか」を誇り高く私に語った。彼のその姿勢は一貫しているのだ。

 彼は翌日松本に発った。松本城や日光で彼は何を学んでいるのだろうか。
 ともあれ、かくしてセルジュ一家は gone with the tyhpoon !

             
                                         


セルジュ一家の3日間(2)

2008-04-22 16:53:28 | 

 

 翌19日、雨は上がった。だがわが家におけるセルジュ台風は続く。

 セルジュ一家の二日目の日程は横浜・・・、お目当てはトヨタの経営する「トレッサ横浜」の中にある『リヨン広場』と、横浜中華街。私はそれに時間があれば『みなとみらい』の一角でも展望させたいと思っていた。
 トレッサ横浜は東横線の大倉山からが一番近い(タクシーで10分)。わが上高井戸からも、渋谷経由大倉山が時間的にも最短。ところがセルジュ君はJRで行くと言う。なぜなら彼らは日本国中回れるJR切符を持っているのだ。何回でも乗れる券を有効に使いたいのだ。それを「JRでは“お前の誇るリヨン”に行けない。料金は俺が払うので東横線にしてくれ」と説得して強引に乗せた。
 ところが大倉山に着くと、「タクシーはダメ。歩いて行く」と頑張る。駅員に聞くと少なくとも30分はかかると言う。目を離せないオードレイと、マチスを乗せた乳母車を押しながらの話だ。これはかなわない、と必死で説得してバスにした。20分待ちのバスに。
 昨日の項では、「彼等は雨をなんとも思っていない」と書いたが、同時に30分や1時間歩くことも何とも思っていないのだ! 散歩ならまだしも3人の子供を引き連れての話だ!

 ただ、目的の『リヨン広場』にはご満悦であった。なにしろセルジュ君は、自分の育ったリヨンの町に限りない誇りを抱いている男だ(07年12月14日付「トラボウレス・・・隠されたリヨンの通路」参照)。隅々までカメラやビデオに収め、「これでリヨンフアンの日本人が増えるであろう」と胸を張った。私も昨秋訪問した美しいリヨンの町を想起して大いに楽しんだのであるが・・・。

 そこで相当な時間を使ったので、横浜市内は中華街のみとなった。私たちにとっても異国情緒豊かなこの町並みは、彼らにとっても珍しい景観であったろう。同じような道筋を何度も歩き回った。そこから一路帰路に着いたので、横浜の港も赤レンガ街も、みなとみらいの一隅も眺めることはなかった。
 これで横浜に行ったことになったのだろうか? しかし外国旅行なんてお互いにこんなものかもしれない。ほんの一端を見て「そこに行った」ことになっているのだ。
 まあ、セルジュ君は「リヨンの誇り」を確認しただけで満足したのだろうが・・・。
                            


台風一過・・・セルジュ一家との3日間(1)

2008-04-21 13:49:32 | 

 

 フランスの友セルジュ夫妻が、3人の子供を連れてリヨンからやってきた。わが家に宿泊する前にN氏宅に逗留して、奈良、姫路、広島などをかなりの強行日程で回ってきたので、我が家に着いたときには少しは疲れているだろうと想像していたのであるが、どうしてどうして、18日(金)の朝、激しい雨の中をずぶ濡れになって到着するや、すばやく着替えて、予定通り浅草に出かけるという。
 夫妻はともあれ、子供が疲れているだろうと心配したが、12歳の長女(ナデージ)と3歳の女の子(オードレイ)、19ヶ月の男の子(マチス)ともぴんぴんしている。暴風雨まがいの風と雨の浅草寺を飛び回り、子供盛りのオードレイは仲見世の店屋の物を当り散らす。マチスは乳母車に縛り付けられたままであるが、両親とも乳母車を押しながら雨の中を見物に回る。
 だいたい彼らは雨など気にしないのだ! ズボンのすそがちょっと濡れても気になる私などとは、正に人種が違うのである。

 セルジュ君と同じ会社に勤める友人が同じく東京見物に来ており、彼らと待ち合わせの約束をしている。てっきり雷門大提灯の前だろうと思ったが「ビッグシューズ」の前だと言う。私はそんな靴屋があったかなあと何処に行くのかと思っていると、中門に吊るしてある「大わらじ」の下だ。なるほど、わらじもシューズには違いないと感心したが、私などより彼らの方が日本をよく知っていることに驚いた。
 なんとか雨を逃れようと「江戸を見ていけ」と両国の『江戸東京博物館』に連れ込んだ。これは雨を逃れた上に結構よろこんでもらった。

 その夜は、ビッグシューズで会った友人夫妻も我が家に招いて、私の娘夫妻も加え大宴会となった。オードレイとマチスが飛び回る中で、フランス語と英語が飛び交い、日本語しか十分に話せない私を疎外感が覆った。(ワイフも娘もそれなりに英語をしゃべるので)
 まさに今年の台風一号というにふさわしい。
                            


