旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

義姉の逝去と『旅のプラズマ』増刷のお知らせ

2007-03-31 16:49:37 | 時局雑感

 

  今日・・・3月末日、先月亡くなった義姉の四十九日の法要を行った。義姉(妻の長姉)は、昭和5年生まれ、青春時代は、いわゆる「銃後の守り」(こんな言葉、若い人は知らないと思うが)を生き、その後も実につつましく清く正しく生きた人であった。
  わが家は、義姉の家の庭続きであるので、私の子供たち(男二人、女一人)はまったくの「おばチャンっ子」で、半分は義姉に育てててもらったようなものであった。 
  かく言う私も義姉の世話になった。私の本を多くの人に宣伝し、売ってくれた。酒好きの私に、旅先から必ず「その地の酒」を買ってきてくれた。酒を飲まない義姉が、周囲の人に、酒飲み以上の気配りをしていたことが、今日の法要でも話し合われた。

 

 

  法要を終えてわが家に帰ると、たちまち電話のベルが鳴った。    
 その電話は、『旅のプラズマ』増刷(ほんの2刷であるが)の知らせであった。 
  「新風舎のS(編集者)です。おめでとうございます。『旅のプラズマ』増刷することになりました。品切れになった上、本屋などからたくさん注文が来ていますので、来週早々から増刷に入ります。これまでに聞いた校正箇所は私の責任で校正しますが、それ以上の修正箇所があれば月曜日の午前中にご連絡ください。」
という電話を、私は夢心地で聞いた。 
  義姉は、つつましく生きて七十七歳で逝った。まだ生きて欲しかったが癌がそれを阻んだ。しかし、人は去って必ず相応のものを残してくれる。義姉は生前から多くの支援を与えてくれたが、今日の中陰の日(注)をもって、私に大きな喜びを与えてくれたのであろう。
   (注)中陰:生前までの報いが定まって次の生にうまれ
    かわる日(広辞苑)

 
三月は季節の移ろう時節、環境問題や教育問題など時の話題に流された。義姉の贈り物のような増刷を機に、そろそろ『旅のプラズマ』に立ち返ろう。
                              


日本の教育の病巣

2007-03-30 11:50:30 | 時局雑感

 

 時ならぬ息子の高校卒業式に参加して、日本の教育の現状ーーその荒廃と病巣について考えることになった。
 八洲学園高等学校の生徒の言動を垣間見て、現状からの逃避や、学ぶことを続ける苦悩、脱落などと戦いながら、何とか「学び続けよう」と努力している姿に心を打たれた。全てがうまくいっているなどとは決して思わないが・・・。
 中学ぐらいまでのいわゆる義務教育は、読み書きソロバンをはじめ社会に出て生きる生き方を最低限教え込むことが必要であるから、それを全国民に教えていくのであろう。それ以上のいわゆる高等教育は、そもそも「学びたい」という意欲を前提とするのであろう。しかも「なになにを学びたい」という目的を持った勉強ということになるのであろう。
 ところが、大学に行く目的は「何を学びたい」ということではなく、学歴社会を生きるための「箔(はく)--学歴」を手にするためのものとなった。よい大学に行くために、小学校はおろか幼稚園ごろから「お受験」が始まる。しかもそれは本人の意思ではなく、殆どが親の欲望からである。そのような子供たちが、「親のために」一つの路線を歩かされる。多面的な人格形成や知識の習得が必要なはずの教育は、「よい大学に行く」という極めて一面的な教育となっていく(これまた全てそうなるとは言わないが)。
 大学まで行けば、出れば箔がつくので、特に目的を持って「何かを学ぶ」ことはしない。このような人たちが社会の大半を占めて来たところに現在社会の荒廃の一因があるのではないか? その「一面的なお受験教育」に教育の病巣を見る思いがする。
 息子が、地域社会学を学びたい、という思いから高校教育からやり直し、その思いを叶えるために何度もチャレンジして合格した目白大学地域社会学部で、どのような勉強をしていくのだろうか、極めて楽しみにしている。大学とは、そもそもそのような場所だと思うから。
                            


教育の原点を教えてくれた卒業式

2007-03-26 21:58:16 | 時局雑感

 

