旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

エール(ビール)とは何か

2007-11-28 17:30:21 | 

 

 そもそもビールとは麦芽を煮沸した麦汁(モルト)にホップを加え、酵母の力で発酵させたものだ。ところが、酵母の種類によって上面発酵ビールと下面発酵ビールに大別される。下面発酵ビールの典型がラガービールで、発酵後下面に沈殿した酵母菌など老廃物を取り除き、更に殺菌処理などをして長期保存や輸送に耐えるようにしたもの。しかもこの酵母は10度以下の低温で発酵するため冷却処理が可能で、冷たくのど越しで飲むビールに向く。
 
上面発酵ビールの典型がイギリスのエールやベルギービールなどで、中でもエールは、発酵後上面に浮く酵母菌などをそのまま生かし、二次発酵をさせながら「生きたまま飲もう」というもの。この酵母菌は高温(20度から24度)で発酵し、その温(ぬる)いまま飲むので、イギリスのビールは温いといわれる。
 
つまり典型的なエールとは、日本酒でいうならば、濾過も火入れもしない「純米無濾過生原酒」のようなものと言えよう。
 
ただ、このような典型的なエールは樽でパブに持ち込まれても発酵を続けているので、それを管理するセラーマンを必要とするし、またおいしく飲めるのは一週間以内というからきわめて扱いにくい代物だ。従ってだんだん姿を消し、ラガーと同じように濾過、熱処理して保存や輸送に耐えるものに変わっていっているという。
 
もちろんそれだけに、頑固なイギリス人の中にはこの典型的なエールを守ろうと、CAMRACampaign for Real Ale)という組織が作られて運動が展開されているという。(白井哲也『パブは愉しい』62頁)
 
日本でも無濾過生原酒の人気が出てきたように、「リアル・エールに幸あれ!」と祈るや切である。残念なことは、私はこの典型的なエールを十分確かめて飲んでいない。しかしイギリスで飲んだビールはいずれも個性的な味があった。ドイツはラガー大国であるが、これもそれぞれに個性的な味があった。日本のビールで味を感じたことはあまりない。それは一部のビールを除き、麦芽とホップ以外に米やとうもろこしやスターチ(芋のでんぷん)などが混ぜられ無個性のビールになっているからであろう。
 
ドイツビールは「ビール純粋令」により麦芽とホップのみという原料規制が守られていること、イギリスエールは上面発酵法などにより素材を生かす手法が生きていること、などによるのであろう。

 それにしてもいつの日にかイギリスの田舎を回り、リアル・エールを飲む「パブのはしご」をやりたいものだ。
                           


イギリスのパブの役割

2007-11-24 19:02:51 | 

 

 イギリスのパブが単なる飲み屋でないことはいろいろと聞いていた。しかし、とは言え結局はビール(もっと言えばエール)を飲みに行く居酒屋という性格が一番強いと思ってきた。
 しかし今回の旅にあたっていろんな本を読めば読むほど、パブというのはその生成の歴史からして単なる飲み屋ではない、ということがわかってきた。特に、最近かなり変遷を遂げた「都会のパブ」はさておき、本来の姿をとどめる「田舎のパブ」は、単なる飲み屋ではなく、地域住民と深く結びついた「生活の場」なのだ。
 だから昨日書いたように、宿屋であり雑貨屋であり公民館(正にパブリックハウス!)であり郵便局から公衆便所の役割まで担っているのであろう。その歴史を昨日紹介した白井哲也著『パブは愉しいは』は次のように書いている。
 「英国では、11世紀頃から旅人の宿屋『イン』、食事の場『タヴァン』、エールを飲ませる『エールハウス』なるものが、それぞれ別々の形で、時には融合しながら発展した。18世紀には公民館(パブリックハウス)として、結婚式などの集まりはもちろん、闘鶏、観劇といったイベントに使われたり、政治活動の拠点となった。」(同書10頁)
 従ってまた、次のようにも書いている。
 「・・・住民にとっても、地域にとっても、パブは今でも生命線だ。英国では、三人に二人が習慣的にパブに行き、三人に一人が少なくとも週に一度は行く。・・・」(同書11頁)

