旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

今年も、あと一ヶ月となった

2008-11-30 18:28:53 | 時局雑感

 

 今年もあと一ヶ月となった。しかし、あと一ヶ月もある、と思えば結構長いともいえる。いずれ、アッという間に過ぎ去るだろうが。
 忘年会的な飲み会が五つばかり入っているし、年賀状を書いたり身の回りの片付けなどをやっていれば、一ヶ月など瞬く間であろう。

 読みたい本も数冊ある。中でも、フィンランドとスウェーデンとオランダの本を三冊買い込んだので、これだけは読んで、既に呼んで勉強になった『なぜデンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか』という長い題目の本と共に、今年の勉強の集大成にしたいと思っている。
 しかし、その中の一冊『貧困にあえぐ国ニッポンと 貧困をなくした国スウェーデン』(これも結構長い題であるが)を読んでいて、次のような文章があり、恥ずかしくなって嫌になった。それは日本の教育の現状に触れた項だが、
 「・・・スウェーデン政府が日本の大学教育を調査したところ、教育内容があまりにも低水準で、参考に出来ないというのが報告書に書かれた結論であった」
と言うもの。
 確かに日本の大学の現状を見ると「教育の参考」にはならないだろう。すべての学生とは言わないが、受験勉強でかたわにされ、肩書きだけを取るためにトコロテン的に卒業していく大学の実情を思うと、今更ながらゾッとする。わざわざ調査に来たスウェーデン政府には悪いことをしたと思っている。

 ここまで読んで恥ずかしくなり、続けるのがイヤになったが、まあ、それにめげず読み続けよう。日本は決して捨てたものじゃなく、日本人としては誇りも持っているつもりだから・・・。
                            


日本酒文化とは何か

2008-11-29 15:57:34 | 

 

 前回日本酒の輸出について書いて、外国ではどのような意識で日本酒が飲まれているのだろうか、などと考えていたところ、今日の毎日新聞に西川恵氏が「アジアのワイン文化」について書いているのが目についた。(六面「西川恵のGLOBALEYE」)
 それによれば、「20余年前のバブル期に日本に根付いたワイン文化は、いま韓国、中国、東南アジア各国に広がりつつある」とし、次のように述べている。

 
「ワイン文化は単にワインを飲むということではない。ワインの受容に伴って生み出される新しいライフスタイルを含めてのことであり、・・・(中略)・・・ゆとり、余暇、仲間との集い、暮らしといったものと密接に絡む。身近な例を引くと、ワインは料理との相性を問い、飲むグラスや場の雰囲気を選び、テーブルセッティングなどまで広く包含する。」

 文化、と呼ぶからには正にご指摘のとおりだろう。単に飲むだけと言うのは文化とは言えまい。しかもそれがレストランとかホテルとかだけの、つまりフランス料理専門店とかイタリア料理屋だけのことなら、その国に食べに行くようなものであろうが、一般の家庭にそのライフスタイルが持ち込まれるとなれば、それは正にワイン文化という文化を受容したことになるのだろう。

 諸外国(特にアメリカ)で日本酒はどのように飲まれているのだろうか? 近時増加している和食屋で専ら飲まれているようだが、それは和食との相性という点からも当然と思うが、一般家庭にはどのような形で日本酒が持ち込まれているのだろうか?
 とてもその国の人々のライフスタイルを変えるところまではいってないだろう。その点、さすが数千年の歴史を持つワインの底力を感じさせられる。

 ところで、日本国内にあっても、日本酒文化とはどのようなライフスタイルを作り出しているのだろうか?
 畳の部屋に座り、懐石料理でも時間を掛けて食べながら、鉄瓶で燗をしたお銚子と猪口でチビチビやっていれば、何となく日本酒文化とも呼びたくなるが、洋風の部屋で洋風の椅子に掛け、洋風っぽい料理をつまみに、電子レンジでチンした湯飲み酒をあおっているようでは、どうも日本文化とは呼びにくい気がする。
 外国でどう飲まれているかを気にするより、本国でどのように文化を築いているかを先ず問わねばなるまい。
 まあ、そう文化、文化と力むこともないかもしれないが・・・。
                            


海外の日本酒ブームについて

2008-11-27 14:53:55 | 

 

 昨夜、岩手の酒蔵「南部美人」の久慈蔵元の、“海外日本酒事情”とも言うべき話を聞いた。この蔵は、日本酒の低迷が続く中で販売量が急速に伸びている蔵の一つで、その一要因を輸出の増加に負っている。すでに30数カ国に輸出しており、その量は同社の販売量の10%に及んでいるという。
 
