旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

愛知三重酒蔵ツアーで学んだこと

2009-03-29 14:33:48 | 

 既に書いてきたように、今回の「愛知三重酒蔵ツアー」では、三重の「而今」と「瀧自慢」、愛知の「奥(尊皇)」と「醸し人九平次」の四つを回った。美味しい酒で美味しい料理を食べたこともさることながら、この蔵めぐりは大変に勉強になった。心に残ったことを何点か記しておく。

 ①各蔵とも「自分の酒」「その地の酒」にこだわっていること。
 かつては桶売りの酒を造っていた蔵が、きっぱりと止めて「自分の酒」つくりに徹することにより、すばらしい質の高い酒を造るようになったことが、印象的。
 ②それぞれが「自己の酒」に哲学を持っているが、その取り組み方は極めて多様であること。例えば使用米についても、「而今」は広島の米や他地の多種類の米を使って様々な味を出しているが、「九平次」は山田錦一本に絞って様々な味を追及している。また「奥」は夢山水、若水という地元米にこだわって多彩な酒を造る・・・という具合。
 ③蔵元が造りの先頭に立っている、という点も共通していた。
 「而今」も「奥」も蔵元が自ら杜氏を務める自社杜氏、「瀧自慢」は社長自体が蔵人の一人として取り組んでいるし、九平治氏は、若き蔵人の文字通り先頭に立っている。
 かつての、「造りは杜氏集団にまかせて、蔵元は蔵から離れた存在」という酒造りは過去のものになったのではないか?
 ④四つの蔵とも瓶燗(瓶詰めによる火入れ)に力を入れており、酒質の向上、酒質の保全に相当な神経を使っている。

 それらを貫く酒造方針に、単に造るだけでなく「飲む人の立場にたった酒つくり」という姿勢を感じた。こうして、日本酒文化は新しい境地を開いていくのであろう。うれしいことだ。
 醸し人九平治氏の「吟醸酒でも、端麗辛口による単に上品な酒というだけでなく、酒の味としての五味を感じてほしい」という言葉に、食文化としての日本酒を追求している姿勢を感じた。
 今後を楽しみのしている。
                         


奥三河の米で酒の深奥を究める「奥」――山崎合資会社

2009-03-28 11:32:50 | 

 三河湾に面する愛知県幡豆郡幡豆町に明治36(1903)年創業した山崎合資会社も、「酒もまた風土の産物」として『その地の酒』を追求し続けている。
 銘柄は「尊皇」、「尊王」と呼ぶが、これは蔵のすぐそばにある古刹祐正寺の本堂に掲げられた額「尊皇奉仏」からとったもの。尊皇が特定名称酒など上級酒で、尊王が普通酒。

 山田錦を使った「幻々」なども出しているが、平成14年、奥三河で契約栽培した高品質の酒米「夢山水」を100%使用した「奥(おく)」を初売、同16年には愛知県が五百万石と「あ系101」(先祖に雄町を持つ)を交配して育種した酒造好適米「若水」を100%使用した「焚火」を出した。水は三ヶ根山麓の良質伏流水に恵まれ、まさに「この地の酒」と誇る。
 とくに「奥」がそのラベルの斬新さとともに人気を呼んでいる。黒字に金色の奥という字が幻想的に浮き上がり、深奥に引き込まれる想いがある。酒の深奥に迫ろうとしたのか? 奥三河の米を強調したのか? はたまた奥ゆかしい味を求めたのか・・・?山崎久義杜氏(自社杜氏)の胸には様々な思いが交錯しているように感じた。

 同じく若水を使った純米酒「活鱗」なども、料理の邪魔をしないでいつまでも飲める米の酒、という感じでよかった。
 その夜の宿、西浦温泉「銀波荘」の13種に及ぶ豪華な料理で、「奥」をはじめ様々な酒を飲んでいずれも素晴らしかったが、最後まで飲んだのは純米酒活鱗であった。

 いずれにせよ、地元の風土の中で作り上げられた酒がそれぞれに個性を持ち、日本の酒文化を支えていくのだと改めて思った。
                         
   
   「奥」と使用米夢山水

 


