旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

ノイシュヴァンシュタイン城ーーおとぎの城へのアプローチ

2007-10-30 21:42:08 | 

 

 「世界一美しい城」、「ディズニーランドの城のモデル」、「おとぎの城」……、様々な形容詞が重なるノイシュヴァンシュタイン城は、ミュンヘンの西南、アルプスの麓に位置する町フュッセン郊外の山ふところに、清楚な姿で屹立していた。

 
当初は、この城も旅程に計画されていなかった。しかしオクトーバーフェストでミュンヘンに行くことになり、急遽浮上してきたのであるが、これまた、今考えれば幸運と言わねばなるまい。
 
日本人にとってドイツで一番人気の高いのは「ロマンチック街道」と聞く。そのハイライトがこのノイシュヴァンシュタイン城である。当初計画にこれらが含まれていなかったのは、ロマンチック街道は延べ350キロにわたり40もの城が連なり、その間にヴュルツブルク、ローテンブルク、アウクスブルクなど魅力ある都市が並んでいることから、「街道」を満足するには4~5泊は必要ではないかと思い、日程上無理と判断したのだ。つまり私の関心は拠点とするフランクフルトより西方面に向いていたのであった。
 
ところがミュンヘン2泊3日が入り込んだため、その一日を、この世界に名だたるお城に向けることになった。つまり「ロマンチック街道」の一番美味しいところをつまみ食いしようということになったのだ。結果は、つまみ食い以上の印象を残してくれたが。

 
ミュンヘン中央駅前を始発する「リンダーホーフ城――オーバーアマガウ村――ノイシュヴァンシュタイン城」の日帰りバスツアーは、一点の雲も無い快晴に恵まれて快適であった。私とワイフは、早めにバスに乗り込んだお陰で、二階建てバスの二階最前列の席を占めた。バスは、眼前180度(右窓を加えれば270度か)に広がる広大な台地を突き抜けるアウトバーンを、時速100キロでゆったりと走る。因みに、ヨーロッパのアウトバーンには時速制限が無い。しかしメドとして、一般車130キロ、バス100キロが示されている。バスはそのメドを守っているようで、両側を時速200キロ級の車がぐんぐん追い抜いていく中を、まさにゆったりと走る。アウトバーンもそれに連なる平原も、どこまでも広いことが、一層ゆったりと感じさせるのかもしれない。
 
はるか彼方に雪をいただいた山々(アルプス?)、両側に打ち続く畑には牛馬が草を食み、おとぎの国のような農家が点在していた。
                      


ホフブロイハウス(追記)

2007-10-28 13:29:20 | 

 

 ホフブロイハウスのことを、失礼にも「狂乱のビアホール」などと書いたが、それはホフブロイハウスに責任があるのではなくて、そこに押し寄せる熱狂的な顧客側に原因があるのだ。
 狂乱の一例として入場の混雑ぶりを紹介しておく。
 私たちはショーの始まる7時を見越して20分前に到着した。しかし入場できたのは30~40分経ってからのことだった。到着してみると、黒山のように押し寄せた顧客を、スキンヘッドの、しかもその頭に刺青をした大男が入場を整理している。顧客がそれぞれ指し示す予約表を、その男が分厚い予約控帳と照合する。照合できたものだけを、やっと一人入れるゲートを通して中に入れる。とても並の男では捌ききれないだろう。こうなると刺青のスキンヘッドが威力を見せる。
 ようやく中に入り3階に上がると、その入り口で再び予約控帳との照合チェックを受けた。そこの整理人はスキンヘッドではなかったが、これまた威勢のいいおばちゃんで迫力があった。

 会場に入ると、殺気立った入場の雰囲気とは打って変わって、飲めや唄えの大騒ぎ・・・全員笑顔の底抜けに明るい会場だった。
 オクトーバーフェスト・・・中でもミュンヘン名所、世界のホフブロイハウスの面目躍如たるものがあった。
 因みにお代は、3人の入場料が58.5ユーロ(9500円程度であるから一人3千円強)であった。ただしこの入場料で料理(バイキング形式)は食べ放題であったが飲み物は別料金、注文する毎にキャッシュを渡すと威勢のいいおねえさんやお兄さんがジョッキを抱えてくる。
 ホフブロイ・オリジナルビール(1リットル)は、6.6ユーロ(約1100円)、私はそのほかいろいろ飲んだが、〆て2~3千円の酒代(入場料を含めても5~6千円)は安いものだと思った。
                      
