旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

生物多様性会議とは何か?

2010-10-30 17:43:25 | 時局雑感

 

 名古屋で何か難しい会議が行なわれているなあ、とは思っていたが、名古屋議定書なるものが採択されて読んでみると、改めて難しいものだと思った。
 それにしても、75年も生きてきたがあまり考えもしなかった問題だ。動物などの絶滅品種に直面して、その保存に努力する姿は、個別にはいろいろと考えたことがあるが、総合的に、本質的に考えたことはなかったと言っていい。世の中は知らないことばかりだと思った。

 多様性とは、それぞれが他をもって替え難き存在で、従ってその一つを失っても生態系に問題を生じるような性格のものであろう。とすれば生物の多様性維持は、まさに地球的課題といわねばなるまい。
 人類は、動物や植物も含めて、欲しいものを手当たり次第に食べたり使用したりしてきたのだ。そしてある時気が付いてみるとその対象が絶滅に瀕していたり、自然環境が取り返しのつかない状態になっていたりしている。地球温暖化問題もその一つであった。
 あわてて世界中が集まって議論するのだが、最早手遅れのものもあり、未だ間に合うものでも各国の利害が一致せず、いらいらしながら議論するが有効な策は出てこない。今回の名古屋議定書と「名古屋ターゲット」なるものがどこまで有効なのか私にはわからない。
 「2020年までに陸の17%と海の10%を保護区に」と言っても、現在どのくらいのが保護区になっているのか、それを17と10%にしてどんな効果が出てくるのか、今まで考えたこともなかったのでさっぱりわからない。
 地球温暖化対策でも、成果が上がっているのかどうかもわからず、とにかく毎年天候不順がひどくなっている実感だけが残る日々だ。私はもちろん何も分からないのであるが、これらに寄与するために、私みたいな無知なものを含めて、日々どんな意識で生きていけばいいのか? 無知、無感覚がわれながら恐ろしくなった。

 ただ、地球温暖化対策が「京都議定書」としてまとめられ、生物保護問題が名古屋議定書として採択され、いずれも日本が主導的なな役割を果たしたことはうれしく思う。それにしても、その議定書を生かすために日々なにを心がけていけばいいのだろうか?


寒くなったら南の国? … 急浮上してきた沖縄行

2010-10-28 20:23:07 | 

 

 猛暑に悩まされた今夏から急転回して、季節はずれの寒さが襲ってきた。今日の東京は最高気温が10度に届かなかったようで、12月下旬から1月の寒さとのこと。気持ちのいい秋の気候を満喫しようと思っていたら、一挙に冬になってしまった。神はどこまでいたずらをしようとしているのだろうか?

 「寒い、さむい」と言っているところに、南の国に行く話しが持ち上がってきた。わが社の社員に、沖縄出身の奥様を持ち、つい一年前まで沖縄に住んでいたS君がいる。11月下旬に奥様の里帰りをするので一緒に沖縄見物でもしないか、というお誘いだ。
 S君の義父、つまり奥様のお父さんは、私と同年輩(終戦の時9歳というから、10歳であった私と同年か一つ下であろう)らしく、S君によれば「話が合いそうだし是非とも紹介したい」ということもあるらしい。
 私としても、あの沖縄戦を9歳のお父さんがどう感じていたのか、それから60数年を経て、現今の普天間問題などをどう考えておられるのか、などお聞きしたいことが山ほどある。私たちには到底理解できない苦しい思いがあるのではないか、戦後の半世紀はその思いをどう処理していく年月であったのか? などと思う。
 もちろんそのような難しいことばかりでなく、沖縄の楽しい話も沢山お伺いしたいのだが。

 沖縄は、2001年に一度行っただけである。前の会社の社員旅行であったので、いわゆる表面的な名所旧跡を回っただけである。今度は、まさに「土地の人」の案内で沖縄を回りたい。沖縄の人しか行かないようなところにいってみたい。沖縄の人ばかりの居酒屋で泡盛を飲みたい。「ゴーヤチャンプル」よりもっと美味しい酒のつまみがあるのではないか?
 話が出ただけで、もう行ったような気分でいろいろと想像をめぐらす。これが旅の楽しいところだ。行くとなれば11月25日出発とのことであるので、既に一ヶ月ない。今日中に日程調整をして結論を出そう。