 こうなってくると、パブというのはイギリス人の生活の場そのものだ。日本の居酒屋も、情報の場であり、人とのつながりの場ではあるが、イギリスのパブとは本質的に違うような気がする。どうも一見の旅行者が冷やかし半分に入るところではないような気がしてきた。もちろん、最近の都会のパブはファミレスタイプや女性向タイプなど、かなり様々な形態があるようだし、典型的な田舎のパブでも、いったん受け入れられると親戚付き合い以上の付き合いをしてくれるようであるが・・・。

 日本の居酒屋と,何がどこで異なってきたのか・・・?
 実に奥深いエールの味ともども、不思議な魅力でわたしをひきつける世界である。
                      


パブへの想い

2007-11-23 12:01:21 | 

 

 イギリスに行くについて、もっとも期待したことはパブを訪ねまわることであった。少なくとも、典型的な田舎のパブと都会のパブを見極めたいと思ったことだ。そのために、と言うことではなかったが、三日しかない日程の真ん中をコッツウォルズに充てたのであった。もちろんそこには、先述したように(16日付「ガーデニング猫ちゃん」)ワイフの「猫への想い」が重なっていたので、私だけの都合だけではなかったのであるが。
 ところが、これまた先述したように、広大なコッツウォルズをさまよう中で時間をなくし、お目当ての「田舎のパブ」に立ち寄ることも出来なかったのだ。加えてロンドン市内では、ついにパブ(都会のパブ?)でランチをとる余裕もなかったのである。
 もちろん、オックスフォードでは素敵なパブでエールを飲み夕食を楽しんだし、ホテルに隣接する「ビクトリア王朝風パブ」ではゆっくり飲みながら日本へ向けたブログを書いたりしたので、決して不満だけが充満しているわけではない。
 ただ「思いは半ば・・・」の感が残ってるだけ。

 しかし考えてみれば、わずか二泊三日のロンドン行で「イギリスのパブ」を把握しようなんてことはどだい無理な注文だ。イギリスのパブの歴史、その果たした役割なんていうものは、何年もそこに住み着いて接しなければわかるはずはあるまい。
 白井哲也氏の『パブは愉しい』(千早書房)という本を読むと、氏はイギリスのパブについてこう書いている
 「日本で言えば、居酒屋とファミリーレストランとコンビニエンスストアと郵便局と雑貨屋と市民会館とライブハウスとクラブ、そして公衆便所が束になってかからないと、その懐の深さには対抗できない。」(同書3頁)

 オイ オイ・・・、冗談じゃないよ。それだけそろえば日常生活の場すべてではないか。パブという一軒の建物の中にそれだけのものが備わっているとすれば、日本からひょこひょこ出向いた人間に、パブの真実なんてわかるはずないじゃないか。
 事実白井氏は、三年間のロンドン生活を経た後日本に帰り、その後何年もかけてイングランド、アイルランドのパブを廻り尽してこの本を書いている。私はうっかりコッツウォルズでパブに立ち寄らなくてよかったと思っている。1~2時間立ち寄って判ったような気になることほど恐ろしいことはない。

 それにしても『パブは愉しい』という本は愉しい。ここは一番、少し勉強を深めてみよう。                                                                       


マルクスは遠くなりにけり

2007-11-21 16:29:23 | 

 

  今度のヨーロッパ旅行の中で、「マルクスの足跡を追う」というテーマをひそかに掲げていたことは既に書いた(916日付「手作りの旅(4)」ご参照)。そしてそのようなテーマは「既に時代に合わないテーマかも?」とも書いた。
 
そのとおり時代に合わなかったのか、このテーマは一つとして実現しなかった。
 
そもそもこのテーマを掲げたのは、今回の旅の根拠地フランクフルトから、マルクスの生地トリアーが比較的近いこと、それと次の訪問地がロンドンで、ロンドンこそマルクスが30数年を費やして『資本論』を書き上げた地であったからだ。トリアーの生家跡には『資本論』の初版本が保存されており、ロンドンの大英博物館図書室にはマルクスが30年間通い詰めた「席の跡」が残り、またソーホーの住家跡は「クォ・ヴァディス」というパブになっていると聞く。これをグルリと一回りしようと思ったわけだ。
 