                                  


ホフブロイハウスーー狂乱のビアホール

2007-10-27 18:27:51 | 

 

 ミュンヘンに行くなら、ホフブロイハウスにだけは行きたいと思っていた。オクトーバーフェストの開催に関係なく、このビアホールには何としても行かねばならない、と心に決めていた。
 
これを知った友人は、早速予約を取ろうとしてくれたのであるが、如何せん! オクトーバーフェストの最中とあって超満員、相当に苦労をしていただいたようだが、たまたま3階のショーのある部屋にキャンセルが出て予約できた。幸運を神に感謝するのみ。

 ホフブロイハウスは、1589年、時のバイエルン公ヴィルヘルム五世が、お抱えのビール醸造所として開設したものと聞く。その後、一般市民にも開放され、続いて居酒屋が増築され、現在は世界に名だたるビアホールとして、その名をとどろかせている。
 
われわれは3階のショー(バイエルンの民族ショー)の行われる部屋であったが、これとて数百人は入っていたと思う。谷克二著『ドイツ名景の旅』(河出書房新社)によれば、「大テーブルが並ぶ地下ホールは1000人収容できるし、(中略)・・・350人の客を受け入れる〈トゥリンク・シュトゥーベ〉、180人が入る〈桶屋のホール〉、宴会のホールは400人から1300人までと大小さまざま・・・」(同書p41)とあるので、毎日数千人の客を飲み込んでいるのであろう。
 
3階はショーを見ながらということもあって比較的静かな方と思われたが、それでも、誰彼となく肩を組んで唄い、椅子の上に立ち上がり歓声を上げながら“1リットルジョッキ”を掲げて飲みまくる。何せ“ホフブロイ・オリジナルビール”は1リットルジョッキしかない。私はいろいろ飲みたいので、中ジョッキはないかと聞いたが、1リットルしかないと言う。先ず、飲む単位が違うのである。因みに1リットルと言うのは6合近い量である。

 帰りに1階のホールを覗いたところ、ジョッキの林立と喧騒は、3階の比ではなかった。「飲んで騒ぐ」という一つの目的だけに全員が統一されているかに見えた。
 
そういえば、このホールは「ナチの発祥」に関係がある。19202月、ナチの前身であるドイツ労働者党が旗揚げしたのがこのホールという。ヒットラーはその後も度々ここで演説をしたらしい。
 
まさにそのような雰囲気が充満していた。

                                    


オクトーバーフェストーー世界最大のビール祭り

2007-10-23 20:25:41 | 

 

 初めてドイツを訪ねて、この世界最大のビール祭りに参加できたのは幸運であった。これまで酒にこだわってきた男に、神はプレゼントをくれたのだと思っている。
 
ミュンヘン市のホームページによれば、毎年600万人が参加するこのオクトーバーフェストは「2010年に200周年記念祭が待ち受けている」とあるので、1810年に始まった祭りということになる。さすがにビールの国だ。加えて「会場では毎年500万マース(リットル)のビールが消費され、50万羽以上の鶏が食べ尽くされる」とあるので、そのすさまじい飲みっぷりに驚く。
 
私もその600万人の一人として「オクトーバーフェスト2007」に参加し、かなりの量のビールを飲んだ。鶏はそんなに食った覚えは無いが…。
 
街は観光客と民族衣装を着飾った地元民であふれ、ビヤホールはもちろん、広場や道路にもジョッキをかざし、歌を歌い、歓声を上げてビールを飲み干す人々であふれていた。メイン会場には「14の地元醸造会社のテントが立ち並び」(前出ホームページ)、いずれもぎっしりで、その雰囲気は狂乱と言いたいほどのものであった。
 
テントといっても、その大きさは体育館ぐらいもある大きなもので、いずれも熱気にむせ返っていた。私たちは、友人の努力で、初日の「パレード」と「ホフブロイハウスの“バイエルン民族ショー”」の予約席を手に入れた。特に後者は、まず不可能と思われていたが、ちょうどキャンセルが出て入手できたものだ。ホフブロイハウスは別項で後述するとして、祭り初日のパレードは見ごたえがあった。
 