 それにしても、寒くなったら南の国の話を持ってきてくれるなど、神はそれほどいたずらをしているわけでもないようだ。


「美しい日本の道500」を完歩した友を祝う

2010-10-26 12:25:34 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 友人T氏が、「美しい日本の歩きたくなる道500選」を完歩した。
 この「500選」は、社団法人「日本ウォーキング協会」が、北海道から沖縄にいたる全国から“美しい道”500を選んだものらしく、それを多くの愛好者が歩き続けているらしい。その道は全国47都道府県に、ほぼ均等に選ばれており、北海道に15、沖縄に11などこれを完歩するにはそれこそ「全国を駆け巡る」必要がある。しかも、その地のウォーキング会が主催するものに参加し、それぞれを「完歩した証明」をもらわなければならない。いつでも行きたいときに歩けばいいというものでもない。

 わが友T氏は、2006年1月16日からこれに挑み、5年近くをかけて去る9月16日、新潟寺泊の「良寛さまと歩くみち」をもって、見事500道を踏破した。

          

 大変な快挙である。平均しても一年に100道、月に8から10の道を歩かなければならない。費用とてバカにならない。東京近郊なら電車代だけで済むが、遠くなるほど料金がかさむ上に宿泊代や食費を必要とする。北海道や九州、沖縄とかとなれば飛行機代が避けられない。氏は、新幹線と宿泊代を避けて夜行バスにするなど、またビジネスホテルを諦めてカプセルホテルにしたことなど、涙ぐましい経験を沢山話してくれた。
 現在正確な決算をやっているようだが、5年間これに費やした費用は約400万円に上るという。1道平均8000円だ。それが贅沢なのか節約の極みなのか…、それを分析してみたいとも言っていた。因みにもっと早くから長年をかけて踏破した人で、総費用2千万円という人もいるそうだ。各地のウォーキング会も整備されておらず、効率的な歩き(当地に行ったら出来るだけ多くの道を回る)が出来なかったことによるのだろう。
 こうなってくると、「ウォーキング」というのも高価な趣味である。私は年1回の海外旅行をやってきたが、5年間5回の費用は、T氏が費やした400万円の半額に満たない。もっとも、5回と500道では数に於いて比較にならないが。

 氏も節約ばかりしていたわけではないらしい。五島列島の道を歩き終えて長崎に向かう船の中で良質の焼酎を買い込み、歩き終えた安堵感もあってその四号瓶を船の中で飲み干したらしい。さすがに酩酊し、前後不覚になってようやく宿にたどり着いたという。「船に酔ったのかと思ったら酒に酔っていたらしい」というのも楽しい話だ。
 T 氏の快挙に改めて乾杯! あまり祝っているとこちらが酔いつぶれるが……

                     
                      500道完歩を喜ぶT氏


久しぶりの歌舞伎に、庶民の気風を思う

2010-10-23 15:10:40 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 

 思いがけずもT氏に招待券を頂き、久しぶりに国立劇場の歌舞伎を観た。出し物は真山青果の『天保遊侠録』と『将軍江戸を去る』の二本立て。長い台詞の続く濃密な真山劇を、吉右衛門、染五郎、歌昇などが重厚に演じた。

 

 『天保遊侠録』は、勝海舟の父小吉の物語。放蕩者の小吉は自由気ままな生活を送るが、“鳶が鷹を産んだような”出来のいい息子麟太郎だけは、なんとか出世させたいと願う。そのためには、本当は気が進まないが膝を屈して上役たちを接待し、息子を売り込もうとする。しかし料理をなじられ、立ち居振る舞いをとがめられるうちに堪忍袋の緒が切れて、「もうたくさんだ」と接待を打ち切る。そこで小吉役の吉右衛門が大見得を切る啖呵が

 「…石高の違いなんてえものは、役人どもが帳簿に書き記したものに過ぎねえ。一皮剥きゃあ、上も下も人間の値打ちに違(ちげ)えはねえや~…」

と言うもので、これを聞いて観客席はヤンヤの喝采、「播磨屋!」(中村吉右衛門の屋号)の掛け声が館内に轟き渡る。

 庶民はこうして胸のつかえを下ろすのである。特に格差社会の問題は、新たな貧困問題を抱えた現在社会に通じるものがあったであろう。

 

 『将軍江戸を去る』は、第2幕の、山岡鉄太郎(染五郎)の将軍徳川慶喜(吉右衛門)に対する諫言の場と、それを経た慶喜の「江戸を去る千住大橋の場」が山場であるが、それはさておき、第一幕の、西郷吉之助(中村歌昇)が勝海舟(中村歌六)との対談で江戸上総攻めを中止する思いに至る場面も見応えが合った。

 そこにいたる心情を長い台詞で語った歌昇は、最後に「江戸が火の海となれば、罪のない無垢の人々が殺される」戦争の非情さを語り、

 …戦争とは、酷いものであるよの~」

と大見得を切る。

 ここでまた観客席は拍手に包まれ、「播磨屋!」(中村歌昇の屋号)の掛け声が飛び交う。

 

