旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

蒸留酒ってなんだ?

2007-06-30 14:18:59 | 

 

 昨日のブログで焼酎に触れながら、「ブドウの国はそれを醸造してワインを造り、それを蒸留してブランデーを造る・・・・・・米の国はそれを醸造して清酒を造り、蒸留して焼酎(米焼酎)を造った・・・」と書いた。しかし、ではワインとブランデー、清酒と米焼酎は同質のものかと言えば決してそうではない。材料の点では兄弟と言えるが、酒としては全く別のものである。そこに蒸留酒の特質がある。
 醸造酒はその材料の成分がほとんどそのまま酒に含まれていく。しかし、蒸留酒では、蒸発しない成分は取り残されて酒にはならない。そもそも蒸留とは、対象物を熱して蒸発させ、その湯気を冷やして水滴として集める作業だ。だから、醗酵したもろみを蒸留すると、最も蒸発しやすいアルコールはどんどん湯気になっていくが、糖分やアミノ酸など蒸発しない成分は取り残されて除去されていく。蒸留を続けると、水よりアルコールのほうが蒸発しやすいので、最後は純粋アルコールに近いものだけが残る。
 しかし、純粋アルコールは無色透明無味無臭だ。それはアルコールではあるが酒ではない。酒にとってアルコール(正確にはエチルアルコール)は重要な要素であるが、それだけでは酒にならならない。酒の酒たるゆえんは、アルコール以外の成分--それぞれの素材が持つ特有の味や風味を生み出す成分にあると言える。
 何を取り出し、何を除去していくか・・・これが蒸留酒つくりの苦労の中身で、ここに醸造酒とは全く異なる食文化としての酒を生み出す世界があるのだ。
                             


夏の酒

2007-06-29 17:39:52 | 

 

 六月も終ろうとしている。
 
先月から今月にかけてアメリカについて書いてきた。初夏を」迎えて「明るい印象」が残るアメリカの旅を思い出したからだ。それにつれて、酒もバーボン・ウィスキーからラム酒などに触れてきた。いずれも蒸留酒である。
 
夏はどちらかと言えば蒸留酒が合うのかもしれない。大分前のことになるが、勤務していた会社の社内報(月刊誌)に、一年にわたり「お酒の話」を書いた。毎月、その月にマッチした酒を書いていったのであるが、いま読み返してみると七月は“焼酎”について書いている。日本の酒を代表する蒸留酒だ。
 
ぶどうの国ではそれを醸造してワインを造り、蒸留してブランデーを造る。麦の国はそれを醸造してビールを造り、蒸留してウィスキーを造った。“米の国”わが日本は、米を醸造して清酒を造り、それを蒸留すれば米焼酎、もろみの段階で芋を仕込んで蒸留すれば芋焼酎、麦を仕込めば麦焼酎…。
 
人類は多彩な味を楽しんできたのである。

 日本の67月は、いわゆる梅雨で湿度は高く空は重い。からりとした飲み物としては蒸留酒の方が合うのであろう。特に近時は本格焼酎(乙類焼酎)を中心に質が高まり、芋や麦だけでなく黒糖焼酎など多様化も進んで焼酎ブームが続いている。
 
外国の蒸留酒(ウィスキーやブランデー、ウオッカ、ラムなど)はアルコール度40度前後と高いが、25度を中心にした焼酎はグッと飲みやすい。蒸留酒でありながら食中酒として飲まれている所以であろう。
 
しばらくは、この愛すべき焼酎について書いていく。

                           


久しぶりの『びしょ鍋』

2007-06-25 21:48:34 | 

 

 全く久しぶりに“びしょ鍋”(当て字で美酒鍋とも書く)を食べた。渋谷の居酒屋酒菜亭さんから、「美酒鍋をかこみ、広島を食べ尽くし飲み尽くしましょう」という案内を受けたので、何はさておきと出かけたのであった。
 