ところが出発の6日前、913日付毎日新聞のコラムが、「大英博物館図書室では中国が兵馬俑展を展開、マルクスの席は覆い隠された…」と報じた。いやな予感がしたのであるが、いくら兵馬俑が並んでいても「席の痕跡」ぐらいは見ることができるだろうと思い、疲れを押して大英博物館を訪ねた。
 
ところがやはり、「兵馬俑展のために一切見ることはできない」と言う。私は、前述のコラムの記事を思い浮かべながら地団太を踏んだ。そのコラムにはこう書かれていた。
 
「…“中華帝国”の偉業をほうふつとさせる展示によって、マルクスが研究にいそしんだ場所は覆い隠されてしまうことになった。何かしら象徴的な出来事のような気がする。共産主義の権威よりも漢民族と国家の威厳。そんなふうに中国指導層の深層心理の中で優先順位が大きく回転し始めている。……」

 私はせめての思いを翌日のパブ「クォ・ヴァディス」にかけたが、これまた時間がなくなって行けなかった。そしてついに、中途半端に残されたトリアー訪問も、ライン下りやハイデルベルクなどを効率的に回ることを優先して取りやめることになった。トリアーはモーゼルワインの産地であるので、それだけでも行きたかったのであるが。
 
すべては、大英博物館図書室の兵馬俑に始まった。そこでマルクスの席に触れておれば、私は無理をしても後の二ヶ所を訪問していたであろう。
 
それにしても、マルクスは遠くなりにけり、という感を否めない。
                            


ウォータールー・ブリッジにただよう哀愁

2007-11-19 17:04:14 | 

 

 広大なコッツウォルズで迷ったり渋滞と混雑のロンドン市内で時間を取られたりしながらも、私は、ここぞというところでは友人に無理を言って車を降りて、しばし感慨にふけったりしたのであった。
 
ウォータールー駅とそこからテームズ川を渡るウォータールー・ブリッジもそのひとつ。そこが映画“哀愁”の舞台であったからだ。わが青春を彩ったこの映画は、私の最も好きな映画のひとつである。

 第一次大戦下のロンドン。空爆にさらされるウォータールー・ブリッジで、バレリーナのマイラ(ヴィヴィアン・リー)と青年将校ロイ(ロバート・テイラー)が運命的に出会う。その日のうちに結婚を約束するほど激しい恋に落ちる二人を、大戦は無残に引き裂く…。「必ず帰ってきて結婚する」ことを約して戦地に赴いたロイを、マイラはひたすら待ち続けるが、彼女が手にしたものはロイの死亡通知。(実は誤報であったのだが)
 
生活苦に流されついに娼婦に身を落とし、ウォータールー駅で帰還する兵士たちに、妖艶な瞳を流しながら客を引くマイラの前に、改札口をくぐってロイが現れる…。ロイを見つけたマイラの驚き、艶かしい娼婦の瞳から驚きの瞳を経て、最初に会ったときのような清純な瞳に変わっていくヴィヴィアン・リーの名演を私は忘れない。
 
しかしその美しさこそ、その後の悲劇を予知させるものであったのだ。
 
二人の愛に変わりはなく、むしろいっそう激しく燃えるのであるが、将校という高い身分と娼婦の世界に身をゆだねた者の心の処置は、どうすることもできなかったのである。
 
マービン・ルロイ監督は、古今の美男美女を使って甘いメロドラマを作ったが、その底辺で戦争の悲惨さをイヤというほど見せつけたのである。

 映画哀愁の舞台はウォータールー・ブリッジがすべてと言っていい。1940年作のこの映画に出てくる橋は、がっしりした石橋で、古い街灯がともる中をゆっくりと馬車が通る風景はなんとも古典的で、今度の旅で渡った広々とした近代的な橋はかなり雰囲気を異にするが、テームズ川の流れは昔と変わることはないのであろうし、なによりもこの橋は、戦争で引き裂かれたマイラとロイの“哀しい愁い”を今もつなげる架け橋に違いない。
 
ちなみにこの映画の原題は「Waterloo Bridge」である。

 ロンドンに行って、もっと見るべきところは多いはずなのに、このような感慨に時をゆだねるなんて私も変わっているのかもしれないが、まあ、これもまた旅である。
                            


楽しかったミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」

2007-11-17 12:55:31 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 ロンドンでは何としてもミュージカルを見よう、と決めていた。かつてニューヨークに行くたびにブロードウェイで観たように。
 