久慈蔵元は月に何回も世界中を飛び回り、イベントをやり試飲会を重ね、世界各地に日本酒を宣伝している。近時の日本食ブームとあいまって各地に和食の店がふえて、そこで各国の人々が日本酒を飲んでいる姿がたくさん紹介された。久慈氏も、日本酒はかくも好まれている、と胸を張っていた。

 しかし、確かに日本酒の輸出量は伸びており「2007年実績は11千kl(6万石強)に達しているが、これは国内消費量の1.6%に過ぎない」(フルネット社JIZAKE TOPICS 08.11.26発行号)。ダイエット志向から日本食を好む外国人も相当に居るはずだし、この程度の“日本酒好き外国人”は当然いるのではないか。久慈氏などの奮闘により、日本酒の良さがようやく世界にみとめられつつある、その端緒に着いたというべきだろう。
 
日本でも、美味しい和食はそっちのけでフランス料理やイタリア料理を食べながら輸入ワインを専ら飲んでいる日本人がゴマンといる。中華料理を食べるときは詔興酒を飲んでいるし、中には輸入ウィスキーの水割りで寿司を食っている者までいる。ウィスキーの水割りと寿司が合うとはとても思えないが、フランス・イタリア料理にはワインが合い、中華料理に詔興酒が合うのは当然で、これらは至極当たり前のことであろう。

 ただ一つ言えることは、アル添三増酒花やかりし時代では今のような日本酒ブームは起きなかったであろうということだ。地酒ブームを経て、純米酒を中心に日本酒の質が格段に向上したことが大前提となっていると思う。今の純米吟醸酒、特別純米酒などは、外国の白ワインなどに比して決して引けをとらない。酒の面でも、日本は世界の仲間入りを果たしてきたと言えよう。
 
問題は、前掲『JIZAKE TOPICS』も指摘しているように、日本酒の輸出量は1.6%に過ぎず、「99%近くを占める国内消費量は、海外への輸出量の10倍近い数量が毎年減少しているのである」(同3ページ)
 
質を高めてきた純米酒が、そのシェアーを高めてはいるが、絶対量から見れば横ばいに過ぎない。

 わが日本酒は何処(いずこ)へ向かおうとしているのか・・・?
                            


「亀の翁」から「七代目」へ

2008-11-24 14:24:54 | 

 

 新潟の久須美酒造の専務、久須美賢和(よしたか)さんからお酒が届いた。開いてみると賢和さんが手塩に掛けて育て続けている純米吟醸「七代目」が出てきた。添えられた手紙には次のように書かれてある。

「私が若い蔵人達と“野に咲く花のような酒”を目標に努力を重ねております『七代目』が、おかげさまで今年、発売から10年目となりました・・・」

 
ああ、もう10年も経つのか・・・、私の胸をいくつかの感慨が走り抜けた。
 
初めて久須美酒造を訪ねたのは1988年の秋であったので、もう20年も前のことである。当時は、賢和さんのお父さん、現社長の記廸(のりみち)さんが専務で、あの「亀の翁」つくりの先頭に立っていた時期であった。翌1989年から友人英夫妻と取材に入り、1991年秋に共著で『酒は風――「亀の翁」をつくる人びと』を出版した日々を思い出す。

 「亀の翁」が発売されたのが1983年であるので既に25年が経過する。その発売から15年を経て、賢和さんは“自分の酒”を求めて「七代目」を作り始めた。そして早くも10年を経たのだ。
 
私たちが最初に蔵を訪ねた頃、賢和さんは未だ高校生ぐらいではなかったか? それから東京農大醸造科に学び、卒業して蔵に入り、まさに「若い蔵人達と」ともに自分の酒を求め続け、10年前に「七代目」を最初に仕込んだ。その酒に七代目と言う名前をつけたことは、「亀の翁」を世に出した偉大な父(六代目)を超えて自己を確立しようとする姿に見えた。

 そのようなことを思いながら「七代目」を飲んだ。程よい吟醸香につつまれ、柔らかい甘みと酸味が調和して、豊かな米の味を伝えてくれる。10年前の作り始めの頃は、やや味に硬さがあった記憶があるが、10年の蓄積のなせる業か柔らかさが出てきて、「米の酒」の特徴が一段と冴えてきたのではないか・・・。
 
秋上がりした生貯蔵酒の、絶好の味を堪能させていただいた。

 いつの日か、「七代目」が純米大吟醸に挑み、「亀の翁」を超えるときが来るのだろうか。
                            


横浜の三渓園に行ってきました

2008-11-23 15:35:08 | 時局雑感

 