誇り高き伊賀の地酒――「瀧自慢」

2009-03-27 22:00:51 | 

 大手への桶売りをキッパリやめて、「自分たちの酒」、「この地の酒」を誇り高く造り続けている蔵にもう一つ出会った。伊賀盆地の一角、名張市赤目町の「瀧自慢」だ。
 前回書いた「醸し人九平次」と同じく、この蔵も某大手への桶売り酒を造っていた。それを止めて、800石の製造量は400石に半減したが、「これこそ伊賀の米と赤目の水で造った酒」として、地元で50%飲まれ、その他各地に50%売り出している。杜氏こそ南部杜氏高橋成男氏を招いているが、蔵人は杉本隆司社長自らと地元サラリーマンなどの定年退職者3名(現在6568歳)の4人、計5人で造る。
 1112月は4日に1本、年明けは半じまいで計26本の仕込みという。管理しやすい小さな仕込みタンクを使用するなど工夫を凝らし、生詰め瓶燗による瓶詰めなどで酒質を維持している。まさに手づくりによる「俺たちの酒」である。
 水は平成の水百選に選ばれた国定公園“赤目48瀧”の下流の伏流水で軟水。軟水の水は酒つくりには難しい水とされているが、それだけ丁寧に取り組むので、かえってよい酒ができると思っている。

 蔵の方針を示すリーフレットには、「できた酒を気に入ってくださる方がある限り、『この酒でないと・・・』そう言って下さる方がある限り、我々は、我々の酒を造り続けます」とある。そして次の言葉で結ばれている。
 「百人が一杯飲む酒より、一人が百杯飲みたくなる酒」を目指して前進します。

 誰に飲まれているかも分からない桶売り酒を何千石も造る必要はないのだ。心の通う人のために400石を造ることが重要なのだ。

 昨夜、自宅近くの行きつけの飲み屋に立ち寄り、愛知三重酒蔵ツアーの話となり「瀧自慢」の話をすると、店主が「その酒うちに置いてありますよ」という。「ホントかよう」とメニューを繰ると、瀧自慢辛口純米“瀧流水(はやせ)”とある。
 早速注文し、常温で一杯、燗で一杯飲んだ。
 麹米山田錦、掛米五百万石、精米歩合60%、日本酒度5%、酸度1.4、酵母蔵内自家酵母・・・、はやせ(瀧流水)という銘柄の流暢な字体を見ながら、実に生真面目に蔵の案内をしてくれた杉本蔵元を思い出した。そしてその朝散歩した“赤目48瀧”(歩いたのはほんの一部であったが)の清澄な流れを想起した。
 冷で飲むと実にさわやか、燗をするとほんのり甘みが増す酒で、何の飾り気も無いが料理とともにいつまでも飲める酒であった。
 そこに造り手の心意気が現れているのであろう。
                                                


「瀧自慢」にて杉本社長(前列右端)と


山田錦へのこだわり--「醸し人九平次」

2009-03-26 17:08:52 | 

 「而今」が220230石の蔵でありながら、山田錦や五百万石、八反錦、千本錦などさまざまな米を駆使して多彩な酒を造っていることに興味を持ったが、この「愛知三重酒蔵ツアー」で最後に訪ねた「醸し人九平次」(萬乗醸造)の蔵元久野九平治氏は、800~900万石を造りながら使用米を山田錦一本に絞ってきている。
 かつては五百万石も使っていたそうなので、「五百万石はなぜ駄目か?」と問うと、「五百万石は早稲の米、山田錦は晩生(おくて)の米・・・、そもそもしっかりしたものに出来上がる晩生の植物の良さという大前提を持ちながら、麹つくりに最適の性質は比類ない」と言い切る。そしてその裏には、この蔵が“酒つくりの原点”に立ち返った歴史的経緯があるように思える。