私が初めてびしょ鍋を食べたのは、もう30年近く前、当時広島に赴任していた頃であった。仕事の関係で、広島の酒どころ西条にある賀茂鶴酒造さんを訪ねていた頃、毎年一回“びしょ鍋の会”を催して頂いていたのであった。
 実
は、私の酒の勉強はこの賀茂鶴さんとの出会いによるのだが、それはさておき…
 
広島を発祥の地とすると聞くこのびしょ鍋なる料理は、男ばかりの蔵人たちを慰める酒蔵料理で、どこの蔵でも月に何回か作り、体力を養うと同時に蔵人たちの和をはかり、厳しい酒造りにそなえたものと言われている。
 
材料は、鶏肉(特にすなぎも、もつが主流)、こんにゃく、白菜、ねぎ(白ねぎ、たまねぎ)、ぴーまん、にんじん…などなど素朴なものであり、調味料は塩、コショウと酒である。場合によってはニンニクを使うが、これは新酒に匂いが移らないように、気を配りながらの使用である。
 
4~5人で囲んだ強火のコンロに鍋をかけ、これらの素材を塩、コショウで味つけしながら、煮詰まれば酒をどんどん入れる。水は一切使わない。甘味は酒の甘味だけであり、塩、コショウとともにさっぱりした味つけなので、いくらでも食べられ、いくらでも飲める。
 
酒飲みにはたまらない料理である。
 
名前の“びしょ”の由来は、蔵人たちが仕事で「汗びしょになる」…またこの鍋を囲んで「汗びしょになる」からきたという。しかもその言葉の発祥はこれまた酒造りに関係し、仕込みのときに歌う「仕込み二番櫂うた」にあると聞いた。

 ヤレ 酒やヨー びしょすりゃ ドッコイサーノせ 
 
もろみが かかる ヤレ
 
帰りゃヨー 妻子がヨー  チョイと 泣きかかる


 なかなか粋な唄である。
 30年ぶりに食べたびしょ鍋は、同じ広島は西条でも賀茂泉さんのつくりであったが、基本的には同じ内容で、賀茂泉の純米酒や純米酒大吟醸とぴったり合って、懐かしい広島の味を存分に噛みしめることが出来た。
                    


日本人の食生活

2007-06-22 18:39:41 | 

 

 最近日本酒の輸出がアメリカを中心に伸びている。ヘルシーな日本食と共に、相性のよい食中酒として、当然のこととして日本酒が評価されているのだ。
 ただし、輸出されている日本酒は、圧倒的に純米酒、純米吟醸酒、純米大吟醸酒など純米酒系だと聞いている。つまり本来の日本酒が評価されているのだ。過去三回のブログ「外国で飲む日本酒」の中で、私が「日本人はアルコールや糖類、調味料などを混ぜたイカサマ日本酒を飲み、外国人は本物の日本酒”純米酒”を飲んでいるとは何事ぞ!」と怒り続けたのはそのためだ。
 何度も書いたように、ドイツには500年も維持されている「ビール純粋令」(麦芽とホップ以外のものが入ったものをビールと認めない)があり、イギリスのスコッチウィスキーも原料はおろか水もスコットランドの水を使用することが義務付けられている。ワインにしても何年物のブドウが使用されているか、またそれはどこで獲れたかという原産地証明が厳しく追及される。
 わが日本では、戦前までは、清酒は「米と米麹と水」で醸される醸造酒となっていたが、戦後の米不足の中でいろいろ混ぜて増量したまま、米あまりの時代を含む半世紀を過ぎても改められていない。
 日本酒の種類にしても、銘柄はもちろん、純米大吟醸からアル添三増酒(これは今年の10月からやっと清酒と認められなくなったが)まで、また生酒から長期熟成酒まで何千銘柄、何十種類とありながら、多くの飲み屋や酒屋で「お酒」と一括されている。(これも最近はかなり厳格に銘柄や種類が表示されるようになったが)

 日本人は、これらにあいまいな民族なのだろうか?
 そういえば、老舗の雪印や不二家などが想像を絶する製品を国民に供給していたし、ここ数日はミ-トホープ社の”牛ミンチ”が大問題になっている。牛ミンチと言いながら豚や羊や鶏肉まで入っているというからひどいものだ。
 日本人のあいまいさが、このような風土を育むのであろうか?
 日本酒の世界はその典型であると言えよう。
                             


