旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

驚いたテンプレート変更…、でもいい感じ

2015-01-30 15:51:25 | 時局雑感

 

 27日の朝ブログを開いてみて、テンプレートが変わっているのに驚いた。他人のブログを開いたか、と思ったが、「旅のプラズマ」となっており前夜投稿した文章になっている。一体何が起こったのか問い合わせようと思ったが問い合わせ先も分からず、いろいろ調べてみると、この度G00ブログ社は大幅な仕様変更を行ったらしい。事前連絡もされていたようだが、気づきもしない私は何の返答もしなかったので、先方でテンプレート変更を行ったようだ。
 結果として……、この変更は、その前日に書いた「投稿方針変更“ブログにどう対応すべきか”」にぴったり対応したものになったようだ。できることならこの日の分から変更され、前日までの約8年分は前のままでありたいという不満はあるが。
 前回書いたように、8年前W女史が開設してくれたテンプレートは、バックがギリシャかローマの遺跡のようで「旅のプラズマ」の雰囲気に合い、私は結構気に入って8年間使ってきた。旅や酒や世の中の出来事を日記風に書くには、特に抵抗を感じなかったからだ。
 ところがここでペースを落とすことになった。ブログも、2日に1回の日記風から、週1回ペースの随筆風に変えることにした。ゆっくりと腰を落ち着け、前のめりの腰掛を深く身を委ねるソファーに代えて、物を思う時間を多くとりたいと思ったのだ。クッキーをかじりコーヒーでもすすりながら…。
 最初は驚いたテンプレートの変更も、よく見るとその思いに適っている。クッキーとコーヒーの後ろに本が2冊重なっているのもいい。目は悪くなったが読みたい本が山ほどある。視力を失う、と思えば一層焦る思いだ。読むスピードは極端に落ちたが、これもまたゆっくり行こう。この機に、写真や自己紹介文も現時点のものに変えねばなるまい。

 ところで、このテンプレートを選んでくれた人は、このような私の思いがどうして分ったのだろう。聞いてみたいものだ。思えばこれまで8年間、一度も担当者と話したこともない。電話もメールアドレスも分からない。何とか調べてこの点だけは聞いてみたいと思っている。

      


ブログにどう対応すべきか?

2015-01-26 19:52:26 | 時局雑感


 今、2014年度のブログの編集を終えて、製本を発注した。机の上に、過去7年のブログが製本されて並んでいる。これで8年目も加わることになるだろう。

 2007年、ひょんなことからブログを始めることになった。W女史が、「首藤さんこそブログを書くべきよ。あなたほどブログに相応しい人はいない」などとおだてられて、またたく間にGooブログを設定してくれた。言われるままに、「今日から始めます」と書いたのが、2007年1月12日であった。
 それから8年、2日に一度のペースで書き続け、一年ごとに本にまとめた。一年分は優に4百数十頁となり机上に並んでいる。いま、昨年分を発注したので、これで8冊が並ぶことになる。
 読み返すと、ほとんど毎年同じことを書いている。実につまらないとも思うが、このマンネリズムがいいとも思う。世の出来事も、それほど目新しいものはなく、一年を通せば同じことを繰り返しているのだ。だから、それぞれの事象は異なるが、しょせんは同じことを書いてきた。これが人の世か…。

 それとは全く関係ないが、昨年末に「3分の1宣言」を発し、ブログも3分の1にペースを落とすことにした。2日に1回のペースを、週1回とする。だから、これまでのブログには別れを告げて、気の向く時だけ書くことにする。これまでのブログにひとまず別れを告げる。
 これを機に、数は少ないが読み続けてくれた人の感想をいただきたい。一言でもいい、何かコメントを書いてくれるとうれしい。私からは、つたない文章を読み続けてくれた人に、ただ感謝するのみ…

   
          今朝の雪


民主党の代表選挙について

2015-01-19 15:00:40 | 政治経済

 

 民主党の代表選で、岡田克也氏が選ばれた。ほとんど新鮮味はなく、これにより、自民党に対抗して政権を争う党に生まれ変わるとは、どうも信じにくい。変化より安定を選択した印象で、野党としての躍動感も感じられない。
 本日付日経新聞朝刊3面の「新代表の横顔」によれば、同僚議員の岡田評は、「一緒に飲んでもゴルフをしても楽しいと思ったことは一度もないが、安定は一番」ということらしい。「ぶれないし、群れない」が、「融通もきかない」。「しかし、安定感は抜群だ」となっている。面白くもおかしくもないが、ただ安定だけを求めたとすれば、先行き日本政治に心躍る躍動感が生まれることは先ずあるまい。