 いつの世も苦しい思いの中に生きる庶民は、その胸のうちを芝居の大役者に語らせ思いを遂げる。歌舞伎が長く庶民の文化として栄えてきたことを改めて思い知った。そして庶民が抱えている問題は、江戸時代も現代も変わらぬことを教えてくれた。

 


むつかしい本物の酒造り … 求められる“感性豊かな挑戦者” 

2010-10-21 10:25:29 | 

 

 今回の純米酒フェスティバルには、「常きげん」のブースに農口尚彦杜氏が立ってくれた。農口さんは、言わずと知れた能登杜氏四天王の一人、現在に生きる“山廃つくり”の第一人者といわれる方だ。
 幸いにして、前夜の「農口さんを囲む懇談会」と当日終了後の打上会で席を共にすることが出来て、含蓄のあるお話を沢山聞くことが出来た。

                   


 ご承知の通り、日本酒のシェアーは下降線をたどり続け、平成20年度(21年3月期)で7.4%まで下がった。戦前は当然のことながら50%を越えていたし、戦後でも昭和30(1955)年で37%、昭和45(1970)年まで30%を保ってきた。その後一挙に日本酒離れが続き、今や5%を割る寸前まで来ている。
 その背景には、食の多様化やグローバル化など様々な要因があったであろうが、最大の原因は「美味しくない日本酒」ということに尽きよう。アル添三増酒というニセモノ酒が、その大半の責めを負うべきであろう。
 ようやくそれらのニセモノ酒を克服しようとしているが時既に遅く、日本酒の信頼を回復するには、今後かなりの時間と質の向上を必要とするだろう。

 私は予てより、「山廃純米酒、特にその燗酒が日本酒の低迷を救うのではないか?」と思ってきたのであるが、その山廃つくりの蔵はなかなか増えてこない。農口杜氏にそのことを聞くと、氏はこの酒造法の難しさをとつとつと語った。

 「日本酒の本当の味は山廃の中にある。この造りが、豊かな米の味を酒に引き出す。」
 「しかし、それだけに山廃は難しくて、何よりも手間がかかる。安易に流れる風潮が、この困難と手間を避けたがる。」
 「ワシは、この造りを残したくて若い者に教えてきた。熱心に学びそれを身につけようと頑張っている者も沢山いる。しかし、全ての人間がその奥義を身につけるかというと、そうは行かない。最後はそれを学ぼうとする者の”感性”だ。」
 「困難をいとわない者、しかも豊かな感性の持ち主が引き継いでくれるのだ。」

 私はこれを聞いて身の引き締まる思いがした。千数百の蔵の中で、生もと、山廃もと造りをやる蔵は一握りに過ぎない。その背景には、それが大変な困難を伴うという恐ろしい現実があるのだ。本物を守り育てることがいかに大変なことか……、それにしても、「農口さん、まだまだ行き続けてください」と叫ばずにはいられなかった。


  大いに語る農口さん
             


酒飲みの品性 … 「純米酒フェスティバル」に因んで

2010-10-19 20:52:18 | 

 

 一昨日17日に、「純米酒フェスティバル」を無事終えた。2000年春にスタートして、春秋と催してきたので、今回で22回を数える。
 ある種の感慨があるが、問題も残し続けている。前回、春のフェスティバルで、泥酔者を10数名出し、そのうち7名が嘔吐するに及んだ。その最悪の事態は、帰りのバスに乗った途端に吐いて、満員の乗客に被害を及ぼした。そのほか、会場のあちこちに被害を撒き散らして、開催会場さんからは「この惨状が続く限り限り催しの継続は不可能」と宣告されている。

 古来、酒飲み…特に悪酔いした酒飲みが嫌われ続けて久しい。気持ちいい酒飲みが愛される例も多いが、ある一線を越えた酒飲みは極端に嫌われ、庶民のルールから除外される。
 純米酒普及推進委員会を立ち上げ、年2回のフェスティバルを開催し続け、毎回1200~1300名(昼と夜2回につき一回で600~700名)の参加を得ているが、この会への参集者の“飲み方”は乱れることなく、水準は高いと思い続けていた。
 ところが前回のこのざまである。嘔吐に及んだ人数は全参加者の1パーセントであるから、それほど目くじらを立てることもないかもしれないが、しかいし…、これは許さるべきことでないだろう。従って今回から、飲酒量を制限する措置を採った。ところがこれは、当然のこととして“通常の飲酒者”の非難を浴びることとなった。
 かなり厳しい非難を受け、主催者としては反省しているが、解決策は難しい。世の常で、「1パーセントの悪のために、99パーセントの人が不憫をこうむる」のである。これを解決することは、人間社会永遠の課題であろう。

