旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

平成を終えるにあたって

2019-04-30 11:38:18 | 政治経済

  

 今月23日で84歳となった。還暦から二回り、7回目の亥年を迎えた。そして同時に、平成という時代が終わりを告げようとしている。
 私の生きた昭和の後半は、躍動感に満ちていた。戦後民主主義の息吹の中で、経済建設の槌音が高く響いた。日本は先進資本主義国に仲間入りして、世界第二の経済大国と言われるまでになった。
 しかしその現象はバブルであり、バブルの崩壊とともに始まった平成時代に、その地位は崩れ落ちた。世界恐慌リーマンショックの追い打ちを受けて、日本は長い不況に見舞われた。
 それどころか、東芝の不正経理事件をはじめとして、神戸製鋼所、三菱マテアリアル、東レ、自動車各社などのデータ改ざん、不正品質問題が相次ぎ、現在もその後を絶たない。つまり日本資本主義は、ごまかしのデータや不正経理の上に構築されていた見せかけの経済に、いつのころからか変質していったのだ。
 結果は、平成の最初に世界の16%を占めていた日本のGDPは、現在6%にまで落ち込み、労働者の賃金は下がり、国民は格差と貧困に苦しんでいる。株価操作と海外依存の経済により潤った資本家層と金持ちだけが裕福な暮らしを営むという、貧困・格差社会の二流国になり下がったといえよう。それに追い打ちをかけたのが、関西、東日本、九州、北海道を次々と襲った自然災害で、中でも福島の原発事故は、永久に住めない土地を生み出した。
 これが平成の時代であったのではないか?

 ただ、中小・零細企業を含む高い技術力と生産力は、国民の勤勉性と共にどこの国にも負けないものがあると信じている。当初から三流と言われていた政治は、特に平成最後の政権安倍自公政権は、この国民の力に目を向けることなく、アメリカに媚を売り、財界べったりで金持ち優遇の政治を続けた。
 国民が、戦後示した自らの力に目覚め、国民本位の政治を進める政権を樹立することに力を注ぐならば、日本は再び甦ることができるのではないか?
 令和と呼ばれる次の時代が、そのような時代になることを期待してやまない。


第20回山桜桃の会(つづき)

2019-04-24 14:52:36 | 


 築地場外市場を訪問した山桜桃の会につき、いくつか補足しておく。
 市場の一角にある波除稲荷神社に参拝したことはすでにふれたが、この「波除」という名前がいい。日本の神社の多くが、その地を守ってきたのであろうが、この神社も、東京湾の荒波から首都の台所たる築地市場を守ってきたのであろう。それは、単に自然災害から守るだけでなく市場が生み出す食品も守ってきたのであろう、境内の各所に「玉子塚」とか「魚塚」などが立ち並んでいる。

  


 私は同行者の勧めと、この玉子塚にもヒントを得て「『松露』の卵焼き」を土産に買った。同時に買った各種干物や銀タラの粕漬などにはほとんど反応がなかったが、この著名な卵焼きは妻にも娘にも喜ばれた。波除稲荷の御利益というべきか? ついでに記すが、おみくじを引くと中吉と出た。「心を屈せず迷うことなく一歩一歩歩き続けよついにその先に辿り着くだろう」とあった。同行7名の中にあって、大吉でも凶でもなく中吉というのが良かったのであろう。
 さて、酒についても触れておく。築地で寿司を食う、ということから、私は東京の酒を飲みたいと思った。嘉泉、澤乃井、多磨自慢などを頼んだが、残念ながら『寿司清』にはなかった。常備の酒の中から、秋田の「まんさくの花」特別純米、宮城の「浦霞」本醸造、長野は諏訪の「高天」純米酒、岐阜県各務原市の「百十郎」純米酒を飲んだ。
 高天、百十郎は初めて飲んだと思ったが、帰って調べると「百十郎」の蔵は『林本店』で、ここが醸す「栄一」という酒は、浜松町の行きつけの蕎麦屋でよく飲んだ。百十郎というのは、同名の地元の役者が付けた「百十郎桜」にちなんだものらしい。いずれも結構な酒でした。
 これで、山桜桃の会で飲んだ酒は50種類に及んだ。食べた料理も含め「会の記録」ををまとめようという話が持ち上がっている。

  

    
    高天と「いかげそ焼き」

 


  


第20回山桜桃の会 … 築地場外市場と浜離宮

2019-04-21 13:01:31 | 


 山桜桃の会も20回目となる。2013年1月大塚『串駒』を初回に7年目に入る。
 昨年は、記録の残る限り日本最古の蔵と言われる須藤本家の酒蔵訪問に始まり、酒飲みの戦後史をたどるべく新宿『思い出横丁(通称ションベン横丁)』、銀座の『酒の穴』と続けた。新宿、銀座とくれば、いよいよ食の本山築地となり、第20回を記念して今や話題の築地場外市場を訪ねることとした。
 外国人が大半を占める場内を散策し、波除稲荷神社を参拝、予約しておいた『築地寿司清新館』でゆっくり食事、その後浜離宮を歩き、抹茶を頂き帰路に就いた。とりあえず写真を並べて、詳細は次回に譲る。

