旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

年の瀬の諸行事を終わり、新年を待つ

2010-12-31 10:01:26 | 時局雑感

 

 年の瀬というのはいつのことを言うのだろう。なんとなく12月下旬のことと思っている。

 22日冬至。ゆず湯に浸かり「今年も終わろうとしている」ことを実感して、一年を振り返る。
 23日年賀状を発送。従来300近い数を発送してきたが、後期高齢に達したことを機に義理的賀状を省略させていただき、枚数半減を試みた。148枚を投函して所期の目標に収める。
 25日、打ち続いた忘年会(会社、各種OB会、家族など)を打ち上げ、今年も負担をかけ続けた肝臓に感謝する。
 28日会社の仕事納め。ご苦労さんでした。
 29日、恒例の任務であるガラス拭き、カレンダーや室内絵画・写真類の架け替えを終える。このところ寒い日が続いていたが、この日は快晴無風で、ガラス拭きでは汗をかいた。
 30日、各部屋の掃除機かけと、正月飾り・門松の飾りつけ。正月飾りは、「正月事始め」にあたる12月13日から飾ってよいとされ、本来は28日には終わっているものらしい。そんなことを言っても、28日までは仕事をしていてそんな気になれない。しかも29日は「苦立て」と言って避けられてきたようだし(最近は「ふく…福」と読んで縁起がいいとされているらしいが)、30日に飾った。何とか最悪の31日(不吉な「一夜飾り」)は避けることが出来てホッとしている。

 それで今日は何もしない。何もしないで、心豊かに新年を迎えよう。
 みなさん、今年もお世話になりました。いい年をお迎え下さい。
                         tabinoplasma

 

 

 


今年を振り返る(4) … 身の回り

2010-12-30 14:10:38 | 時局雑感

 

 今年は夏に胃の激痛に襲われ、12月に入って右足の麻痺(脱力?)に襲われた。二つとも初めての体験であった。胃は、胃と心臓と腸の三つのレントゲン検査をやったが特に異常なく、その後ガスター剤を飲み続け、今のところ快調である。
 足は、いよいよ脳梗塞か脳血栓かとMRI検査をやったが特に異常がなく、回復してそのまま推移している。しかしこれを機会に、会社勤務を週3日から2日にし、それも10時半出勤にしてもらった。満員電車の通勤が怖いからだ。これは私の身の回りの出来事としては今年最大の変化かもしれない。給料も下げてもらって、少しのんびりしたいと思っている。

 ワイフは古希を迎えたが、二つのコーラスに所属、英会話とヨガの教室に通っているので、まあ、元気なのであろう。本人はしきりに「もの忘れ」を気にしているが、古希ともなれば致し方なく、通常生活に支障がないので、「齢相応」としておいていいのではないか。
 長男に変化はないが、次男は大学4年になり来春は卒業予定。それを見込んでか6月に突然結婚した。40歳で大学に入り44歳で学生結婚というのは、我々の時代にはあまりなかった。これも今年の椿事に上げておいていいのであろう。
 娘は6月にミャゴラトーリ第3回オペラコンサートをやり、11月には年初から取り組んだ「吉祥寺フィル15周年行事」のオペレッタ“こうもり”を演じた。演じたというのは、脚本、演出、ナビゲーターを一括委嘱され、一年がかりで取り組んで何とか成功
的に終えたということだ。吉祥寺フィルの方々にも喜んでいただいたと言うから、まあよかったのだろう。

 こう見ると、私だけが一貫して老衰の道を歩み続けているが、他は何とか上向(ないしは平行)線を辿っているようなので、無難な年であったと言っていいのであろう。
 私としても、かねて気になっていた自宅の外装、屋根の全面補強工事を、築後19年にして断行(工期1ヶ月)、外装もオリーブグリーンに塗り替えて気分を一新した。併せて、夏から既刊『旅のプラズマ』のパートⅡ「世界の酒と食」の纏めに入り、12月23日をもって書き上げた。A4版用紙125枚、単行本250頁に相当する量で、それなりのエネルギーを要した。
 老衰じじいには違いないが、やるべきことはやってきたのだ。
 とにかくこれで今年も終わる。