 それにつけても、自公政権の3分の2以上議席占有は重い。外ならぬ安倍首相の体質を思うと、何とも暗い。不意打ち選挙で4年の任期を手にしたが、憲法改悪のために期間が足りないと思えば、来年の参院選で同時選挙に打って出て、時間を確保するかもしれない。
 その危ない道を歩かないように、戦後政治で日本国民は、与党に3分の2の議席だけは与えてこなかった。ところがここに来て、安倍晋三という最も危険な男にそれを与えてきている。世界的に保守回帰の傾向はある。極右が政権を取るところまではいかないが、ヨーロッパでも保守化に対する警告が叫ばれている。日本国民もその傾向にあるのだろうか?
 維新の会(党)などは、明らかに自民党より右であろう。次世代の党の凋落ぶりを見るとそれほど右傾化しているとも思えないが、戦後民主主義と平和希求の気風は明らかに退潮していると思える。私は、少なくとも民主党にその気風を保ち続けてほしいと思うのだが、無理のようだ。
 リベラルというか、ヨーロッパの中道左派的な政治勢力がもっと育って、自民勢力と政策を競い合うような政治が地道に行われなければ、経済も政治も健全にならないのではないか? 民主党がそのようなリベラル政党に育ち、150から200の議席を占め、その左に共産党が50前後まで伸びて、各30議席前後の公明党、維新の党を従えた自民党と拮抗する政治戦で、国民が政治に敏感になる状態が、過度的な段階として続くことを想像しているのだが…?


低迷期を脱しつつある日本酒(つづき)

2015-01-14 14:01:14 | 

 

 日本酒は美味しくなった、と多くの人が言う。確かに、純米酒を中心に多様な味が花開いてきた、という感がある。一方で日本酒の消費量はピーク時の3分の1に減ってきた。客がいなくなって美味しくなったとは悲劇だ、と書いた。
 しかしこれは悲しむことではないかもしれない。減ったのはアル添三増酒などまがいものの美味しくない酒で、それを飲んでいた人が減っても悲しむことはない。反面純米酒を中心においしい酒が増えており、つまり本来の日本酒ファンは増えてきているのだ。
 まがいもの酒、美味しくない酒はとことん淘汰され、そのどん底から真の日本酒文化が花咲こうとしているのだ。そして、その文化の華を大きくしていくためには、美味しくない酒を飲まされて日本酒離れをした人たちに、美味しい酒を飲んでもらわなければならない。
 これが大変な仕事だ。一度離れた人に単純に「日本酒を飲みなさい」と言っても、簡単には飲んでくれないだろう。その人たちに何と呼びかけたらいいのだろうか? 日本酒は何を売ればいいのだろうか?
 昨年開かれた山水舎の日本酒セミナー「これからの日本酒」で、明治大学専門職大学院教授上原征彦氏は、今後の方向として「…“モノ売り”から“コト売り”へ。酒を売るのではなく文化を売ること…」と提起した。ここに重要なヒントがありそうだ。
 まぜもの酒の時代はどの蔵の酒も大差なかったので、一つ一つの酒に物語性はあまりなかった。しかし純米酒を中心に各蔵の個性が出てくると、それぞれの酒の裏に物語が付きまとう。独特の米や水、酵母のつかい方や製法、土地柄や蔵元の哲学など、それぞれ個性的な酒の裏には特有の物語がある。日本酒が文化と言われるゆえんだろう。
 とすれば、その文化を売ることこそ需要な課題だろう。消費量が減ったとはいえ、日本酒の蔵は未だ1200も残っている。北から南へ1200の蔵が、その地域性を生かして酒を醸している。日本酒は単なるモノではなく、複雑な造りや背景を含むコトなのであろう。モノ売りからコト売りへ、酒売りから文化売りへ…。これまた大事業であるが、実に夢の多い事業ではある。

     


低迷期を脱しつつある日本酒

2015-01-12 13:19:56 | 

 