 昨日は、快晴に恵まれた連休のど真ん中であるので、せめて紅葉を眺めることぐらいはやろう、と出かけることにした。
 当初は近場の百草園にしようか、府中あたりどこかいいところがあるかなあ、どうせなら高尾山か・・・、などと思っていたのだが、ふと、一度は行ってみたいと思っていた三渓園を思い出し、横浜まで出かけることになった。

 結論から言うと、「紅葉」という点では全く的外れで、三渓園の“もみじ”は未だ青々として、紅葉の風情は全くなかった。松ノ木を中心とした配置でもあり、木々は緑が多く、紅葉のシーズンなどあるのかと思うくらい緑に覆われていた。そして、それはそれでまた見ごたえはあった。

 この庭は、175,000㎡という広大なもので、生糸の貿易で財を成した原三渓(本名富太郎)が、明治351902)年から約20年をかけて造成したものだと言う。その随所に、各地から移築された歴史的建物が配置され、見るものに飽きることは無い。岐阜の合掌つくりの建物や、鎌倉のお寺の塔頭(たっちゅう)の一つなど、よくもまあ集めたものだと思うほど、建てられている。国や横浜の指定文化財クラスもたくさんある。

 生糸産業に関わったというと、『ああ 野麦峠』をはじめとした女工哀史を想起し、「若い女性の生き血を吸って富を蓄積した結果がこれか」、などと思いたくなるであるが、その富が歴史的価値物の収集、保存に充てられたのかとなると、偉業と言うべきかとも思う。
 倉敷の大原美術館に行ったときもいろいろ思った。まさに女工哀史の現場であるが、大原孫三郎がその富をすべて費消し尽くすことなく、大原美術館としてこれだけの世界的美術品を残したのか、と思うと、それはまた大変な業績だとも思った。
 歴史の評価とは実に難しい、といつも思う。

 夕方には新宿に帰り着き、「今日は1122日・・・、“いい夫婦”の日」を口実に、イタリアンレストランで夫婦仲良く食事をとった。たっぷり量のあるコースで、最初は全部食べきれないと思っていたが、白、赤ワインのデカンタ2杯につられ全部平らげ、仕上げのグラッパ(イタリアの焼酎)でデザートを食べて大満足であった。
                            


銀行入社50周年同期会

2008-11-21 14:17:57 | 時局雑感

 

 昨夜、珍しい同期会に参加してきた。
 私は昭和33(1958)年にM銀行に入社した。2008年の今年は、それからちょうど50年--半世紀が過ぎたことになる。先だって、発起人3名からなる「入社50周年記念同期会」をやろうという案内を受けた。
 「面白い企画を立て
たものだな・・・、ぜひ参加しよう」と思いながらも、生来のだらしなさで返事を出すのが遅れていると、幹事のI君から「お前だけ返事が着いてない。どうするのだ」と言われ、あわてて「参加」の返信ハガキを投じて昨夜を迎えたというわけ。

 幹事の報告によれば、昭和33年の大学卒同期入社は57名、うち6名は退社して残るは51名であったが、残念ながら1名が亡くなり対象者は50名。全員から返事をもらい、ちょうど50パーセントにあたる25名が参加した、ということだ。
 幹事が最も喜んで評価したことは、
 1.(私の最終返答ハガキを含め)全員から返事が来たこと
 2.50%という高率出席率であること
 3.不参加者を含め、この企画を高く評価してくれたこと
と言うものであったが、併せて懇談の中で専ら話し合われたことは、「73歳の同期会で死亡者率2%弱(51人中1名)は、かなり低いのではないか?、ということであった。世間一般では少なくとも数パーセントではないかと思う。
 もう一つ話題になったのは、この同期会が50年目に初めて開かれたということだ。前後の年度の同期会はたびたび開かれていたようで、33年入行者は仲が悪いのではないか、という噂もあったようだが、昨夜の会は実に和やかで「仲の良い会」であった。結論は、「会を開く必要も無いほど我々は仲が良かったのだ」ということになった。

 最終返答者のバツとして発言を求められた私は、返答ハガキの近況欄に書いたとおり、以下の報告をした。
 1.現在もほぼフルタイムで勤めている(弟の会社だが)
 2.ブログを始めて、この2年間ほぼ2日に1回のペースで書
    き続けている
 3.銀行退職後、ほぼ年1回の海外旅行を続けている
 4.年363日、酒を飲み続けている。残る2日は定期健診の
    前日で、医者の指示に従っている 
  (結果、酒の本3冊、旅の本1冊を出版した)
                           