 たかが酒飲みの問題と思うなかれ。酒飲みとて“人”であり、しかもも最も“人間”が現れる人であるだけに、品格、品性、「人間の尊厳」が問われるのである。
 因みに「厳重注意下の今回フェスティバル」では、一人の嘔吐者も出なかった。前回とどちらが良かったのか…、それはわからない。何故って、規制なくて乱れることなき品性こそ求められるべきと思うから。 


臼杵の味

2010-10-16 11:30:26 | 

 

 チリ事件が間に入ったが、同窓会で帰郷したふるさと臼杵のことを書き続けていた。最後に「臼杵の味」を書いて締めくくることにする。

   
   臼杵の誇り「三重塔」

 臼杵に帰って必ず口にするもの…、それは海の幸、「河豚(ふぐ)」、「鯵(あじ)」、それに「にいな」という貝である。
 最初の晩、弟夫婦は恒例により「河豚コース」を準備してくれていた。臼杵特有の大きな肝(きも)を、小どんぶりにたっぷり溶かして、それに河豚の白身の刺身を浸して食べる。河豚の白身だけではそれほど美味しいものではない。肝が美味しいのだ。ドロドロにたっぷり溶かした肝に浸して食べるから美味しいのだ。そのあと残った骨付きなどを吸い物にして、やがてそれを雑炊にしてフルコースだ。

    
    右のカボスの上にあるのが「肝(きも)」

 河豚と言っても白身の刺身だけでは美味しくない、と書いたが、刺身だけで美味しいのが鯵だ。釣ったばかりの鯵の刺身は、「これぞ魚だ!」という美味しさに満ちている。カボスの2,3滴も垂らせば、醤油などのの調味料も要らないくらいだ。
 古今、鯛をもって最高の味と言われるが、鯛は淡白過ぎて物足りない。あぶらの乗った鯵の魚臭さがいいのだ。
 今回も、釣りを最大の趣味とするM氏が、釣り上げたばかりの鯵をザルいっぱい持ってきてくれた。M氏はしきりに「ちいさいものしか釣れなくて申し訳ない」と謝っていたが、とんでもない。ぴちぴち跳ねる新鮮な鯵を捌き、弟が「あじ寿司」をにぎってくれたが、これは筆舌に尽くしがたく美味しかった。地元九重高原の新米とシソの葉にはさまれた鯵は、米になじんだ酢と調和して程よく甘く、それこそ何の調味料も要らない新鮮な味であった。

  
  左の食い残しが「あじ寿司」、右が「タイ寿司」

 最終日は、弟夫妻が営むみかん山に登り、そこから臼杵湾を眺め、麓の佐志生というの海岸で「にいな」を採った。岩にへばりつくにいなを拾い、持ち帰るやすぐに湯がいて食べた。これもふるさとの味として欠かせない。

  
    岩にへばりつく「にいな」の群れ        
          


リーダーの資質 … チリ落盤事故ルイス・ウルスアさんに学ぶ

2010-10-15 14:19:19 | 時局雑感

 

 前回のこの記事でチリ落盤事故救出活動に触れたとき、私は未だ8人の救出を知ったばかりであった。しかしその時点のニュースが「救出順序も決められており、32番目は“希望”のお父さん、最後の33番目はリーダーのルイス・ウルスアさん…」と報じたのを見て、この事故の全員救出を確信した。そしてその記事を「リーダーは必ず帰還するだろう。何故ってその前を希望が上っていくのだから」と結んだ。

 それから約12時間後、日本時間の14日午前9時55分、“希望”のお父さんアリエル・ティコナ青年に続いてリーダーが最後に引き上げられた。奇跡の救出劇は、33人全員の救出をもって終わったのである。
 多くの報道が、ルイス・ウルスアというリーダーなしでは、この奇跡が起きたかどうかわからない、と報じている。70日間という異常事態の中で、しかも内17日間は地上との音信不通という想像を絶する過酷な世界で、33人もの人をどのようにまとめていったのだろうか?
 周囲の調査の結果、地下700メートルに閉じ込められている実態を冷静に認識し、そこにある食料の量と、33人という人数と、救出に要する日数などを冷徹に判断して、「48時間ごとに食べる量」や「各人の役割分担」を定め指示していく…、どんな経験と資質を持っていればそのような判断が出来て、また、確信を持って全員を引っ張っていけるのだろうか?
 豊富な食料があり、それを公平に分けよう、ということは少々の指導力で出来るだろう。しかし、「48時間ごとに、スプーン2杯のツナ、ミルク1杯、ビスケット1枚」という量を、「必ず救援が来る」という確信の代償として納得させることは“普通の人間”ではできないのではないか。単に現場監督であったという使命感、任務の全うなどいう生易しいものではないだろう。
 ただ想像を絶するのみである。