 39歳の息子の高校卒業式に参加することなど、初めは全く考えていなかった。会場が九段会館だというので、近くの桜を眺めようとワイフと出かけたのであった。ところが、桜は全く咲いておらず見るものはなかったが、ついでに行ったような「八洲学園高等学校卒業証書授与式」は素晴らしかった。
 まず、500名を超える卒業生(不参加者もかなり居たが)に、壇上で、校長先生が一人一人名前を呼んで卒業証書を手渡した。これだけでも、他の学校にはあまりないことではないか?
 ただ、その受け取る一人一人の様を見て、私は最初は不安を感じた。茶髪にルーズソックスの女の子、よたよたズボンにフード付きシャツ、運動帽を被ったままの男の子、もちろんピシッとスーツを着た子や和服や袴の子も居たが、これだけさまざまな子供たちに、何か「共通の教科」を教えるることは不可能ではないのかと思ったからだ。
 しかしその答えは、すぐに出てきた。続いて行われた表彰式では、金髪を頭上でチョンマゲにして見るからにたより気なく卒業証書を受け取った女の子などが、読書感想文コンテスト優秀賞などを受けていた。「見かけだけで人を見てはいけない」と、私は自分を恥じた。
 もっと驚いたのは卒業生の答辞であった。五会場を代表して五人が述べたが、いずれも高校中退や退学をを繰り返し、3回、4回のチャレンジでようやく今日を迎えた生徒たちであった。彼らはそれを悪びれることなく赤裸々に語り、教師や両親に感謝の言葉を捧げた。その中には前述したジーパン・フード付きシャツの子もいた。彼は数回のトライで今日にたどり着いたことを述べ、それを支えてくれたのは母であったと告白、「・・・日ごろは恥ずかしくて言えなかったが、お母さん有難う」と涙ながらに答辞を締めくくった。
 そして、会場を埋めた全生徒は、物音一つ立てず全ての答辞を聞いていた。きっと、形や経過こそ違え、彼らには「挫折や逃避をようやく乗り越えて到達した共通点」があるのであろう。
 式は、その背景にあるものをもう一つ見せてくれた。それは最後に4~50人の先生が壇上に並び、全員が卒業生に向かってお祝いの言葉を述べた中にあった。その言葉は全て教育心にあふれていた。これでもか、これでもか、という感さえした。女の先生は皆んな泣きながらしゃべった。そこには、共に苦難を乗り越えた「生徒との共通点」があるのだろう。
 私は、未だこのような学校が残っていた!、ということに驚きと共に喜びを感じた。
 息子は、新調したのであろう黒のスーツを着込み、純白のワイシャツにえんじのネクタイを締めて卒業証書を受け取った。恐らく最年長に属するであろう息子が、若い子たちの中にあって何一つ悪びれることなく壇上を進むのを見て、私はうれしく思った。
                            


40歳の大学生

2007-03-25 15:49:35 | 時局雑感

 

 秋田の雪不足を見て環境問題に踏み込み、ついに養老孟司先生の環境論まで学ぶことになった。この養老先生の本『一番大事なこと』は、息子(次男)が私に渡してくれたことも書いた。今日はその息子について書き記しておく。

 息子は現在三十九歳、六月には四十歳になる。この息子が、三年前に八洲学園高等学校に入学、昨日無事卒業した。そしてこの四月に目白大学地域社会学部に入学することになっている。わが家には、四十歳の大学生が誕生するわけである。
 実はこの息子は、二十数年前杉並区の豊多摩高校に通っていた。ところが二年生の夏、突然「高校に行くのは止めた。ギター学校に行く」と言い出した。ギンギンにツッパッていた彼は私に向かって、
「親父、あの大学というヤツには絶対に行かないからな!」
と言い放った。私はそのとき、「・・・お前はそう言うが、大学ほど素晴らしいものはないよ。勉強する気になれば、どんな先生でも選べるし、本も研究施設もたくさんある。友達も自由に選べる。時間もたっぷりあり自ら学ぶ気になればこんな良いところはないよ。」と告げたが、肩をいからせた息子は聞く耳を持たなかった。
 私は、「無理やりに行く学校」というものに意義を認めていなかったこともあって、「好きにすればいいさ・・・」と息子の希望に沿った。息子は豊多摩高校を中退し、予てより行きたかったらしい「新堀ギター学院」に入った。当時、新堀ギター学院も卒業すれば高校卒資格が与えられることになっていたので、ワイフもそれにかけていた。
 ところが不幸にして新堀学園はバブルに手を出だして倒産、息子はついに高卒資格を手にすることもできなかった。
 その後家を出て行った息子は、アルバイトをしながらロックバンドを組み演奏活動を続ける生活を送っていたらしい。どこに住んでいるかも分からず、吉祥寺などで演奏しているらしい、という噂だけを流れ聞いていた。
  ところが三年前、突如として現れ、「親父、高校に行くので保証人になってくれ」ときた。聞けば、大学にいって学びたいことがある、そのためには高卒資格が必要、ということに気がついたようだ。アルバイトとロックバンドを続けながらの「スクーリングを組み合わせた通信教育・単位制高校」は、相当につらかったようだが、卒業の見込みのついた昨年、「どうしても行きたかった目白大学地域社会学部」の入試に挑み、三回目のチャレンジを経て、暮に合格した。