セルジュ一家の来日と書斎模様替えの仮終了宣言

2008-04-17 11:04:23 | 時局雑感

 

 何度かこの記事の中で書いた「フランスの友セルジュ一家」が来日した。すでに5日前に着いて今はN氏宅に逗留している。もちろん、毎日強行日程をこなしており一昨日から「奈良、姫路、広島の旅」に出ている。
 今日はいったんN氏宅に帰り、明日18日から20日までわが家に泊まる。3人の子供をつれた5人家族につき、これを受け入れるわが家も大騒ぎだ。そもそもわが書斎の大模様替えも、このセルジュ一家の受け入れに端を発する。
 前回来日したときは子供一人の3人家族であったので一部屋をあてがったが、今回の5人となればそうはいかない。急遽、物置同然となっていた娘の部屋(嫁に行った長女が使っていた部屋)を整頓して、客間と合わせて二部屋を充てることになり、その整頓のついでに、そこに置いてあった私の物(膨大な本と書類)を、わが書斎に引き取ることになったのだ。
 これで、いわゆる娘の部屋は見違えるほどきれいになり、セルジュ家の長女ナデージちゃんに3日間使ってもらえる。ただ、いくつかのダンボール類は、隣室の次男の部屋(これも今や外で世帯を持っているのだが従来の荷物を置きっぱなしで、今でも「Jの部屋」と呼ばれている)に仮住まいさせてあるが。
 その点まだ完全とは言いがたいが、わが書斎の大模様替えもいったん終了宣言とする。

 一つ腑に落ちないのは、既に外で世帯を持っている次男や長女が、依然として「自分の部屋」として物を置き、使用を続けていることだ。その一つでも空けばそこを物置にして、もっとゆとりのある整理が出来るのだが。
 まあしかし、ゆとりなく窮屈であったがためにかなりの物を処分できたし、むしろ幸いと思うべきか? それに家族断絶の時代と言われる中で、部屋の使用を通して絆を保っていると考えれば、喜ばしいことかもしれない。
 それに明日からセルジュ一家が加わる。わずか3日間といえども、そこからどんな新しい絆が芽生えてくるのか・・・、楽しみである。
                            


第17回純米酒フェスティバル

2008-04-14 21:47:15 | 

 

 2000年春より、年2回(4月と10月)開催を続けいている純米酒フェスティバルも9年目に入り、第17回を昨日開催した。参加者は1300人(昼の部と午後の部と各650人)と過去最高となった。椿山荘のオリオンの部屋もさすがに窮屈感が出てきて、もうこれ以上の参加者増加は無理だと思う。本当は1200人(各600人)に抑えたいが、希望者が多くじりじりと増えてきてついに1300人になったのだが。
 しかし内容は良かったと思う。終了後の蔵元も含めた反省会では、おおよそ以下のような意見に集約された。


・年々各蔵の酒が良くなり、参加者からは評価の高い声が
  多く聞かれた。
・当初はマナーの悪い者もいたが、総じて良くなってきて問題
  となる出来事も少なくなった。
・各蔵の製造量に占める純米酒比率も年々高まり、100%蔵
  も多くなった。
・その反映か、街の飲み屋も純米酒を置く店が多くなった。
  銘柄表示も多くなった。かつては、「お酒」という表示で
  一くくりにされていた時期に比べれば隔世の感あり。
・一貫してシェアーを下げ続けている日本酒の中で純米酒だけ
  伸びてる。
 日本酒における純米酒シェアーも15%に近づいた。
 純米酒の未来は明るい。流れは我らの主張に近づいている!
・もっと自信を持ってわれわれの主張を展開しよう。
 例えば「日本酒を醸造酒と規定するなら本醸造酒は日本酒に
  あらず」など。飲む立場からも、日本食に最も合う純米酒を
  飲食店に要求していこう。


などなどであった。最後は純米酒の示威運動のような威勢のいい反省会となった。
                               


美しくて、たくましいプラハ

2008-04-12 22:29:11 | 

 

 今日のNHK番組「探検ロマン世界遺産」はプラハであった。あの街を訪ねたのは2000年の4月であったので、ちょうど8年前だ。しかし、美しい街の様相が昨日のことのように目に浮かぶ。

 案内役の山根基世アナウンサーが、「この美しさは単に偶然生まれたものではなく、チェコ国民が強い意志で守り通し、育て上げたものだ」と言っていたが、チェコの歴史に触れる度にその思いを新たにする。
 私は旅行記で、「ザトペックとチャスラフスカ」と題して、侵略と抑圧の歴史を生き抜いた「しなやかで強靭」なチェコ国民の歴史に触れた。(『旅のプラズマ』に収録) 単なる強がりだけでないしなやかな柔軟性はどこから生まれてきたのだろうか? しかも自分の意思を決して捨てない強さを持っている。
 8年前の訪問の際、人形劇「ドン・ジョバンニ」を見た。正に国技というにふさわしい実に楽しい劇であった。その劇場(確かに見覚えのある劇場!)の様子が今日の番組にも出た。そして、その劇場で数十年人形を操り続けている芸人さんが、次のように話した。