外国で飲む日本酒(その3)

2007-06-20 21:28:05 | 

 

 日本人は「混ぜもの、イカサマ日本酒」を飲み、外国人は「本物の日本酒--純米酒」を飲んでいる!
 これは許せない! と思い、帰国後、最も尊敬する日本酒の大家穂積忠彦先生に問いただした。
 「先生、初めてアメリカに行ってきたが、驚いたのはアメリカ人は日本清酒の純米酒しか飲んでいない。日本で純米酒を探すのは大変だ。日本の国酒を、日本人はニセモノを飲まされ、外国人は本物を飲んでいるとは何事ですか!」
 ところが、かの穂積先生は平然として言ってのけた。
 「首藤さん。アメリカ人が純米酒しか飲んでいないのは当然です。アメリカ・・・というより外国では『日本酒とは純米酒(米だけで醸造された酒)』とされているからです。アルコールや水飴、味の素などの入っている酒は、日本酒として認められていません。首藤さんの怒りは、的を外れています。」
 これには、またまた驚いた。
 「それはないでしょう、先生!・・・」
 と声を張り上げたが、よく考えてみれば納得だ。
 ブドウの醸造酒はワインだ。大麦の醸造酒はビールである。わが日本清酒は「米の醸造酒」と言うことになっている。醸造酒として見るならば、「日本清酒は純米酒」でなければならない。その他の蒸留酒(醸造用アルコールは当然ながら蒸留酒)などが入っておれば、それは別物--つまり雑酒の類となるのであろう。

 こうして私は、酒の勉強を深めていったのである。
 なお、90年代のアメリカでは、日本酒としてたくさんの本醸造や大吟醸が並ぶようになった。ニューヨークの居酒屋(日本酒バ-?)『蔵』などはその典型である。それらの酒が、清酒として輸入されたのか、雑酒と処理されたのかは調べる必要がある。
 いずれにせよ、あいまいな国民はあいまいなものしか飲んでいないのではないか・・・これがその時の強烈な印象であった。
                             


外国で飲む日本酒(その2)

2007-06-17 10:16:09 | 

 

 最初にアメリカに行った頃(1988~89年頃)の日本酒はすべて純米酒であった、と書いた。その後、90年代の半ば頃になると、大吟醸(これは少量といえどもアルコールが添加されている)や本醸造が並ぶようになっていたが・・・。
 純米酒を示すラベルには、英語で「Pure Sake」と書かれてあった。正に「純粋な日本酒」と言う意味だ。わたしはこのラベルが欲しくて、飲む度に剥がした。
 ところがこれは、何故か同行者のひんしゅくを買った。「みっともない」と言うのだ。加えて「剥がして持って帰るのならチップを払え」と言う。冗談ではない。ウェイターなどに剥がしてもらうのならチップでも払うが、自分で剥がすのである。しかもかなり苦労して剥がすのにチップを払ういわれはない。酒のビンは、再使用するにはすべて洗浄し、その際ラベルなどは全て洗い流して、次の酒を詰めればそのラベルを貼るのである。どうせ捨てるものを先に剥がして持っていってやるようなものだ。もっとも、割り切れない気持ちを持ちながら、何度もチップを払ってきたが・・・。
 それはさておき、酒のラベルは私にとっては貴重品である。ラベルには、銘柄、製造元の住所、電話番号に始まり、製造年月日などのほかに、何よりも重要な原材料製法などが書かれている。これは酒の資料としては「第一級品」である。
 私は、剥がしたラベルの裏に、飲んだ日付、一緒に食べた料理やその相性、また同行の人の感想などを書き込んで保存しておく。これが「酒の記録」として蓄積されてていくのである。
 特に外国となれば、再びその地を訪れると言う保証はない。後になって必要となり、「ちょっとその店まで行ってくる」というわけには行かない。理不尽でもチップぐらいは払う値打ちがある。

 「Pure Sake」のラベルに始まり、たくさんの思い出深いラベルが、私のアルバムを飾っている。
 ところで、なぜ外国人だけが、日本人も殆ど飲んでいない純米酒だけを飲んでいるのか?
                              