 日本の地方蔵がほとんどそうであったように、この蔵も大手へ桶売りする酒を造ってきた。ピーク時には3千石を造りその大半を某大手蔵に収めていたが、その生き方をキッパリ止めて「自分の酒を造る」原点に立ち返った。当然のことながら製造量は三分の一以下に激減したが、そこに残ったのは正しく「自分の酒」であった。
 九平治氏は同時に、蔵の方針だけでなく酒造りそのものも原点に立ち返った。それは酒造界に長く言い伝えられている「一麹、二もと、三つくり」という言葉だ。九平治氏は「一麹」と第一に掲げる麹を額面どおり重視した。しっかりした麹を作り米のデンプンを糖化する力を増し、豊かな糖と力強い醗酵力を持って酒醗酵の全過程(特に長期低温発酵)を引っ張りぬこうとしたと言う。
 そして試行錯誤の結果、その力強い麹を造る最適の米が山田錦に収斂してきたようだ。
 そのほか、この蔵には学ぶべきことが山ほどあった。しかし私は、この「原点に立ち返った酒つくり」がいかに貴重であるかを学ぶだけで十分であると思った。かつてのように桶売りに身をやつしていれば今の超人気酒「醸し人九平次」はなかっただろう。自分の酒に立ち返ったとき、そこに新しい酒文化が生まれるのである。

 蔵を案内しながら、九平治氏は以上の経緯を淡々と語った。その風貌には「自分の酒」を創り上げた男の風格がただよっていた。(写真向かって右が九平治氏)
                            


「醸し人九平次」萬乗醸造の商標

 

 


小蔵ながらも多彩な酒を造る「而今」

2009-03-24 17:28:21 | 

 春分の酒として図らずも「而今」を飲むこととなったが、この小さい蔵は、まさに百花咲きにおう春たけなわにふさわしい多彩な酒を造っている。前回書いたように6升の酒を飲んだのであるが、それは純米吟醸と特別純米の無濾過生原酒が主体であったが、使用米がそれぞれ違う。山田錦、雄町、八反錦、五百万石、それに千本錦と多岐にわたる。普通は、特に小さい蔵は山田錦とせいぜい地元の酒米一種類くらいを使用している蔵が多いが、これだけの米を使い、それぞれの味を出しているところが魅力的だ。

 千本錦という米は聞いてはいたが、意識して飲んだことがなく、初めて味わった。広島県が開発した米で、広島県酒造組合の「千本錦のご案内」によれば、父を山田錦、母を「広島県の気候風土に適し、酒米としても評価の高い」“中生新千本”として平成12年に本格生産された酒米ということだ。
 私は、最初に本物の酒に触れたのが広島県であったので(1979年から)、八反、雄町に慣れ親しんできた。広島の水は軟水で、八反や雄町を軟水で醸す柔らかく米の味のする酒が好きであった。千本錦は父を山田錦とするが「広島県の気候風土に適し」というように、八反などに近いと思った。
 「而今」の蔵も水は軟水であるので、広島系の雄町、八反錦や千本錦を使ったのだろう。赤目温泉の「隠れ湯 対泉閣」の、山菜なども豊富な多彩な料理にそれぞれがマッチして美味しかった。

 ところで、10人で6升飲んだ背景には、若干の裏話がある。われらツアーのリーダーであるF社のN社長は、前述する赤目温泉対泉閣での宴会用の酒の手当てを、而今の大西専務に依頼した。それを受けて大西専務から、「承知した。量は一人あたり4合ぐらいででいいか」という返事がきたが、それに対してN社長の答がすごい。
 「馬鹿野郎、4合なんかで足りるか! 俺たちをなんと思っている!」
というものであった。大西専務とN社長は何十年の知己である。それにしても、その言い草はあんまりではないか、・・・というのが同行9名の心情であった。ところが結果は、見事にN社長の言うとおりで、翌朝、空いた一升瓶の列を前に改めてN社長の慧眼に対し、頭を下げたのであった。

