旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

秋は既に来ていた

2022-08-29 16:15:27 | 時局雑感



 昨夜(8月28日夜)、窓を開けると涼しい風が入ってきた。それはむしろ肌寒ささえ感じさせた。おそくなって風呂に入ると湯は冷めていた。つい先日までの猛暑の中では、その冷めたお湯が汗ばんだ体に心地よかったが、昨夜は何とも頼りなく、思わず追い炊きのスイッチを入れた。「さやかに見えぬ秋」は、既に来ていた。

 もう一つ、
 後世の人は、この2022年8月を、3年にわたり猛威を振るったコロナウィルス感染症のピークの月と記憶するだろう。今月に入り全国感染者数は一日20万を超え、東京都でも3万人を超える日を続けたが、ここにきてようやく収まりを見せてきた。全国で10万人台、東京都でも1万人台(本日は9880人と1万人を割り込む)を続け、ピークアウトの様相を示し始めた。
 私は、コロナを軽視はしていないが、それほど重視もしていない。ワクチンも3回までは打つったが4回目は接種していない。もちろん、今後8波、9波も来るだろうし、私自身感染し、それも絡んで死ぬかもしれない。しかし、87歳の超高齢者として、そのくらいの覚悟はできているつもりだ。とにかく普通の生活に戻りたいばかりだ。
 こうして、今年の8月も過ぎていく。 

  
  玄関に、ひまわりが一凛飾ってあった

      


終戦を挟む二つの77年

2022-08-21 14:47:23 | 政治経済

 

 八月は第二次大戦の終戦を記念する月である。1945年8月、6日に広島、9日に長崎に原爆を投下され、15日にポツダム宣言を受託し敗戦を迎えた。日本は焦土と化していた。今年はそれから77年目。
 一方、敗戦の年から77年を遡ると明治元年(1868年)、つまり明治維新に突き当たる。この明治維新は、鎖国に守られた泰平文化の江戸時代に幕を下ろし、日本の目を一気に海外に向けさせた。以降、日本は国を挙げて軍事強化に励み、覇権主義的海外進出に突き進む。日露戦争、日支事変、大東亜戦争(第二次大戦)への道である。満州(中国東北部)にカイライ政権を樹立し、朝鮮、台湾を植民地化し、更に南洋諸島の石油権益に手を伸ばした。勿論それは、世界列強の許すところでなく、前述の敗戦につながった。
 翻って戦後の77年間、日本は平和の道を歩いてきた。少なくとも形の上で、日本国民が他国と戦火を交えることはなかった。しかし、実体的にはアメリカの世界軍事戦略に組み込まれ、自衛隊は軍隊そのもの力を備え、5兆円を超える軍事予算は、米・中を除く列強に比肩する。それでも戦火の道に踏み出さなかったのは、平和憲法を守る日本国民の闘いの成果であっただろう。
 ところがここに来て怪しくなってきた。ロシアによるウクライナ侵攻、北朝鮮の核開発、中国の近海覇権行動(含む台湾有事)などが、一気に軍備強化、軍事大国化に日本を向かわせようとしている。
 次の77年に向けてどのような一歩を踏み出すか? 日本は岐路に立っているのではないか。

 


ミャゴラトーリ『椿姫』は、なぜ感動をもたらしたか?(3)

2022-08-14 11:28:24 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 ヴィオレッタとアルフレードの愛…、この愛は、一体なんであったのか?
 演出者大澤氏は、それを解く鍵は、二人が交わす歌の中にあると言う(氏のFacebookなど)。ヴィオレッタの「いつから私を好きだったの?」という問いかけに、アルフレードは「一年前から好きだった」と答える。この言葉は決定的であったが、しかし、その一言でヴィオレッタは彼を愛した訳ではない。
 夜ごと取り交わす瞬時にして無機質な愛が充満している社交界、「愛は簡単に変わるものだから楽しむべし」と歌う社交界にあって、「一年」は永遠を意味しただろう。永遠の愛…、そのような愛をヴィオレッタは全く知らなかった。それを事も無げに伝えるアルレードとはどんな男か? その彼の内実、生きざま、人生観にヴィオレッタは惹きつけられていく。そしてそれは、死ぬまで続く、正に永遠の愛として結実するのである。
 アルフレードという男は、貴族の中では稀有の存在であったろう。そしてその彼の中に、永遠の愛を見出すような女は、これまた娼婦の世界にあっては稀有の存在であった。
 私は『椿姫』を何度か見てきたが、一娼婦と、頼りない一貴族の息子との悲恋物語と思ってきた。ところがこの物語は、悲恋物語どころか、むしろアルフレードが主導する気高い愛が実を結ぶ「究極のハッピーエンド」(大澤)であったのである。
 この観点を貫き通したことによって、ミャゴラトーリ『椿姫』は新たな感動を生み出したのであろう。