事前調査でわかったことだが、ニューヨークに負けないくらいたくさんの劇場があり、新旧ミュージカルが公演されており、どれにするかかなり迷った。結局は、何度も映画で観た単純明快に楽しい「サウンド・オブ・ミュージック」とした。旅の疲れを癒しながら楽しむためには、知り抜いたストーリーで美しい音楽を聞くのが一番、と思ったのだ。
 
そしてその狙いはピッタシであった。

 大英博物館からタクシーを拾いオックスフォードサーカスの劇場“ロンドンパラディウム”に向かう。私が運転手に「オックスフォードサーカス・・・ロンドンパラジューム」と行き先を告げると、その運転手は私の目を正面から見つめ「・・・ロンドンパラディウムか?」と、私の発音の拙さを訂正するかのように確かめてきた。その発音は、私には「パラダイウム」と言う風に聞こえた。
 
これには参った。これこそ“キングスイングリッシュ”か・・・、などと思いながら「そうだ。ミュージカル サウンドオブミュージック・・・」と告げると、彼はにっこり笑って「乗れ」と顎をしゃくった。しかも、聞いたことのある曲(ハリー・ヴェラフォンテ?)の口笛を吹きながら運転してくれた。
 
のっけから大英帝国の威厳を市井の運転手に示され、いささか緊張して劇場に着いたが、この地域(オックスフォードサーカス)は日本で言えば新宿、池袋、渋谷の感じで、若者を中心にごった返していた。入りたくなるパブらしき店がたくさんあり、親しみやすさにあふれていた。
 
そして、この劇場の雰囲気、満員の観客も全く下町の雰囲気であった。アリアが一曲終わるごとにヤンヤの喝采と歓声、口笛まで出てくる。本当にミュージカルを楽しんでいるロンドンっ子の姿がそこにあった。
 
隣席の初老のおばさんも、大声を出して笑いながら楽しんでいたが、何度も私たちに「貴方たちもエンジョイしているか?」と聞いてきた。私はその度に「ファンタスティック!」とか「ザ グレイト!」とか連発しながら観たのであった。
 
ミュージカル自体も、この雰囲気に実によく合った小気味良いテンポの演出であった。日中の疲れで眠くなるのではないかなど心配していたが、それどころかむしろ疲れが吹っ飛ぶような楽しいミュージカルであった。
                                 


訪問客を案内するガーデニング猫ちゃん

2007-11-16 17:02:18 | 

 

 イギリスの二日目は、郊外に出かけ田園風景を満喫しようというもの。選んだ先は「コッツウォルズ」で、更にしぼり「ウィンザー城」・・・「ボートン・オン・ザ・ウォーター」・・・「ミル・ディーン・ガーデン」・・・そしてその夜はオックスフォードに泊まろうというコース。
 ところがこれでも時間が足りず、どこも中途半端に終わった、という印象が強い。「イギリス未充足感」の一因でもあったのだ。

 そもそもコッツウォルズというのは、とてつもない広大な地域だ。ロンドン西方に広がるこの台地は「総面積は2038平方キロメートル。東京都とほぼ同じ広さで、そのなかにおよそ100の村や町が点在している」(小野マリ著『英国コッツウォルズ』12頁)と言うのだ。
 ウィンザー城は遠望するだけで通過、迷いながらもようやくたどり着いたボートン・オン・ザ・ウォーターでは、それまでの好天がくずれかなり強い雨となった。私は「これまで天気に恵まれたが、水郷は雨の方が似合ってるかもね」など軽口をたたいていたのであるが、神に聞こえたのか本当の雨になり、名所と聞く「音も無く流れる小川に架かる古い石橋」で一、二枚の写真を撮っただけで車に逃げ込み、計画のひとつ「田舎のパブでの『パブ・ランチ』」の余裕も無くミル・ディーン・ガーデンに向かった。
 しかし、一番ゆっくりしたこのガーデンで,英国ガーデニングの極地に触れるとともに、《お目当ての猫ちゃん》の案内を受けたのは幸せであった。