 


今年を振り返る(3) ・・・ 酒

2010-12-29 15:02:32 | 

 

 前回書いたように今年は旅の年であったので、ブログのテーマも圧倒的に旅が多かった。カテゴリー別の投稿数では、過去3年、旅と酒が競り合っていたが、現時点の累積投稿数で「旅245」、「酒189」と旅が56凌駕している。昨年のトルコから今年の国内旅行にかけて、旅の記事が先行しているようだ。
 しかし私の旅には必ず酒が絡まっている。旅のカテゴリーの中で酒についても多く触れている。旅の記事を書きながら、カテゴリーを酒にしようか旅にしようか迷うことが多い。

 今年を振り返って印象的なことは、本州の北端大間から沖縄まで旅したが、先々の宿泊宿や食事どころの全てに、純米酒がおいてあったことだ(除く沖縄)。しかもメニューには銘柄や蔵の名前、蔵の所在県名などが記されていた。
 これは大変な変化である。ちょっと前までは、一般料飲店やホテルなどでは日本酒のことを「お酒」と表示していた。今や銘柄はもちろん、種別(吟醸酒とか純米酒など)を書くのが当たり前になりつつある。
 これは、客が中身を吟味して銘柄を指定して注文するようになったこと、それに対応すべくホテルや料飲店も銘柄や種別を示しながら売り込もうとしていることを示している。私たち(純米酒普及推進委員会など)が、予てから主張してきたことが日の目を見ようとしてきたのだ。全国に1300の蔵があり、1万銘柄は造られているだろうと思われる日本酒を、十把ひとからげに「お酒」はないだろうと言い続けてきたことが実現に向かっているのだ。
 ただ、燗酒については依然として「お燗」とか「おかん」とかなっており、中身が何か記載がない。店のお姐さんやウェイターなどに聞いても、「ちょっとお待ち下さい」とか言って奥に調べに行く始末だ。これは一体どうしてだろう? お燗酒は別物で、何か安い酒でもいいということになっているのだろうか? 聞きただしてみると殆ど中身は大手の普通酒が多い。
 燗酒の銘柄指定には未だ日時を要しそうだ。日本酒革命も大変だ。
 ただ、殻を破って急激に変化していく予感はする。新しい年に期待する。

 その他、今年も純米酒フェスティバル3回(東京2回、大阪1回)を無事に終え、3月には山形への酒蔵めぐり(十四代、出羽桜、東光)もやった。
 前述の変化もあり、酒についても決して不足のない年であった。


今年を振り返る(2) … 旅

2010-12-28 13:05:30 | 

 

 今年は国内旅行の年であった。だからこのブログのテーマも断然「旅」が多かった。しかも予てより行きたいと思っていたところに行ったので、旅に関しては充足感のある年となった。

3月に熊野古道を歩いた。いつか行きたいと思いながら、もう行くことはないのではないかと思っていたところ、幸運にも義兄に誘われた。三日間で快晴から豪雨まで経験するという、熊野ならではの体験であった。

4月には母の法事で臼杵に帰ったついでに、久しぶりに杵築・日出を訪ねた。お目当ては日出の「城下カレー」で、久しぶりに食べた。数十年ぶりで、昔食べたものに比べると大変立派な「カレーのフルコース」で、ワイフともども満足した。

7月は、待望の「下北・津軽・東北の旅」に出かけた。中尊寺に始まり下北半島・津軽半島を経て五能線までの欲張りコースで、文字通りバスの旅であった。まあ、本州の最北端を究めて、これも予ての思いを果たした旅であった。

9月も東北を旅した。何度も計画して行けなかった三陸海岸縦断の旅だ。新幹線で八戸に降り立ち、一路三陸海岸を下って松島まで、たっぷりと美しい太平洋海岸を味わった。7月の東北ともども「大人の休日倶楽部」のツアーであったが、往復新幹線がグリーン車というのも良かった。

最後は11月の沖縄だ。先日まで紀行文を書き続けたとおり、盛りだくさんで充実した旅であった。単なる観光にとどまらず、基地問題をはじめとした日本の安全保障について考えさせられる旅であった。