外国で飲む日本酒

2007-06-14 22:02:50 | 

 

 私は外国では、基本的にはその国の酒を飲む。国内であっても、旅でも出張でも、その地の酒を飲むことにしている。酒はその地のものであり、その地の風土、文化、なによりもその地の食べ物とともにあるものだから。
 しかし、日本酒をこよなく愛する私は、どこの国に行っても、その国で日本清酒がどのように飲まれているか大変に気になるので、機会を見つけて日本酒を探して飲む。
 今でこそ日本酒も相当な国で、相当な種類のものが飲まれているが、最初にアメリカに行った1988~89年頃は、未だそれほどの種類は飲まれていなかったように思う。
 それでも私は、アクロンの「東京ー北京」、シカゴの「紅花」、ニューヨークのホテル エセックス・ハウスの「弁慶」などという日本料理屋で日本酒を飲んだ。当時は、殆どが白雪、大関、月桂冠、菊正宗など大手12社の酒であり、日本からの直輸入のものもあったが、多くはカリフォルニア産の日本酒であった。
 ただ当時一番驚いたのは、アメリカで飲んだ日本酒は「全て純米酒であった」と言うことだ。これには本当に驚いた。当時日本国内での純米酒の消費量は全清酒の3.4%に過ぎなかった。あとは全て、アルコールや糖類や調味料を混ぜたニセモノ日本酒であった。
 にもかかわらず、アメリカでは全て純米酒(正に本物の日本酒)が飲まれている!
 日本人はニセモノを飲まされ、外国人だけが本物を飲んでいるのか!
 この怒りが、私をいっそう日本酒の探求に向かわせたのであった。(以下次回)
                             


列車の旅

2007-06-13 21:42:42 | 

 

 ワシントンからニューヨークへは列車で行った。確かメトロライナーとかいう特急クラスの列車で、3時間ぐらいで行ったように記憶している。十数年前の話なので、今はもっと早い列車などがあるのであろう。
 しかし、交通機関というものは、ただ早ければよいというものでもない。外国旅行は飛行機を乗り回すことが多く、移動しながらゆっくりその地を楽しむことが少ない。その点、列車のスピードは楽しい。バスでも良いが、ゆっくりとしたコンパートメントで仲間と向き合い語り合いながら、初めての土地の風景を追うのは旅の醍醐味である。
 ヴェニスのサンタルチア駅を発ってヴェローナまで往復した汽車旅も楽しかった。なにせ、水上タクシーで運河を走り列車に乗り込むこと自体が、ヴェニスならではのことである。
 中でも思い出深いのが、サンクト・ペテルブルグからヘルシンキまでの汽車旅。なんといっても列車の名前がシベリウス号(シベリウスはフィンランドの大作曲家)であることが、ヘルシンキに向かう気持ちを高ぶらせてくれる。とくにロシア領を抜けてフィンランド領に入るや緑の量が厚く、森と湖の国を走っている充実感があった。 
 出発前から読み始めた『カレワラ』(ギリシャの『イーリアスとオデュッセア』、日本の『古事記』などに匹敵する壮大なフィンランド叙事詩)後編のページをめくりながら、私は車窓を移ろう美しい景色にどっぷりとつかった。

 ワシントンのユニオン駅を出発した列車が着いたところは、ニューヨークのど真ん中ペンシルバニア駅。しかし私にとって思いで深い駅は、これまたど真ん中のグランドセントラル駅・・・・・・。なぜなら、そこに有名なオイスター・バーというレストランがあり、われわれはニューヨークに行く度に、そこでオイスターやロブスターを食べながら宴を張った。広大な食堂で、大勢の人たちがワイワイガヤガヤ食べたり飲んでいたりしている雰囲気もアメリカ的だ。
 北欧などとは全く違う雰囲気だが、それぞれの国柄が表れるので楽しいのだ。
 次回から、アメリカにおける「日本酒事情」について。
                            