 
    
      
  

 『寿司清』は3階の個室を予約できたので、ゆっくりと寛げた。待望の寿司を、「にぎり」、「海鮮丼」などお好みでたのみ、「げそ焼き」、「兜煮」などもつつきながら数種の酒(詳細次回)を酌み交わした。

 
       
  
          

 最後は浜離宮を歩き、市場の喧騒を離れて、「東京にもこんな緑と静寂があるのか」と感慨一入。池の上に浮かぶお店で抹茶を飲んで帰りました。

   

   
       
   

 


今年の桜 … 横須賀市塚山公園

2019-04-13 10:28:00 | 時局雑感


 白内障手術で入院などしているうちに、今年の桜は盛りを過ぎていた。しかし今年は、横須賀市逸見の塚山公園の桜を観る幸運に恵まれた。入院前の4月2日、快晴の下に広がる満開の桜であった。
 なぜ横須賀市逸見か? 実は銀行時代の同僚の一人S氏が、逸見の住人であるからだ。横須賀といえば軍港、S氏の父親も海軍の軍人で、その生涯は波乱万丈であったという。個人に属することであるので詳細を記すことはしないが、S氏は、花見の道中を通してその栄枯盛衰を包み隠さず語ってくれた。
 その盛衰、特に衰の時代生きたS氏の苦悩は想像を絶するものであったらしいが、彼は同時に、それを育んでくれた横須賀をこよなく愛していることを語った。自分の生まれ育った故郷をかくも誇らしく語ることができる彼をうらやましく思いながら、私は満開の桜を愛でた。
 もう一つ。なぜ逸見の塚山公園か? それは逸見の領主がかの三浦按針(ウィリアム・アダムス)であり、按針を記念する塔(安針塚)がこの公園にあるからだ。
 アダムスがオランダ船デ・リーフデ号で、2年の漂流の末流れ着いたのが、わがふるさと臼杵であった。1600年4月のこと、当時の豊後の国臼杵藩の佐志生という漁村。臼杵が私の故郷であることを知ったS氏は、いつの日か私を塚山公園はじめアダムスゆかりの場所に案内したいと計画してくれていたのだ。
 アダムスは家康に外交顧問として採り上げられ、三浦按針の名を受けてこの逸見村250石を与えられた。歴史上唯一の外国人領主であった。そして逸見領民に大変慕われたという。
 私は、最初に漂着したわが臼杵の先人が、アダムスたちを丁寧に取り扱い、やがて逸見の領民に慕われる存在になったことをうれしく思う。S氏は、そのつながりを大切にして、この花見の旅を計画してくれたのだ。

 
      
          

 横須賀湾を望む
      
      同行の三氏と、右上の戦艦は安倍内閣が空母に改造予定のもの

  


白内障の手術(左目)を終えました

2019-04-10 17:17:12 | 時局雑感


 予てから担当医師に薦められていた白内障の手術に踏み切った。5日に入院、6日に手術、7日に無事退院した。本日その結果の診断があったが、「きれいに処置を終えており、何も問題はない」ということだった。
 しかしこの手術により、特に視力が回復したということもなかった。多少明るく見えるようになった感じはあるが、決定的な改善はない。そもそも私の左目は、加齢黄斑変性で、網膜の真ん中が黒幕で覆われ、視力大半を失っている。光は失っていないがほとんど役に立っていない。
 しかし医師は、本命の右目を手術する前に左目をやり、右目の万一の時に備えておくべし、と強硬に主張する。「そもそも見えない眼をいじくる必要があるのか?」という強い疑問があったが、所詮は医師の指導に従うしかない。
 結果は無事に終わったので、次は本命の右目だ。これの方が緊張する。なんたって、0.3しかない視力の右目に全てを依存して生きているのだから…。医師によれば、白内障を治せば0.5~6は見えるのではないかというのだが…?
 何よりも、今晩の晩酌が楽しみだ。手術後はアルコール不可という指示に、「たいして役にも立たない左目の手術で酒も飲めないとは何事ぞ」と機嫌を悪くして抗議したが、「アルコールは炎症を起こす可能性なしとしない。医者として可とは言えない」と決然と言い切られて引き下がった。道理ある医者の指示にも従えないようでは、人間としての値打ちが問われる、と思ったからだ。
 まあ、この5日間の断酒で、少なくとも肝機能など他の病状には好結果をもたらしたことだろう。人間の体もうまくできているのだ。


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