ブリュッセルの王立美術館では、時間がないのでルーベンスとブリューゲルにしぼって見た。そのためか「いやと言うほどルーベンスを見た」という感じだった。特に超大型絵に囲まれた大広間では、真ん中のソファーに座り込んで動けなかった。
しかし、最も「ルーベンスを観た」と感じたのは、やはりアントワープの大聖堂に架かる二つの絵、「キリストの昇架」と「キリストの降架」であった。この二つの絵を観るためだけでベルギーに行く値打ちがある、と言えるのではないか。
この絵は威厳と悲しみに満ちている。しかし同時に躍動感があり華麗とさえ言えるものを持っているのは、前述したように、ルーベンスが受けたカトリックの影響によるのだろうか?
祭壇の左の「昇架」は、左上から右下にかけた斜めの構図、右の「降架」は、右上から左下にかけた斜めの構図でバランスする。しかもそれぞれが、「昇架」の十字架を持ち上げるスキンヘッドの刑吏の”縦”と、「降架」のキリストを支える赤い着衣の男の”縦”で安定する。その安定が絵に威厳を与えている。そして双方とも、キリストを見るマリアの顔が、何ともいえない悲しみを見る人に与える。
一方、フェルメールの絵には躍動感や華麗さはない。静謐ともいえる日常性があるだけだ。それなのに、何がこれほど見る人の心を惹きつけるのだろうか? オランダの旅での最大の感動はフェルメールを観たことだ、という気さえした。しかも、それまで印刷物などで見てきたものとは、色彩の鮮やかさにおいて全く違い、この時ほど「本物を見なければダメだ!」と感じたことはなかった。
フェルメールは生涯にわたって35枚の絵しか残していない。その中の4枚、「牛乳を注ぐ女」、「恋文」、「手紙を読む女」、「小路」を、アムステルダム国立美術館で観た。題名が示すとおり市井を描いた絵にすぎない。それまでの絵画の主流が、宗教画や肖像画であったのに対し、それを離れえたのは、彼が日曜画家という自由人であったからかもしれない。ルーベンスなどに比べれば絵も小さく質素に見える。しかし中身は濃くまさに質実剛健だ。そしてそこに、オランダの、プロテスタンティズムの精神による時代の変革を見ることができる。