日本人の酒

2008-11-19 18:09:27 | 

 

 年の暮れが近づくと酒を飲む機会が多くなるのは例年のことだ。いろんな飲み屋に行くことになるが、メニューの記載が年々変わってきている事に気づく。
 日本酒については、長年「お酒」という表示で書かれてきたが、このブログでも何回か触れたように、最近は銘柄表示がめっきり多くなった。大変にいいことである。平成19酒造年度(20年6月末)でも、1357の酒造場が清酒を造っているのだから、それを十把一絡げで「お酒」と表示するのはあんまりだ。
 それどころか、最近は銘柄のほかに府県名や酒の種類(吟醸酒、純米酒、本醸造など)も表示する店が多くなり、中身で勝負しようとしているところは大変化であり、日本酒もいよいよ食文化として花咲き始めていることを感じる。
 もう一つ気になるのは、清酒と焼酎の掲載順序が、だいぶ前から逆転したことだ。以前は清酒が先で焼酎は後であったが、焼酎の方が先になり、その上、銘柄の種類も断然焼酎の方が多い。

 日本人は、戦前はもちろん、戦後も昭和20年代までは清酒を一番多く飲んでいたが、30年代初めに清酒はビールに抜かれる。その後ビールはうなぎのぼりに増加していくが、清酒は40年代から減少、衰退の道をたどる。そして平成12年にはついに焼酎にも抜かれ(焼酎75万キロリットル、清酒72万キロリットル)、焼酎は本格焼酎の人気がよく、その後も伸びて百100万キロリットル台に乗ったが、清酒は減り続けて50万キロリットルを割った。
 飲み屋のメニューで焼酎が幅を利かせているのは当然だろう。芋、麦、黒糖、泡盛などの焼酎が多彩な銘柄を競い合っている。それを、オンザロックやお湯割り、水割りなどで飲んでいる。

 そもそも、蒸留酒をお湯や水で割って「食中酒として飲む」国は他に例がないのではないか? 世界に著名な蒸留酒であるウィスキーやブランでーは、一般的には食後酒だ。日本人はウィスキーを水で割って食中に飲んでいるが、どう見ても日本食にはあわないと思うが。
 焼酎はその点、20度や25度と度数の低いものが多く、原料の味や風味が生きた本格焼酎は食中酒たりうるのだろう。
 これも日本人の知恵か・・・。
                           


更け行く秋

2008-11-15 17:40:56 | 

 

  11月も半ばを過ぎた。めっきり寒くなったと思ったら、暦の上では冬のただ中に差しかかっているのだ。
 24節気も、あと残す節気は三つしかない。今月22日の小雪、127日の大雪、それと21日の冬至である。正に冬そのものの節気が続き、年が明ければ小寒、大寒を経て立春に向かう。クリスマスとかお正月とか言っていれば、瞬く間に春を迎えるであろう。

 今年の締めくくりに、リビングルームの模様替えをやった。これまで十数年使ってきた特大の食器棚を処分して、瀟洒(しょうしゃ)で小柄なもの(従来の3分の1)に代え、買い替えを検討しているプラズマテレビなどを考慮して、テレビの位置も変えた。まあ、たいしたこともないが、それなりに気分は変わる。
 私も働き盛り、子供も育ち盛りの時代は人の出入りも激しく、10人を超える客が夜を徹して飲むことなどが多かったが、今や、ほとんど客を呼ぶこともなくなって、大型食器戸棚はその歴史的使命を終えたのだ。それと同時に、その中に入っていた膨大な量の食器を処分した。
 その食器の中には、当然のことながら私の酒器もある。今回の処分で、100個以上のぐい飲みや銚子類を処分した。もちろん、未だ何百という酒器が残っているが・・・。
 一つひとつ手にとって、保存するものと処分するものに振り分ける・・・、値段の多寡や格好の好悪に関係なく、すべての酒器に思い出が宿る。処分する方に振り分けたぐい飲みを、もう一度取り出して唇に当ててみたりしながら、思い切って捨てていく。
 人生は、こうして終わりに近づいていくのか・・・、などと思いながら。

 整理している酒器の中から、懐かしい「お燗器」を見つけ出し、久しぶりにその器を使い燗酒を飲む。窓外に目をやると、小さい庭をおおうはなみずきの紅葉が、今日もきれいでした。
                      

H嬢の退職

2008-11-14 17:37:10 | 

 