 「どんな抑圧の中でも真実を演じ続けた。権力に媚を売ろう
   などとは一度も思ったことはない」

 
 だからこそ「プラハの春」が抑圧されても、それは十数年を経て「ビロード革命」に結実したのであろう。
                             


苦闘は続く、部屋の整理

2008-04-11 20:48:35 | 時局雑感

 

 わが書斎の整理はまだ続いている。新しい大型本箱を衝動買いしたのが先週の金曜日であったので、今日で一週間だ。しかし未だ道半ばの感がある。ただ、この間にゴミ袋10個は捨てたし、二つの収納庫(小型戸棚?)を処分した。
 だから、頑張ってはいるのだ。
 先日の私のブログ(4月8日付)を見て、いつも適切なコメントをくれる工藤さんから「ドキュメントスキャナー」のご提案を頂いた。工藤さんも1000冊に及ぶ本と書類を捨てきれず、長年悩み苦しんでおられるらしい。最近そのスキャナーを購入して、当面使用しないものはスキャナーに収めて身辺整理が進んでいると言う。
 思えば数十年前の銀行時代、手形や小切手の膨大な量の保管がマイクロフィルムに収められて、一挙に収納スペースが縮小、科学の進歩に驚嘆したことを思い出す。
 かくいう自分も、今回整理に苦しんだアルバムは数年以上前のもので、その後の写真はデジカメからパソコン管理で、一切場所をとらないことに気づいてはいる。ドキュメントスキャナーというものを私は正確に知らないが、いわゆるスキャナーなら私も持っている。
 ここは一番、工藤さんの提案に従うべきであろう。

 ここまで考えホッとしたところで、私を新たな恐怖が襲った。
 「俺は資料や書籍をスキャナーして保存したあと、なお元の現物を捨てきれないのではないか・・・?」
という恐怖が。
 私はIT技術の進歩を喜びその有益性を信じているが、究極のアナログ人間である。デジタル時計にはどうしても馴染めず、長針と秒針の動きの中にしか時の移ろいを感じ取れない。出来れば柱時計の「ボーン、ボーン、・・・」という音が欲しいくらいだ。
 書籍にしても資料にしても、そこに残る染みやしわ、手ざわりや温もりが欲しくなる。工藤さんは40歳代と聞いた。私との年齢差30歳の間に、アナログとデジタルを分ける境目があるのかもしれない。
 もちろん私は、工藤さんの提案を相当に受け入れるつもりでいるが。
                            


権力と戦い続けたモーツアルト

2008-04-10 13:30:51 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 昨夜のNHK番組『その時歴史が動いた』は、「音楽の市民革命」と題してモーツアルトの生涯がとりあげられた。モーツアルトは、あの美しい調べを武器に貴族階級と戦い続け、音楽、特にオペラを貴族階級のものから一般市民のものにするため、35年の生涯を捧げた。
 番組によれば・・・・・・、

 子供のころのモーツアルトは神童、天才と騒がれ、貴族たちの庇護の下に演奏活動を続けその才能を伸ばしていく。しかし、自己の音楽を確立していくにつれ、貴族たちの望む音楽との間に隔たりを感じるようになる。ついに、一定の枠内の演奏しか認めない貴族と決別しウィーンで新たな活動を始めるが、貴族たちの結束は固く、モーツアルトへの注文を一切絶って生活自体を脅かすまでに至る。
 しかし、時代は大きく変わりつつあり、やがてフランス革命を迎える。モーツアルトはその動きを敏感に捉え、自己の作曲活動の軸足を民衆の中に移していく。あの貴族生活を痛烈に風刺した『フィガロの結婚』の初演は、フランス革命の2年後であった。しかし『フィガロ・・・』はまだ、貴族の言葉イタリア語で書かれたが、以降モーツアルトは「真に一般市民のためのオペラ」として、市民の話すドイツの語のオペラ『魔笛』の制作に心血を注ぐ。
 初めてオペラを手にした民衆が熱狂した『魔笛』の初演には、病を押して自ら指揮をとるが、その2ヵ月後に35年の短い生涯を閉じる。

 モーツアルトは死したが、まさに「その時歴史が動いた」のである。政治の世界のフランス革命が、自由、平等、博愛を旗印に新しい世界を築いたことに平行して、音楽の世界でも、貴族と戦ったモーツアルトの力で、自由と平等を歌い上げた「音楽の市民革命」が成し遂げられたのだ。
 番組の最後は、モーツアルトの次の言葉で結ばれた。

 
       僕は貴族ではないが
   貴族に負けない力を持っている
   人間を高めるのは貴族ではなく
   心だ
                                     


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