 


ミャゴラトーリ『椿姫』は、なぜ興奮をもたらしたか?(2)

2022-08-08 15:00:18 | 文化(音楽、絵画、映画)



 第一幕の初めから、各歌手の圧倒的歌唱力により舞台に惹きつけられたが、物語の展開上当然のことながら、圧巻は二幕と三幕であった。
 二幕はジェルモン(アルフレードの父親)が登場し、ヴィオレッタに息子との別れを迫り、またアルフレードには、女と別れ故郷へ帰ろうと説得する場面。
 アルレードとの別れは死を意味する、と断固抵抗するヴィオレッタに対し、冷酷無比なジェルモンは、息子は我がジェルモン家を継がねばならない、また家には、婚約中の美しい娘もいる、その破談を避けるためにも息子と別れてくれ、と執拗に迫る。貴族としての地位と家系を守るという自我心だけで、そこに人間性のかけらもない。長いやり取りの末、ヴィオレッタは遂に折れる。「その美しい娘さんに伝えてください。哀れな女が犠牲になったと」と告げてアルフレードと別れる決心をする。最も哭かされたシーンであった。
 また、ジェルモンは息子に向かって、「あんな女を忘れて故郷へ帰ろう。お前の故郷、あの美しい海と陸に囲まれたプロヴァンスへ」と説得する。有名なアリアの場面だが、ここでもジェルモンの冷酷さが際立った。
 こうして二人の仲は裂かれたかに見えたが、真実の愛は消えることはなかった。一人になったヴィオレッタは、病を重ね死を意識するまでになったが、アルフレードに手紙を書き続ける。そこに気高い愛を見出したジェルモン親子は、死の直前のヴィオレッタを訪れる。「遅すぎたヮ」と呟くヴィオレッタは、アルレードの腕に抱かれて、最後の力を振り絞って、二人で「パリを離れて」を熱唱する。第三幕のクライマックスシーンである。そこでは、あの冷酷無比に見えたジェルンも、「私の行為は間違いであった」と懺悔する。
 この愛は、一体なんであったのか? (つづく)




ミャゴラトーリ『椿姫』は、なぜ感動をもたらしたか?

2022-08-04 14:37:02 | 文化(音楽、絵画、映画)



 この公演はなぜ感動を与えたか? それは、制作者(首藤史織)と演出者(大澤恒夫)の新解釈に基づく演出にあったのではないか?
 大澤氏の、チラシ裏面の解説によれば、原作者アレクサンドロ・デュマ・フィスは、自分の実体験としてこの小説を書いたが、それは、交際していた娼婦を最後は見捨て、その死に際にも会わなかったという結末であった。しかしデュマは、彼女の気高い愛を想起するにつけ、あまりにも哀れな結末を悲しみ、翌年戯曲化した際、死の直前に恋人と再開させ、彼は彼女を抱きしめ「神よ、この人をあなたぼ身元へ」と祈るシーンに書き改める。そこには、ヴィオレッタというこの女性を、娼婦と見るより純愛に生きた女性と見るデュマの目があった。
 ところが後年、歌劇王ヴェルディがこの作品をオペラ化する際、もちろん結末は二人の再会のシーンとし、神へ導く荘厳な曲で謳い上げたが、このオペラの題名を『ラ トラヴィアータ(道を踏み外した女)』として、再び娼婦色を漂わせた。
 演出者大澤氏は、この経過を、原典をたどりながら追跡し、「椿姫は確かに娼婦ではあったが、トラヴィアータであったか?」をテーマにこの公演に取り組んだ。そして大澤氏がチラシの解説を「このオペラは究極のハッピーエンドではないかと思う」と結んでいるように、制作者も演出者も、デュマの目でこのオペラを追った。
 そこに感動の源があったのではないか?(つづく)

  


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