 実はこの旅の計画中、某民放の「ポチタマ」なる番組で、このガーデンの猫が訪問客を美しい庭に案内する光景が放映された。それを見た猫好きのワイフは、何としてもこのガーデンを訪ねたいと、主のミセス・ウェンディー・デァさんにメールし、「どうぞいらっしゃい」という快い返事を頂いていたのだ。
 残念ながらウェンディー・デァさんは外出中で会えなかったが、二匹の猫とたっぷりふれあい、そのうちの一匹が庭を先立ち、美しいガーデンのかなりの距離を案内してくれた。それは私たちの先を歩きながら、庭の中の小道を先導する「心(?)のこもった案内」であった。
 この猫とのふれあいは、ワイフにとっては「最も充足したイギリス」の一つであったのかもしれない。
                     

  


ロンドンの印象

2007-11-15 15:22:32 | 

 

 ロンドンについては計画未消化に終わり未充足感が残ったと書いた。ついでにロンドンについての大雑把な印象を書き加えておく。

 車で駆け回っただけのロンドンの町は、いたずらに混雑しているという印象を受けた。案内してくれた友人も勝手が分からないらしく、「一方交通ばかりでやりにくいなあ」としきりにぼやいていたが、どこに行っても渋滞と遠回り、という感じであった。
 リヨンやフランクフルトの町は、歩きが主体であったからか実に落ち着きを感じた。しかしこれが「世界の大都市ロンドンの活気」というものかもしれないので、どちらがいい、なんていう水準の話ではないのかもしれない。そういえばロンドンの雰囲気はニューヨークのそれと等しいのであろう。まず「美しい」という感じが先行したリヨンや、大都市ながらも「落ち着き」を感じたフランクフルトとは異なったものがあった。
 ニューヨークと同じ、といえばテロとの関係でも共通するのではないか? 最近ニューヨークに行っていないので分からないが、ロンドンの街中にはいかにもテロリストが住み着きそうな雰囲気があった。
 第一、ミュンヘン空港からロンドンに向かう英国機の、搭乗検査から違っていた。私は国内でも、また今度の旅の他の飛行機への乗り込みの際も同じ服装であったが、検査に引っかかり、椅子に座らされて足の先から靴のそこまで検査された。
 「ああ・・・、かなりテロに怯えているな」と思った。

 ヨーロッパの街に行くと「石の文化」をまず感じるが、ロンドンの町はそれに加えて、道がそれほど広くなく曲がりくねっていることも混雑な印象を受けたのかもしれない。反面この雰囲気は、そこに長く住み着いているロンドンっ子には、たまらなく魅力のあるものかもしれない。私たちが浅草などの雑然とした下町に、むしろ心の安らぎを覚えるように。
 そして、ちょっと郊外に出ると雰囲気はまったく違う。アウトバーンは広く、それにつながる丘陵地は美しく、その中の町々には「テロのにおい」などまったくない。
 そのどちらも「イギリス」に相違なく、すべて一局面で判断してはならないのであろう。
                            


消化不良であったロンドン

2007-11-13 23:45:05 | 

 

 923日(日)夜、オクトーバーフェストで湧き立つミュンヘンを発ってロンドンに直行。ヒースロー空港にはトランジットで何度か降り立ったが、ロンドンの街に足を踏み入れるのは初めてだ。期待を込めて乗り込んだのであるが・・・。
 
しかし初めてのイギリスは、今度のヨーロッパ旅行の中では一番“計画未消化”に終わり、充足感に乏しい旅となった。もちろんそれは、イギリスが悪いのではなく、原因の大半はこちら側にあったのだが。

 その一は、ロンドン市内観光。
 
ワイフと二人で大いに楽しむつもりであったのだが、二人ともかなり疲れていて目的の半分も消化しなかった。「バッキンガム宮殿」の内部と衛兵交代を見た後、「ウェストミンスター寺院」と「ビッグベン」まで歩くと早くも疲れて、勝手のわかる三越にでも行って休む(昼食)か…となり、そのあとも「トラファルガー広場」「コベントガーデン」などを見て、「大英博物館」に行く予定を、中抜きで直接「博物館」に行くことになった。
 