 こうして迎えた高校卒業式が、昨日九段会館で行われた。そしてそれは、「未だこのような学校が存在していたのか・・・!」という感動を私に与えてくれた。 (長くなったので、その模様は明日にゆずる)
                            


養老教授の環境論

2007-03-23 19:05:36 | 時局雑感

 

 前回の記事にあるような経緯で、掲題の『環境論』を読むことになった。 養老先生の本は難しい。われわれ現代人の「生きる座標軸、つまり観点」がずれているため、先生の正論を理解できないのであろう。しかし面白い話がたくさん出てくる。
  四国のある町で、ハエとカを駆除するためにDDTを徹底的に播いたところ、翌年ハエとカは戻ってきたが、トンボもチョウも含めて他の虫はほとんどいなくなったという。「ああすれば、こうなる」式の単純さでは、環境問題はダメだと先生は言っている。
 コンビニの弁当の四割が売れ残り処分されるということは聞いたことがあるが、それは肥料になり野菜等と化して再び弁当になるのだそうな。昔も食べた結果の糞尿は肥料となり穀物や野菜を育て食料と化していた。違うところは、昔は100%人の体を通って循環していたが、今は、食料でありながら40%は人間を通過せずに無駄な循環をする、と先生は書いている。
 重要なことは、昔の「里山の手入れ」のようなことだと言う。この「手入れ」は、努力、辛抱、根性を必要としたが、この三つが現代人に最もかけている点で、これが環境問題の根源であると言っているようだ。次の言葉も心に残った。

 「環境問題とは、人間が自然をコントロールできると考えた結果、起こってきたと見ることもできる。それと裏腹に、自然のシステムはとても大きいから、汚染物質を垂れ流しても自然に浄化してくれるだろうという過大な期待もあった。人間は自然を相手にするとき、理解できる部分はコンとロールし、理解を超えた部分には目をつぶってきた。一言でいうなら、相手に対する謙虚な姿勢がなかったのである。」(同書102頁)

 どうも養老先生の本について書くと、引用ばかりになってしまう。ずれた現代人の典型としては、先生の言うことを書き写すしかないのかもしれない。(先生ゴメンナサイ) なお、環境問題解決のための、先生の最後の提言は、都会(人工)の人間は年に3ヶ月は田舎(自然)に行け、と言うことだ。しかも、平等に全員が行くように「参勤交代」制にせよ、と提案している。
                            


再び環境問題について

2007-03-21 12:18:01 | 時局雑感

 

 昨夜、会社の会議を終えて遅い帰宅をすると、食卓の上に養老孟司著『一番大事なこと--養老教授の環境論』という本が置いてあった。ワイフに聞くと、息子(次男)が「親父はこの本読んでるかなあ?」と言いながら置いていったと言う。
 息子は、先日の私のブログ記事「雪の少ない雪国に来て」を読んで、私が環境問題に関心を持っていると思ったのであろう。そういえば、その記事に対しては娘からもコメントが届いた。若者たちは年寄り以上に、将来の環境に不安を感じているのかもしれない。
 本のまえがきをめくると、養老先生は「虫が居なくなった」ことに環境の変化を感じ取っているようだ。先生は、自分のことを解剖学者や脳研究者と呼ばれるが、「本業は?」と問われれば「ひょっとすると虫取りではないか」と書いている。先生は幼稚園の頃、横丁でしゃがみこみイヌの糞をいつまでも見ていたことがあったそうだ。お母さんが来て「何を見ているの?」と聞く。「「イヌの糞を見てる」と答えると「なぜイヌの糞を見てるの?」と問うので、「虫が来てるから」と答えたという。
 爾来、養老先生は虫を取り続けてきたらしい。
 先生は、最近嬉しかったこととして、鎌倉の自室にマイマイカブリの幼虫が現れたことを書いている。早速捕まえて庭に放してやったそうだが、先生は「あれは鎌倉で最後のマイマイカブリであったかもしれない。一族全滅、私が最後の一頭です、と私に挨拶に来たのかもしれない」と書いている。