 昨夜、本日付でわが社を退職したH譲と、お別れに一杯飲んだ。と言っても、彼女はほとんど酒を飲まないので、専ら私が飲む会であったのだが。
 H嬢は、アルバイト期間を含めわが社に約5年勤めた。映像メディア制作業のわが社にあっては、優れた編集技術を持つ上に、本来「花のある性格」でそれが営業分野でも大いに力を発揮してきた社員であった。それに甘んじて、彼女にだんだんと重要な業務を課していくことになり、彼女はついにその過大な業務に耐え切れず退職していくことになった。
 そのような状態を放置したことを、経営の一角をになう私は恥じて、最後にお詫びを言う気持ちで誘ったのであった。私には終始忸怩たるものがある酒であったが、たった一つ救われたのは、彼女の次の言葉であった。(もちろん私に対するお世辞が多分に含まれているとは思うが)

 「一つの大きな現場を持たされて、営業からメディア編集までやる仕事は辛かったが、本来は部屋にこもり制作、編集だけをやっていたかもしれない私を、人との接触の場、相手と交渉を重ねる営業、企画立案業務の世界に引っ張り出してくれたことは、今考えれば貴重な経験をさせてもらったと思っている。私は、人と接する仕事の中で、自分の新しい面に初めて自信を持った。次の仕事も、その面を生かした仕事を捜そうと思っている。」

 もともと華奢な体つきでありながら、粘り強い根性の持ち主で、彼女は辛い仕事の中で自分を再発見することも怠らなかったのであろう。
 私は、「貴方には花がある。それは貴女に固有の性質だ。技術を高めながらも、その花を生かした世界(たとえば営業など)で活躍することを期待する」と、心からそう思って彼女に告げた。

 彼女は先日、かねて求めていた一眼レフデジカメを購入したそうだ。頑張って65千円を投じてニコンを買ったと言う。それを持って両親と伊香保温泉に出かけ、紅葉のいい写真を撮った、と嬉しそうに語った(写真ご参照)。その笑顔は、彼女の新しい旅立ちを示していた。
 さらに加えて、「私の父も首藤さんのようにお酒が好きで、毎日飲んでいます。会津若松出身なので、そこの『末広』という酒を取り寄せて飲んでいます」という。『末広』は私もよく知った蔵で、今年の5月も蔵を訪ねた。
 「ああ、ここにも故郷に誇りを持って生きている人がいる」と、私は彼女の成長にお父さんの生き様を重ねたのであった。
                            


キング牧師からオバマ大統領へ--「夢」は実現「できる」

2008-11-13 16:52:36 | 政治経済

 

 昨夜(1112日)のNHKテレビ番組「その時歴史が動いた」を見て、改めてマーチン・ル-サ-・キングという人物の偉大さを知った。そして彼の全生涯に、今日のオバマ・・・その大統領選の勝利の背景、原点を見る思いがした。

 キング牧師は、
39年という短い人生を、黒人の公民権獲得のために捧げた。師は、アメリカ独立宣言(白人だけでなく「人の平等」を謳っている)に民主主義の原点を求め、インドの独立を指導したガンジ-(非暴力主義による粘り強い抵抗)に生き方を学び、差別に苦しむ黒人の先頭に立って、人種を超えた「人としての権利」を求めて、誇り高く戦い続ける。決して暴力を使うことなく、道理を尽くして・・・。
 そしてついに黒人の公民権獲得につながった25万人のワシントン集会において、あの有名な演説「私には夢がある・・・」を語りかける。師は、黒人、白人を問わずすべての人種が真に平等な関係の中に生きる「夢」を追い続けた。
 1963年、今から45年前のことである。
 そして今年、アメリカ国民は大きく人種差別を乗り越えて、結集してオバマを大統領に選んだ。オバマは黒人初の大統領として、「黒人も白人もない。民主党も共和党もない。一つのアメリカとしてこの国を変えよう」と呼びかけ、国民は白人も黒人もなく、「そうだ、私たちはできる! Yes, We can! 」と呼応している。
 キング師が生きていたら、どんな思いでこの光景を見ただろうか?
 師の「夢」はまだ多くの壁を残しながらも、アメリカ国民は夢の実現に向かって「私たちはできる」と叫んでいるかに見える。

 キング牧師は、あの「夢」の演説から5年後、白人の凶弾に斃れた。そこに残されたものは、次の言葉であったと昨夜の番組は伝えた。

  われわれは必ず打ち勝つ(We shall overcome
  世に偽りの時代が続くことはないから

  
われわれは必ず打ち勝つ
  私はそれを、心の深いところで信じている。

「心の深いところで・・・」と言う言葉が、私の心に深く響いた。
                                         


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