 それにしても、少々やりすぎではなかったか?
 翌朝の散歩で、赤目四十八瀧の冷気に触れながら、反省だけはしたのであるが・・・。
                             

  「而今」を造る木屋正酒造



24節気の酒――春分

2009-03-23 20:32:24 | 

 320日は24節気の春分、冬至から起算すると一年の4分の1が過ぎたことになる。夏至(一番日が長い日)までのちょうど中間で、つまり昼と夜の長さがほぼ同じ日である。春を分ける、まさに春たけなわの時節を迎えたわけだ。
 それに応えてか、翌21日は東京でも桜の開花を迎えたようだ。温暖化にともなう異常気象の影響か、中旬に迎えた博多と宮崎の開花は観測史上最も早く、開花予想が間に合わないくらいと言うことだから、もはや季節のけじめもなくなったというべきか・・・。

 私はこの日、三重県名張市の「而今」という酒を造る木屋正酒造の蔵に居た。二泊三日で計画した「愛知三重酒蔵ツアー」(「而今」、「瀧自慢」、「奥(尊皇)」、「醸し人九平次」の四つの蔵めぐり)の最初の蔵として、純米酒普及推進委員会の5人の委員と、利き酒師としてならす5人の女性を加えた総勢10名でお邪魔した。
 名張市商店街の一角に位置する木屋正酒造は小じんまりした仕舞屋(しもたや)風の佇まい、石高も230石の小蔵であるが、今や知る人ぞ知る人気蔵。2005年の秋に純米酒フェスティバルに出店したときの記録では「石高130石」となっていたが、瞬く間に二倍近くまで増えた。そのときの“銘柄冊子”を見ると、「而今」のペ-ジに「うまさ抜群」とメモってあるので、出展50蔵の中でも印象に残っていたのだ。1818年創業というから文政年間の蔵である。

 座敷に通されると、床の間に而今という見事な掛け軸が掛かっている。大徳寺の管主による揮毫と聞いたが、「いざやこれから!」という気風に満ちた筆捌きだ。庭に目をやると大きな緋鯉の泳ぐ池に石の橋が架かっており、その橋の袂に石柱が建っている。字が刻まれているので読むと「下戸は渡るべからず」とある。蔵元の大西唯克氏(専務兼杜氏)に「首藤さんは渡る資格がありますよ」とおだてられてホッとしたのであるが。

 実はその夜、この専務兼杜氏の若き(30代半ば?)蔵元が、わずか二人の蔵人と3人で、すべて手作りで醸し上げる「而今」を、心行くまで飲んだ。近くの赤目温泉の宴会場に持ち込まれたのは、山田錦、八反錦、千本錦などで造られた純米吟醸を中心とした6本の一升瓶。これを10人で飲んだのだから一人56合の酒量となるが、そのいきさつは、酒の説明も含めて次回に譲る。
 ただ、豊かに米の味を引き出した香味は、“春分――春たけなわの酒”というにふさわしく、心底から満足したことだけは記しておく。
                         

 

 


うたごえ酒場ツアー・・・「どん底」、「ともしび」、「家路」

2009-03-19 20:58:46 | 

 昨夜、新宿にある三つのうたごえ酒場のハシゴをやった。午後6時に「どん底」、7時半に「ともしび」、9時に「家路」、10時半ごろ再び「どん底」を訪ね、帰りは上高井戸まで車で帰ったが酔っ払ってよく覚えていない。
 なぜそのようなことをやったかというと・・・
 実は次男が目白大学地域社会学部に在籍しており「都市形成論」なるものを学んでいるので、新宿の戦後史を語る一端として連れて行ったというわけ。次男は6月で42歳になろうとしているが、2年前に一念発起して大学に入った(詳細は07.3.25付ブログ「40歳の大学生」ご参照)。今年で無事教養部を終えて来月より念願の地域社会学――都市形成論を学ぶというので、ご褒美の意味と、わが青春の一端を語り継いでおこうと思ったことによる。なんと言ってもうたごえ運動は、戦後民主主義と文化運動を語る上で欠かせず、わが青春の一部であったと言っても過言でないから。