結果として、北海道には行かなかったが本州の最北端からど真ん中の熊野、それに九州から沖縄まで日本を縦断したことになる。意識してそのような計画を組んだわけではないが、終わってみれば「図らずも…」という結果となった。


恒例の「高田エージ・首藤潤 クリスマスコンサート」

2010-12-25 13:23:32 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 年末恒例の息子(今年から夫婦で出演)のクリスマスコンサートに今年も出かけた。今年は、銀行時代の先輩K氏と職場の仲間が3名来てくれた。とは言え、K氏は80歳、職場の仲間のうち2人は50歳以上、われわれ夫婦は70歳以上と、若者中心のコンサートには異色の一団が会場の一角を占めることになった。それぞれ結構楽しんではいたが。
 異色といえば、プレゼントコーナーで出演者4人のプレゼントのくじ引きがあったが、そのうち三つをわれら6人のうちの3人が引き当てた。異常な高確率だが、年寄りを労わってくれたのか、イエスキリストも粋な振る舞いをするものだと思った。

     

 うれしい報告は、高田エージさんに今年6月赤ちゃんが生まれたということだ。名前は英太朗、いかにも明るいエージさんらしい命名だ。
 エージさんはその報告の後、「子どもが生まれたら聞かせてあげようと思っていた歌を歌います、と断って「そのままでいいよ」を歌った。「永遠だったらいいなあ」と共に高田エージの代表作だと思う。
 実は、エージさんが結婚の報告をしたのは、2年前のこのコンサートであった。16年付き合ってきた人と結婚したと聞いた私は、このブログに次のように書いた。(08.12.27付)
 「・・・おそらくエージさんは16年付き合ったその女性を『そのままでいいよ そのままのお前が一番いい』と思い、その女性といるのが『永遠だったらいいなあ』と思ったのだろう」

 そして2年後のコンサートで子ども誕生を報告し、その子ども英太朗君に「そのままでいいよ」を歌って聞かせた。奥さんに対して思ったこと(それは私の推測であったが)を、生まれた子どもに思う。私は実に気持ちよくその歌を聞いた。
 歌い終えて「子供のことを思うと、ついニヤけてしまって・・・」と照れるエージさんに、ワイフが「エージパパ、そのままでいいよ」と客席から声をかけた。それを聞いたエージさんは、「ああそうか・・・俺がそのままでいいんだよなあ・・・」とつぶやいた。
 気持ちの良いクリスマスコンサートであった。

                
    


今年を振り返る(1)  ・・・ 世相全般

2010-12-23 15:06:02 | 時局雑感

 

 今年も余すところ10日を切った。この時期になると一年を振り返ることが多くなる。齢をとるごとに一年が短くなり、アッという間に過ぎたので、振り返るのも容易かと思ったら、逆に老人性記憶喪失症であまり思い出せない。色々思い出すのだが、それが今年のことだったか去年のことだったかが定かでないのだ。

 とにかくあまりいい年ではなかったように思う。パッとしない年だった。
 振り返るとやたらと「下」という字が出てくる。国民の期待を背負って登場した民主党内閣の支持率は下落を続け、経済書指標も下降線を辿り、下々の民の生活は底を突いて下が見えない。政治家どもの品格は下落し、天下国家のことより下劣なののしりあいに明け暮れている。民主党のあれほどの敵失にも自民党の支持が上らないのは、所詮、目くそ鼻くそだからだ。
 ドルだけでなく、ユーロもポンドも下落した。2007年ヨーロッパ三国(独、仏、英)を回った時は、1ユーロ160~170円、1ポンド250円近くであったが、ユーロは110円台、ポンドは130円台に下がった。あの旅行が恨めしく思えてくる。

 「下」でたった一つ輝きを与えてくれたのは、チリ落盤事故で地下700メートルから全員が生還したことだ。この地下は全世界の人々に光明を与えた。人間も落ちるところまで落ちると叡智を結集してそこから脱出を図るのだ。
 あのリーダーのような人物が日本にも現れてくれないものか。日本の政治家もそろそろ目覚めて、下々の民に光明を与えて地下から救い出して欲しいものだ。