 先生は、居るべきところに虫が居なくなったことを嘆き環境問題の重要さを書こうとしているようだ。そしてまえがきを「その意味では、これはマイカブリが書いた本なのである」と結んでいる。
 私が秋田に行って「あるべき雪のないこと」を見て環境問題を思ったことを知った息子が、視点に共通するものを感じて、この本を私に与えてくれたのであろう。早速本文を読もう。
                            


非武装中立について

2007-03-17 15:47:52 | 政治経済

 

 某氏から「コスタリカって知ってる?」のコメントをいただきました。詳細なコメント有難うございました。
 要旨は、①非武装と言っても名目上で、コスタリカも日本と同じく相当な軍事費を使っている、②非武装中立なんて実態的にありえない、と言うものです。

 コスタリカは1948年の内戦を制したフィゲーレスが第二共和制を打ちたて、その主要な柱が「選挙管理裁判所の設立」と「武装放棄」でした。しかしその後も隣国ニカラグアとは国境紛争が続き、ついに1983年、時の大統領モンヘは「憲法及び国際条約を基礎とする非武装と戦争不介入」を国民の前に再確認し、対外的にコスタリカの立場を「永世的、積極的、非武装中立に関する大統領宣言」として公表、それを引き継いだアリアス大統領が粘り強い和平政策を展開してノーベル平和賞につながった・・・という歴史があります。(寿里順平『中米の奇跡コスタリカ』ほか)
 しかし「非武装中立」などいうものは、それが高邁で理想主義的であればあるほど、周囲からは格好なチョッカイの対象とされるだろうし、隣国ニカラグアとの紛争は国際的にも有名で、そのために相当な資力も人力も使わざるを得なかったことでしょう。私はニカラグアの軍事費がいくらで、コスタリカの投入した「軍事費」がいくらかは知りませんが、ご指摘の通りの「悲しい現実」は事実かもしれません。
 人類は、その長い歴史の中で未だ武器を捨てることができません。近代国民国家も、自衛のためとして武器を蓄えその力で他国を攻め、人を殺し続けています(アメリカのイラク戦争など)。その結果、人類は地球を何十回も壊滅させるほどの武力を蓄えてきています。一回壊滅させればそれ以上なすことはないにもかかわらず、まだまだ持とうとしています。
 「武力の放棄」・・・・・・これは人類永遠のテーマであり悲願でしょう。私は、現状さまざまな矛盾を抱えながらも、戦争の道か平和の方向(その究極に武器放棄があるのでしょうが)か、そのどちらに力を尽くそうとしているかで、さまざまな事象を評価したいと思っています。 非武装の世界が到来すれば中立は当然で、中立という概念もなくなる、という点で「非武装中立」は矛盾概念かもしれませんが。
                            


秋田の酒と行きつけの飲み屋

2007-03-11 17:04:23 | 

 

  秋田に来たついでに、秋田の酒について触れておこう。
 酒どころといわれる秋田は、昔からよい酒をたくさん造ってきた。爛漫、両関、高清水、新政など昔から全国的に有名だ。そして最近は、中小の蔵が輝くような名酒を造っている。
 私の好きな酒をいくつか挙げると・・・、日の丸醸造の「まんさくの花」、浅舞酒造の「天の戸」、齋弥酒造店の「由利正宗」など、いずれ劣らぬ旨さと個性を持っている。個性といえば、秋田に行って必ずといってよいほど飲むのが「飛良泉」だ。この山廃純米の燗酒は逸品だ。
 八郎潟に行くたびに必ず寄る飲み屋に「真つり」という店がある。店主は包丁を振るい、寿司をにぎるが、店の名前が示すようにつり(釣り)の名人だ。自ら釣ってきた魚がカウンターに並ぶ。この店に行くと、黙って店主が出してくれる酒が「天の戸『美稲』」か「飛良泉『山廃純米』」だ。四合ビンのまま出てきたその酒を、私はその日の調子や肴に合わせて冷で飲んだり燗にして飲んだりする。
 黙って出てくるのは酒だけではない。私はこの店に行って肴や料理を指示したことはない。前述の酒を飲んでいると、注文はしないが次々とタイミングよく刺身や酢の物や鍋が出てくる。ちょうど良い量の料理が少しずつ出てくるのである。私はその出されたものに不満を持ったことはない。
 最後になって「大将・・・そろそろ引き上げるのでにぎってくれ」と寿司を頼むが、これもマグロとかイカとか指示したことはない。店主がこれぞと思う魚の寿司が四つ五つ出てくる。私はそれを食べて、これまた不満に思ったことは一度もない。私の好みと、その時々の欲する量など、完全に店主に握られている。