 「どん底」の開店が1951(昭和26)年、当時の写真を見るとまさに“掘っ立て小屋”である。焼け野が原の中でわれら若者の心に歌の灯をともしてくれたのである。灯といえばそのものずばり歌声喫茶「灯」が誕生したのが1954(昭和29)年、コマ劇場裏から亀戸店、吉祥寺店、新宿区役所通店などを経て、現在の「新宿ともしび」(靖国通り)に引き継がれている。そして「家路」(要通り)は、新宿ともしびで永年活躍された橋本夫妻が歌声酒場として30年前に開いた店だ。「どん底」と背中合わせの場所にあり、まさに歌声運動発祥の地というにふさわしい。
 「どん底」59年、「ともしび」56年、「家路」30年・・・、戦後文化史の一部を担いつづけてきたと言えよう。私が昨夜持参した歌集「どん底」と「ともしび」2冊は、1970年前後のもので、酒と醤油などのシミ跡でぼろぼろだが、今の店員たちに懐かしがられた。特に「どん底」では、今は月に2回しかうたごえをやっておらず、歌集も置いてなかった。ただし、『どん底50年の歩み』なる分厚い冊子があり、それは50年の間に「どん底」を訪ねた錚々たる人たちの文集であり早速一冊買い求めて息子に贈った。そこに出てくる人たちは、三島由紀夫をはじめ黒柳徹子、越地吹雪、青島幸男、尾藤イサオなど、そのような連中の「どん底感」を読むだけでも値打ちがある。わずか1000円は安いものだと思った。

 まあそのような次第で、とにかく疲れた。明日からは二泊三日で「愛知酒蔵ツアー」だ。自重して臨もう。


「浦城の歴史を伝える会」の人々

2009-03-17 21:09:30 | 

 八郎潟町に「浦城の歴史を伝える会」というNPO法人がある。地元の歴史を発掘する活動を、地道にかつ強力に進めている。

 浦城は三浦氏の居城。三浦氏は11世紀後半、相模の国三浦郡三浦郷に発祥、源頼朝の挙兵から、北条、上杉、武田、などとかかわりを持ちながら、永禄10(1567)年秋田実季の幕下として浦城に入る。
 その浦城は、八郎潟町の背後を囲う森山から、八郎湖を望む高岳山になだらかに連なる鞍部に築城されていた。しかし三浦氏滅亡の後、朽ち果ててその痕跡を見ることも出来なかった。
 近時、その後を追い、古文書などをたどりながらかつての城(屋敷跡?)を復元させようと追及しているのが、「浦城の歴史を伝える会」の面々である。
 そして、これまでは杉の原始林に等しかった山に道を切り開き、階段をつけ、鐘を運び上げて鐘突き堂を再現し、標高240mの本丸跡に立派な御影石の碑を建てた。加えて途中の眺望のよい場所に八郎潟町から遠く八郎湖、男鹿の山々を望む展望台も作ったのである。
 並大抵の苦労ではなかったと思われる。それら全ては会員たちによる無償の奉仕によるものであった。私が知るその面々には、歴史に詳しい元公民館長や歯科医師、また一級建築士から石材屋、大工、左官仕事の出来る人たちもいると聞くので、このようなことが出来たのであろう。その極めつけは「浦城」という銘柄の酒まで造ったことだ。会員の一人である酒販店主のコンセプトにより、五城目町の福禄寿酒造が丹精込めて醸しあげた純米吟醸で、豊かな米の味を引き出した素晴らしい酒だ。

 今回わたしは、初めて城跡まで登った。そして道すがら頭を去来したものは、それらの人たちが黙々と働いた姿であった。「あの人がこの鐘を担ぎ上げたのか・・・、あの人がこの櫓を組み、あの人たちが杉を切り倒し道をつけて行ったのであろう・・・」、ということであった。
 先人たちの歩いた跡が、こうしてまた明らかにされていくのであろう。
                         