2010年沖縄見聞記⑩ ・・・ さようなら美しき島、さようなら心優しき人々

2010-12-21 09:38:06 | 

 

 まだ書きたいことが山ほどある。食べ物のこと、泡盛のこと、沖縄の経済や人々の暮らしのこと・・・、わずか三泊三日にしてはは内容の濃い旅であったので、心に残るものも多い。
 しかし気が付けば早くも今年は終わろうとしている。旅で学んだことを、新たな年を生きる糧にすることにして、この旅行記にひと先ずけじめをつけよう。
 このような良い旅が出来たのは、友人S夫妻をはじめ、多くの人の暖かい導きを得たからだ。それらの方々に心からお礼を申し上げる。

  さようなら 美しき沖縄
     さようなら 心優しき人々

       
         S夫人のご両親と
  
      琉球ガラス村の方々と   
 
  コップ作りに挑むS夫人・・・いい顔してるなあ                     
   お世話になったS夫妻、)
  
     観光タクシーのY運転手


2010年沖縄見聞記⑨ ・・・ 二つの城址(世界遺産)と残波岬

2010-12-19 12:11:14 | 

 

 嘉手納を後に読谷村に向かい、先ず「座喜味城址」を見る。既に書いたように沖縄では城のことをグスクと呼び、その跡は300を越えるという。そのうちの数箇所の城址といくつかの史跡が一緒になって世界遺産に登録されている。
 それら城址の中には首里城も含まれているが、あのキンキラキンの建物は世界遺産には含まれていないそうだ。あれが復元されたのは最近で、「遺産」などと言うものではない。世界遺産に指定されているのは、首里城の礎の部分、つまり昔の城跡の部分だ。なるほど、言われてみれば納得であるが、聞いて見なければ分からないことばかりだ。
 読谷村の座喜味城址も城壁だけが残っている。15世紀の中ごろ、築城家として名高い護佐丸(ごさまる)という武将の築城。特にそれぞれの郭に残されたアーチ門は素晴らしく、門の表と裏にはめられたクサビ石など、精巧な技術の後が残されている。

  
           

 最後に訪ねた中城城址(なかぐすくしろあと)も護佐丸の築城らしく、布積み(豆腐積み)やあいかた積み(亀甲乱れ積み)などの城壁が見事であった。中城村の広大な丘陵地にあり、沖縄本島の二番目にくびれた場所でもあるので、石垣に立つと西に東シナ海、東に太平洋を望む雄大な城跡。日本100名城の一つでもあるという。

  
              

 二つの城址を回る間に、当初は予定に入ってなかった残波岬と泡盛「残波」の蔵を回った。何故そのようなことになったかと言うと、Y運転手が毎晩飲んでいる酒が残波という泡盛だと聞いたからだ。その蔵はどこかと聞くと「この読谷村だ」という。是非とも見学したいと申し出て案内してもらったのだ。残念ながら日曜日で蔵は休日、立派な構えの本社と工場の写真だけを撮り、折角ここまで来たのだから「残波岬」をひと目でも…と言うことになったのだ。
 運転手さんを駐車場に待たせて、私は、東シナ海に突き出る岬の突端に立つ灯台に登った。老体の足を励ましながら螺旋階段を登りつめ、美しい沖縄の海を見納めた。
 イヤー、満足、満足・・・・・・。

        


久しぶりに広島牡蠣の美味しさを堪能!

2010-12-17 10:37:04 | 時局雑感

 

 呉の親戚から沢山の牡蠣(かき)が送られてきた。いわゆる旬の広島牡蠣だ。
 大きな“殻つき”と”剥き身の牡蠣”が大量に入っている。早速、殻つき牡蠣を焼き、ナイフでこじ開けると汁があふれ出る。海水で十分に塩味が着いているが、醤油を2~3滴、かぼすを大量に絞りかけ、口に含むと美味しい! 思わず唸った。
 同時に剥き身の一部をカキフライにしたがこれがまた美味しい! 最近浜松町に移って、昼飯などでカキフライをとることがあるが美味しいと思ったことがない。浜松町には魚類を期待していたがあまり美味しいとは思わない。恐らく美味しい店を未だ探し当てていないのであろうが、鮮魚類がいまひとつだ。呉から直送された牡蠣と比べては、浜松町に申し訳ないのであろうが。
 殻つきはもちろん、カキフライもひさしぶりに本物を食べたという感がした。続いて昨夜は“カキ鍋”にして、急に冷え込んだ夜に相応しい食べ物であった。