 行きつけの飲み屋というのはこのようなものであろう。
 秋田は酒どころであり、かつその酒にマッチした肴の宝庫である。
                            


雪の少ない雪国に来て(その2)

2007-03-09 17:44:04 | 時局雑感

 

 雪の少ない雪国秋田に来て、図らずも地球環境の変化について考えた。
 人類は自らの手で地球環境を破壊し続け、既に取り返しのつかないところに踏み込んでいるのではないか?
 今から気がついて生活の修正をなすことが出来るのだろうか?

 ここに、アル・ゴアの『不都合な真実』という本がある。同名映画の書籍版である。氏はこの中で「45年後には世界人口は90億人に達し、北極の氷はこの40年間に40%縮小、今後50~70年で北極は消滅し、水位は6メートル上昇する」などの警告を発している。そして、次のように世界の指導者たちの意識を喚起している。
 「私たちが直面している気候の危機は、ときにはゆっくり起こっているように思えるかもしれない。しかし、実際にはものすごい速さで起こっている。これほど明らかな警告が私たちの指導者たちの耳に届いてないように見受けられるのは、なぜだろうか? それを認めた瞬間に、道義的に行動を起こさねばならなくなることを知っているがために、警告を無視するほうが都合がよいから、というだけなのだろうか? そうなのかもしれない。しかし、だからといって、不都合な真実が消え去るわけではない。放っておけば、ますます重大になるのである」(同書表紙カバーの折り返し)

 アル・ゴア氏は2000年の大統領選挙でブッシュに僅差で敗れた。そのブッシュは戦争政策と環境破壊政策をつづけている。
 アメリカ国民は大きな選択の誤りを犯したのではないか?
                            


雪の少ない雪国に来て

2007-03-08 13:31:45 | 時局雑感

 

 雪国秋田の八郎潟に来ている。
 今年初めての氷点下を体験した。とはいえマイナス1度に過ぎなかったが。昨年は大雪に見舞われ除雪した雪の置き場に苦労する話がテレビに流れていた。今年は申し訳程度に降っているが、車道などは乾いており雪国という面影ではない。1月に来た時にはもっと少なく、雪を探すのに手間取るほどであった。今回は寒波の襲来というニュースを聞きながら東京を発ったのであるが、所詮は3月の雪ーーつまり春の雪でほとんど寒さを感じない。
 何年か前、雪の千秋公園(秋田市)を歩き胃の腑が収縮するような寒さを感じ、そのあとひどい下痢に見舞われたことがあった。もちろん下痢の原因は前日などに食べた食べ物にもあったようで、千秋公園の寒さだけが原因ではなかったようだが。爾来、雪国の冬には身構えてきたのだが、今日の雪には「春の暖かさ」すら感じる。もっとも既に3月中旬に差しかかろうとする時期で、秋田の人たちも冬は去ったとしているようだ。
 新聞紙上では桜前線の報道が始まり、各地の開花は例年に比し一週間から10日は早まり、静岡3月13日、東京18日などと報じている。私は九州大分県の臼杵という小さな城下町で育ったが、桜の最盛期は4月であったと記憶している。町の中央に大友宗麟の居城でもあった丹生島城の跡があった。臼杵公園とよばれるその城址で毎年桜祭りが行われたが、、それは4月10日前後であった。学校の入学式や始業式の頃がいつも満開であったと記憶する。
 今年は3月中に桜は終わるのではないか?
 わずか60~70年の間に、気がつけばかなり地球環境は変わってきたのだとつくづく思う。
                            


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