 ルイス・ウルスアさんが地上に帰還して、大統領に語った次の言葉を記して、永く記憶にとどめておくことにする。

 「我々は、世界が待ち望んだことを成し遂げた。70日間の闘いは無駄ではなかった。強さと精神の力を失わなかった。家族のために闘い抜きたかった」
                                (14日付毎日新聞夕刊より)


   


人類の快挙 … チリ落盤事故の救出

2010-10-13 10:33:31 | 時局雑感


 

 西暦2010年10月13日午前零時(チリ現地時間)。
 後世の歴史家はこの日をどう書き記すのであろうか? 世に奇跡といわれる事柄は多いが、これほどのことを記憶していない。700メートルの地下に閉じ込められて69日後に救出される・・・、しかも33人という多くが全員元気に救出されるとすれば、世界はこの快挙を喜び合い、自らの到達点に確信を持つべきであろう。

 そもそも、事故発生が8月5日で、その生存が確認されたのが同22日、すでに17日が過ぎていたのである。救援隊がプラスチックの筒を地下700メートルに通し、それが生存者たちに届いたこと自体が私には奇跡に思える。しかもそれに巻きつけた「手紙」が地上に届き生存を確認した…、などと言うことは想像を絶する。
 しかもそれから、生存を助けながら掘削を始めて、50日をかけて救出した……

 私は、今現在(10月13日21時30分)、8人の救出を知ったばかりである。まだこの救出活動は続く。そして必ず全員の救出を遂げるであろう。
 ニュースは、32番目の救出者は事故後に地上で「希望(エスペランサ)」と言う名の赤ちゃんを産んだ女性のご主人で、最後の33人目は、全員を指導してきた鉱山経験30年を越えるリーダーとなることを伝えている。リーダーは、前進する時は先頭に立ち、退却する時は全てを始末して“しんがり”を勤めるのである。
 しかしリーダーは必ず帰還するであろう。だって、その前を「希望」が上り行くのであるから。


ふるさと臼杵の周辺を懐かしむ

2010-10-11 11:01:03 | 

 

 62年前に卒業した「中学同窓会」という昔に立ち返ったついでに、半世紀以上訪ねていない「思い出の地」に赴き、まさに「故(ふる)きを温(たず)ねた」。
 一つは風連鍾乳洞という鍾乳洞で、もう一つは佐伯市(特に城山と武家屋敷、中でも国木田独歩)である。
 何で風連鍾乳洞に行こうと思ったかといえば、先月三陸海岸を旅し、日本三大鍾乳洞の一つといわれた「龍泉洞」に行ったからである。龍泉洞の規模は確かに大きかったが(奥行き1700メートル)、若い頃見た風連鍾乳洞の繊細な魅力を思い出したからである。そしてその通り、鍾乳洞の様ざまな形は、風連鍾乳洞の方がはるかに勝ると思われ、小粒ながらも(奥行き500メートル)、もっと評価していいのではないかと、ふるさとを見直した次第。リーフレットから一言だけ引用しておく
「天井や懸垂するスタラクタイトの表面から側方に向かって結晶が成長した“ヘリクタイト”は鍾乳石の中では最も興味深いタイプと言われるが、当鍾乳洞では最大10メートルくらいのものがあり、日本では最大の大きさである。」

       

 佐伯の町も見直した。昔訪ねた思い出は全く残っていなかったが、城山の風情、そのふもとに連なる武家屋敷の風格ある佇まいは、観光資源としてももっと評価していいのではないか、と思った
 国木田独歩は、明治26年から一年足らずであるが、この地の鶴谷学館で教鞭をとり、城山にのぼり周辺を愛でて、『源をぢ』など佐伯の町を舞台にした作品を残した。そしてこの武家屋敷の一角に下宿し、今その館は「国木田独歩館」として残っている。

 むかし佐伯に行くには列車で一時間はかかっただろう。今は高速で12~13分で行く。もっと臼杵と一体化して観光資源の開発を進めるべきではないか。その間の風連鍾乳洞や弥生町(さかな館など面白い水族館があり、温泉もある)なども含めて。


  
                      城山遊歩道

                    
                             臼杵川河岸の彼岸花


投票ボタン

blogram投票ボタン