 私は広島に6年住んだ。このシーズンになると毎日のように牡蠣を食べた。当時は慣れっこになっていたのか、当たり前のように食べていたが、こうして比べてみるとやはり「本場」の力を見せ付けられる。牡蠣ってこんなに美味しいものだったのか、と改めて思い知る。もちろん、直送――新鮮、が決めてであろうが。
 ワイフが広島時代を想起して、「親戚や知人が来て“カキ御飯”をつくると、料理が上手ですねえとよく言われた」とつぶやいていたが、たしかにワイフの料理の腕は相当なものであるが、先ずは素材が良かったのであろう。何事も「その地」にはかなわない。


2010年沖縄見聞記⑧ … 普天間と嘉手納基地

2010-12-15 14:24:06 | 

 

 最終日、全国個人タクシー協会沖縄支部の観光タクシーを予約して、「基地・世界遺産城址めぐり」をやった。「5時間1万4千円、普天間、嘉手納基地を回り、合間を縫って世界遺産城址を案内する」というもの。私にとっては実に有益な5時間となった。すでに初老を感じさせる運転手のY氏は、効率的で実に懇切な案内をしてくれた。
 まず「嘉数高地公園」を訪れ普天間基地を見た。この高地は、かつてウィーグスクと呼ばれ石垣をめぐらせていたというが、沖縄戦で破壊され今はその面影もない。反面、機関銃を打つトーチカの跡など激戦のあとがしのばれる。ここは那覇攻防戦最大の激戦地で、米軍は3日で陥落させる予定であったが、十数日戦い続けた場所と言う。それだけ多くの人が死んでいったのであろうと思えば胸が痛む。
 そこから見る普天間基地は、まさに街のまん中をえぐりとって飛行場にしたという感じで、周辺宜野湾市民の日夜の苦しみが目に見える。かつての激戦地の眼下に、未だ市民を苦しめている象徴のような基地があるとは、何とも因縁深いものを感じ、移転解決の道筋さえ見えない現状がもどかしい。

     
                   普天間基地

 問題の嘉手納は、有名な「安保の見える丘」の「道の駅」4階屋上から見た。日曜日であったので、「耳をつんざく轟音と戦闘機の離発着」を目にすることは出来なかったが、4千メートルに及ぶ2本の滑走路と、「あれが極東を制御するといわれる管制塔です」とYさんが指差す塔の聳える基地内を眺めていると、なんだか無力感と恐怖感に襲われた。

      
                       嘉手納管制塔
             

 それに追い討ちをかけられたのは、隣接する「嘉手納弾薬庫」の金網に沿って走りながら語るYさんの解説であった。
 「あの向こうの山全体の地下に弾薬庫があります。どれぐらい広いかわからない。佐藤元総理は核抜き返還と言ったが、核がなかったとは考えられない。この弾薬庫と一体の嘉手納基地を、アメリカが返還することはありえないでしょう。安保廃棄なら別ですが…」
 この言葉は重かった。前夜のM家のお母様の「普天間はまだしも問題は嘉手納です」という言葉と重なったからだ。嘉手納を解決しない限り基地問題は終わらない、としながら、それは途方もない困難を伴っている。ちょっとやそっとの交渉などでは動かない。
 日本とアメリカの在り方、何よりも日本のあり方をどうするかという日本国民の根本問題が問われる。それこそ、軍事力をどうするかという問題を含め、日本国民の並々ならぬ決意を必要とする課題であろう。

  
   遠方の長い丘陵が嘉手納弾薬庫が眠る山

 「基地に対する民意も様々です。基地の地代収入が何千万円にもなる人もいて、その人にとっては基地様さまでしょう。『沖縄は基地で堕落した』といわれてます」
と言うYさんの重い言葉を聞きながら、車は嘉手納をあとに読谷村へ向かった。


投票ボタン

blogram投票ボタン