アメリカ民主主義の源流とアメリカの現状

2007-06-10 13:55:54 | 

 

 アメリカ民主主義の源流として心に残った事柄は、単に建国史を彩る巨人たちの言動だけではなかった。
 その極めつけは、個人の言動の中にではなく、国民の総意として刻み残されている次の二つ言葉であった。
 一つは国会議事堂の、もう一つは国立公文書館のそれである。

・The Capitol(国会議事堂)は、ワシントン・モニュメントの東に位置し、その堂々たるドームの頂きに聳え立つ自由の像の台座には、「民主主義の過程を表現する言葉」として、次の言葉がラテン語で刻み込まれている。

  E Pruribus Unum  -- 多数から一つに


・国立公文書館には、独立宣言と、合衆国憲法および権利の章典が一室に納められ、空気と光線の害から守るためにヘリウムの入ったフィルターつきのガラスケースの中に収められている。
 そしてその入り口に、次の言葉が刻まれている。

  永遠の見張りこそ自由の代償である


 彼らは常に民主主義そのものを見張っているのである。そしてそれこそ、民主主義の本髄であると思われた。

 アメリカは、このようにして自由と民主主義を守り育ててきた。
 さて、そのアメリカの現状はどうか?
 根強くのこる人種差別、極貧困層の存在などと、掲げてきた理想との相克を彼らはどう処理しているのか? もし極貧層の存在を「自由競争の結果」として位置づけるとすれば、そのような自由は、今後の世界が全体として発展していく理念、哲学として、はたたして役に立つのか?
 いわんや、他国に攻め込み自己の生存基準を押し付けることが民主主義と考えているとすれば、このような民主主義は、人類が今後を生きるうえで役に立つのであろうか?
 ベトナム戦争で、わずか半世紀前に経験した誤りを、再びイラクで繰り返すとすれば、彼らが続けておる「永遠の見張り」は、何の役に立ってきたのかを問わねばならない。
                            


自由と民主主義を追求した巨人たち

2007-06-09 15:44:59 | 

 

 ワシントンの中心は、モールの中央にそびえアメリカ独立の英雄を称えるワシントン・モニュメントで、その周辺にアメリカ建国の歴史を語る建物が幾何学的に配置されている、と書いた。その中のジェファーソン、リンカーン、ケネディに触れておく。

ジェファーソン・メモリアル
 モニュメントの南方に位置するこの白亜の殿堂は、巨大な建物であるがその中にはジェファーソンの立像(約10メートル)以外に何もなく、立像を囲む壁には彼の言葉が刻み込まれている。
 その中で、ひときわ眼を惹くのが言うまでもなく独立宣言の一説である。

「・・・全ての人は平等に創られ、誰にも譲ることのできない権利を、神により授けられた。すなはちそれは、生命、自由、幸福追求の権利である。・・・」


リンカーン・メモリアル
 モールの西端ポトマック河畔に建つ、これまた白亜の殿堂であるが、この中にも椅子に座したリンカーン像(約5.8メートル)のほかに何もなく、彼を囲む壁の南壁には、分裂国に再結集を求めたあのゲティスバーグの演説が刻まれている。

「神の下に、この国は新しい自由の誕生を経験し、人民の人民による人民のための政治が、この地上から消えないように・・・」


・アーリントン墓地ジョン・F・ケネディの墓 
 リンカーン・メモリアルから、なお西にポトマック川を渡るとアーリントン墓地がある。その中のジョン・F・ケネディの墓には、「永遠の火」が燃え続けている。そしてそのそばに、1961年の大統領就任演説から、次の言葉が引用され刻まれている。

「そこで、わがアメリカ人よ。国があなたに何が出来るかを尋ねてはいけない。あなたが国のために何が出来るか、を問いたまえ。わが世界の同住人よ。アメリカがあなたのために何が出来るかではなく、われわれが協力して、人間の自由のために何が出来るかを問いたまえ」


 私は、これらの施設を回り、それぞれの言葉に触れて、改めてこれらの人物の果たした役割とスケールの大きさに、思いをいたしたのであった。
                             
  


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