ところがそこのお目当て「マルクスが30年間通い続けた図書室」は、中国の兵馬俑展で見学不能…、「チクショー、中国メ…」などとあたり散らし、博物館はすっかり休憩の場所(アフターヌーン・ティ)となった。もっとも私は、ふらふらと「古代ギリシャ、ローマ室」を歩き、かねて調べてみたいと思っていた「シンポジウムの語源」の原文に触れたり、一昨年シチリアに行ったときに見た「セジェスタの神殿」の古い写真を発見したりして、大英博物館の資料力に感心したりしたが。
 
ついでに言えば、ロンドン最終日に見残した「ビューポイント」をまわる予定であったが、これまた道に迷ったりして時間が無くなり、車で回っただけでほとんど「ロンドンを見た」気はしなかった。つまりロンドンは、もう一度訪ねて、そのときは観光バスでゆっくり回ることにしようと思う。
 
もう一つは、期待したコッツウォルズの雰囲気を十分に味わえなかったことだ。これは私の期待が大きすぎたことにもよるが、予期しなかった雨にあったことと、十分な時間がとれなくて、私が最も期待していた「田舎のパブ」で昼食をとる余裕が無かったことだ。これもまた次回を期待するしかあるまい(生きていればの話だが)。
 
もちろん、イギリスの旅が不満だけであったわけではない。行って見なければわからない楽しい体験を沢山したが、それらは次回に。
                            


幻と消えた「五能線の旅」

2007-11-11 11:43:56 | 

 

 仕事で秋田に関係するようになって、東北--特に北東北をかなり旅した。その中で、どうしても訪ねたい二つのコースが残っている。一つは東の海岸線「三陸の旅」で、もう一つは西の海岸線「五能線の旅」である。
 その一つ五能線の旅を、今回ようやく実現することができた!、かに見えた。しかしそれは、列車に乗り込む直前にキャンセルすることになり、夢は無残に消えた。

 今回の秋田出張は、9日(金)に会議、11日(日)に町の行事に終日参加、という日程で、10日(土)が完全に空いた。しかもその日、同行者はそれぞれ別の予定が入っていたため、私一人が空いたのだ。私はこの絶好の機会を捉えて、かねてから暖め、狙っていた五能線の旅を実現することにした。
 事前調査により、列車のどちら側が海岸線の席かなど調べ上げ、どこで降りて何をして、帰りの五能線にいつ乗り込むかなど、綿密な計画をたてて予約した。(同線は全席指定席)
 その計画は……、8時52分八郎潟駅で下り五能線に乗り込み、海岸線を満喫して五所川原まで往き、そこで降りて津軽鉄道で金木に行って、太宰治記念館「斜陽館」をゆっくり楽しみ、15時11分の上り五能線に乗り込み18時33分八郎潟に帰り着く…、途中、十二湖駅あたりで日本海に沈む夕日を眺めることになっていた。
 ところが、金曜日の会議が予定通り終わらず、翌土曜日の午前中にずれ込むことになった。私は予定外のずれ込み会議を無視しようかとかなり悩んだのであるが、考えてみれば、今回の出張はその会議の重要性によるものであっただけに無視しえず、ついにその朝8時30分、乗車予定の22分前に五能線切符をキャンセルしたのであった。

 それにしても惜しいことをした(付け加えておくが、昨夜から雨になったが私の乗車予定時間のその地は晴れていた)。私は読みたい本を3冊ばかり持ち込み、列車の窓側で秋田、青森の酒などをちびちびやりながら、日本海をゆっくり楽しむつもりでいた。五能線についての資料もそれなりにそろえておいた。たとえばWikipediaによれば・・・、
 ・五能線は、1908年開業した秋田側の「能代(現在の東能代)~能代町(現在の能代)間」と、1918年の青森側の陸奥鉄道「川部~五所川原間」の開業に始まり、やがてこれがつながった1936年に全通した
 ・従って、五能線は「東能代~川部」間を言う。(私はてっきり「能代~五所川原」間と単純に思い込んでいた)
 ・営業キロ数は147.2km、全線単線(複線区間も電化区間もなし)
などなど、となっている。楽しいのは、眺めの良い箇所は列車のスピードを落としてゆっくり走るというのだ!

 これらの資料も、とりあえず不発に終わったようなものだが、まあしかし生きていれば必ず乗る機会もあるだろう。もしかして、神は「お前ももう少し生かしてあげよう」と計らってくれたのかもしれない。
                            


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