久しぶりの秋田――旧交を温める

2009-03-16 22:07:49 | 

 久しぶり(一年近いか?)に秋田八郎潟を訪ねた。厳しい経済情勢の中で、関係会社といろいろ話し合う必要が生じ会議を持った。それを終えて、折角の訪問ゆえ八郎潟の各方面の方々と接した。
 異業種交流会の人々、「こめたび」に関わる連中、「浦城を守る会」など地元の文化を守り育てる方々、はては秋田の酒を育てる農業者、酒蔵の蔵元たち・・・。
 ほんの二泊三日で数十人の人たちと交わりを持った。大変にうれしいことだと思った。このような人々との関係の中で、私自身も私が関わる会社も存続しているのだとつくずく思った。

 書きたいことは山ほどあり、次々と書いていくが、最初にひとつだけ書いておく。
 実は、事情があって「秋田歳時記」なるものを書いているが、過去10年毎月一回は訪ねていた秋田の印象でそれなりに書けると思っていたが、現実に書くとなるとさっぱり書けないということだ。
 「四月」は山菜をテーマに書いた。もちろん山菜は4月から6月にかけて採れる。しかしその最初の印象を強調するため、雪解けとともに接する「ふきのとう」から書いた。自分が好きであることもあり、「先ずふきのとう」としたのであるが、この二日間で話した地元の人々から出た言葉は、「・・・悪いがふきのとうは、秋田の人はあまり好まない」ということであった。それにしては「バッケ(ふきのとうのこと)」や「バッキャ味噌(ふきのとう味噌)」を随分食わされたが・・・、という思いがあるが。
 では、春一番の山菜は何か?、と問えばそれは「シノハ」だという。雪が解けて小川に流れ落ちるその野辺に、最初に顔を出すのはシノハとふきのとう。秋田の人が先ず採るのはシノハだという。
 そのシノハ(別名ギシギシ)の酢味噌和えを食べさせてもらった。
 なるほど・・・、ふきのとうの苦さや灰汁の強さは無く、まさに雪解け水が小川の清流に注ぐようなさわやかな味があった。

 何事もその地に行かなければその地のことは分からないのだ。
                         


自動健康回復装置としての定期的体調不良

2009-03-13 18:23:08 | 時局雑感

 3月9日から3日間、強烈な下痢を伴う体調不良に襲われた。4日目の昨日ようやく回復に向かい、今日はほぼ健康状態に服した。最初の2日は飲まず食わずで専ら排泄に勤め、3日目は素うどん、湯豆腐、飯少々という具合で、とにかく「食べないこと」で復元した。
 実はこのような体調不良に、3、4年に一度襲われている。最初は風邪だな、と思うのだがそれほど熱が出るわけではなく、そのうち強烈な下痢が続く。さては食あたりか、と食べたものを思い出すが、一緒に食べた連中にその症状が無いので、自分だけの現象だと分かる。過去いずれも同じような症状で、「食わず飲まずでひたすら排泄」して、排泄が終わった時点から回復に向かう。
 もちろんその間、一滴の酒も飲まない。さすがに飲む気が起こらない。毎晩のみ続け食べ続けてたまった不純物を、「入り口をふさいで全て出す」ということが、半ば強制的の行われる。そしてその間、ひたすら眠った。

 これはどうも「神の思し召し(おぼしめし)」ではないかと思っている。完全な破壊の前に洗浄しなおす「自動健康回復装置」ではないかと思っている。
 今日は義姉の三回忌にちなんでワイフの兄弟家族が揃って昼食会を催し、5日ぶりに酒を飲んだ。生ビール中ジョッキと中華料理にあわせ紹興酒一合程度を飲んだが、料理ともども美味しかった。健康はほぼ元に戻ったと思っている。
 明日からは秋田出張で、日程の中には[秋田30蔵新酒利き酒」という
酒の会がある。また20日からは「愛知酒蔵ツアー」と称し四つの酒蔵を回る。その他いくつか酒の会がある。神はそのような日程に先んじて健康回復装置をセットしてくれたに違いない。

 いや待てよ・・・? 神は、もういいかげんにせよ、ときつく叱っているのかもしれない。再度の怒りに触れては大変だ。自重して臨もう。
                        


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