 1973年頃をピークに、日本酒の消費量は減少を続けている。ピーク時1,766千klあった消費量は、いまや600千klを割って3分の1になってしまった。この現象はまだまだ続くであろう。何故なら、この間減少した主因はアル添三増酒(アルコールや糖類、調味料などを添加して三倍にも水増しした酒)という美味しくないまがいもの酒で、その種の酒は未だまだ残っているからだ。
 日本酒は不幸な戦後史を辿った。戦後から高度成長期まで、日本人の飲む酒はほとんどがアル添三増酒であった。アルコールをダブダブ混ぜ、糖類(水飴など)や調味料(味の素など)で増量された酒は、甘ったるくて美味しくなく、頭が痛くなり、二日酔いして吐きまくった。「日本酒は美味しくなくて悪酔いする」という観念は日本人に定着した。
 この種の酒は上述のごとく減り続けているが、反面、本来の日本酒である純米酒は増え続けた。1970年ごろまではほとんどゼロであった純米酒(含む純米吟醸酒)のシェアは、今や20%に届こうとしている。そしてこの酒は、その多様性とともに大変おいしい。もちろん添加物のないこの酒で、悪酔いすることはない。
 いろんな場で日本酒を薦めると、多くの人が「日本酒は頭が痛くなるから」、「翌日に残るから」と、従来の固定観念を引きずっている。「騙されたと思って飲んで」と再度薦めてやっと飲んでもらうと、「美味しい!」と驚き、翌日、「あなたに薦められかなり飲んだが、今朝頭がすっきりしている」と電話がかかる。
 日本酒がおいしくなった、という人は専門家に限らない。かなり増えてきたが、そのシェアから見ても未だ20%の日本人に過ぎないと言えよう。多くの人は前述の固定観念にとらわれ、日本酒離れを起こしている。これが日本酒戦後史の第二の不幸だ。日本酒は客を失った後においしくなったのだ。 
 百花繚乱咲きにおう日本酒が、今ほど美味しくなった時期は過去にない。しかしそれを飲む客がいなくなった後なのだ。どうすればいいのだろうか? (つづく)


貧困・格差問題にどう立ち向かうのか

2015-01-06 14:04:39 | 政治経済

 

 「ピケティ現象」という言葉が言われている。フランスの経済学者トマ・ピケティが書いた『21世紀の資本』に由来する。
 彼は、英米仏や日本の100年以上にわたる経済統計を分析してこの書を著し、「資本主義の下では資産を持つ人がますます富み、持たない人々との格差が広がり続ける。富も貧困も世襲されていく」と分析している。(毎日新聞13日付社説)
 これは、アベノミクスなる政策の下でますます助長されている、株や土地を持つ富裕層や大企業はもうかり、必死に働く持たざる層や零細企業が苦しんでいる日本の現状を説明するために書いてくれたような本だ。
 パートや派遣など非正規労働者が2000万人を超え、年収200万円以下のワーキングプアが1000万人を超えたと言われて久しい。昨年末の内閣府の発表によれば、2013年度の家計貯蓄率はマイナス1.3%になったという。マイナスというのは戦後初めてのことで、国民の多くは貯蓄の取り崩しを始めたということを示している。
 ワーキングプアの子弟たちは教育も満足に受けられず、貧困は再生産されていくだろう。前記したピケティの分析、「富も貧困も世襲されていく」と言う言葉が恐ろしい。富はまだしも、「貧困の世襲」という言葉には身の毛がよだつ。

 すでに150年前、この現象を予言した者がいる。カール・マルクスだ。彼は『資本論』(ピケティによれば「19世紀の資本」か?)で、「資本主義的蓄積の一般的法則」を次のように要約している。
 「一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである」(大月書店版840頁)
 ピケティは、続く百数十年の統計を分析して、マルクスの「一般的法則」を証明したと言えるのではないか?
 マルクスはその上に立って、生産物を生み出す生産手段を、資本家の手から社会全体の手に移して、生まれる富を社会全体の所有物とする社会主義社会を展望した。ピケティは、格差解消のための国際協調による富裕税の創設を提起している。
 マルクスの言う根本的解決策を探求するのか、ピケティの処方箋的解決策を求めるのか…、いずれにせよ人類は、21世紀をかけてこの問題に立ち向かうことになるのではないか。


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