2時間以上にわたり、60チームのパレードが次々と繰り広げられた。それぞれの村や町や地域を代表するものや、各企業を代表するチームが、衣装を凝らし楽団を先頭にパレードを繰り広げる…、これまた想像をはるかに越える見ごたえのあるパレードであった。特に、大半のチームが何十人もの吹奏楽団を擁していたのを見て、さすがに「音楽の国」だと感心した。

 祭りも、どうせやるならこのくらい底抜けにやらなきゃあ…と思ったが、日本で一番大きい祭りはどこで、何人集まるんだったっけ?
                                        


ミュンヘンーー躍動感あるバイエルン州の州都

2007-10-21 17:26:20 | 

 

 当初まったく行く計画のなかったミュンヘンに、旅行期間が「オクトーバーフェスト(ビール祭り)」の開催期間と重なったことから行くことになった。フランクフルトを基点にする旅であったが、ライン、パリ、ロンドンと専ら西方に目が向いていた私に、
 「滞在中にビール祭りがあるのに、酒仙として行かなくて良いのか?」
という友人のサゼッションがなければ、祭りはもちろん、ミュンヘンというこの素晴らしい街に行く機会を逸していたのだ。今度の私たちの旅を真剣に企画援助してくれた「ドイツの友」の友情に感謝する。

 
ミュンヘンはドイツの最南部バイエルン州の州都である。南にはアルプスをひかえ、オーストリアのザルツブルグには列車で30分の距離と聞く。
 そう。ザルツ(塩)ブルグ(城)が塩に関係あるように、ミュンヘンも塩で栄えた。この南ドイツの塩山で掘り出される塩は、寒い北ヨーロッパの食料保存に欠くことが出来ず、これを北ヨーロッパ各地に送り出す重要な基点となったのがミュンヘンであった。
 1180年、神聖ローマ帝国皇帝よりバイエルン大公に任命されたヴィッテルスバッハ家は、爾来800年、塩の交易を中心に発展するミュンヘンの通行料や税の徴収により栄え、ついにバイエルン王国を打ち立てるまでとなる。
 その衰退が、歴史に名高い「ルートヴィヒ二世」(あのノイシュバンシュタイン城の建設者)と、その従姉妹「エリザベート」(オーストリアのハプスブルク家に嫁いだ皇妃)の悲劇に始まるのであるが、それはさておき、私たちの訪ねたミュンヘンは明るく、燃え上がり、活力に満ちていた。三日間、ドイツでは珍しいと言われる快晴が続いたこと、そして何よりも、到着したのがオクトーバーフェスト開幕の前夜であったことによるのであろうが。(つづく)
                     
 


テロの真の温床はどこか?

2007-10-20 14:45:08 | 政治経済

 

 日本はテロ特措法の処理で揺れているが、問題の根本解決について考えさせられるテレビ番組があった。
 今朝8時からの4チャンネル『ウェーク』・・・、そこに「アフガンを最も知る男」として、中村哲という医師が出演した。私は不覚にもまったく知らなかったのであるが、中村医師は長くアフガニスタンに入り、ハンセン氏病をはじめ困難な医療活動を続け、同時に、「アフガン国民の真の救済は生活そのものを救済すること」だと考え多面的な支援活動を展開しているという。
 特に温暖化の影響から干ばつが激しく、砂漠化により農業が破壊され、生きる場所自体を失いつつある村民を救うために、募金と村民の手仕事によって四年をかけて長大な潅漑水路を築くなど、想像を絶する支援活動を行っている。
 中村氏は、「世界はアフガニスタンの実情を理解してない。テロとの関係でアフガンを見て政治的な係わりをしているが、アフガン国民に一番必要なことは『生きるための支援』を行うことだ」と主張。
 これに対しコメンテーターたちは、「生活支援も必要だが、タリバンというテロの根源を排除しなければ、アフガンの民主化も世界の平和も保てない」と繰り返した。
 中村氏は、大意つぎのように述べて実情を訴えた。

 「タリバンは一般村民で、国を愛する国粋主義者だ。彼ら自体はテロなど行っていない。テロ活動に参加しているのは、むしろアメリカ、ドイツなどヨーロッパで教育を受けた連中だ。
 私たちはアメリカの攻撃を受けたことはあるが(潅漑工事のハッパの爆発音を攻撃と取られてアメリカ空軍の機銃掃射を受けたなど)、タリバンの攻撃を受けたことなど一度も無い。
 テロの根絶としてアフガンを攻撃するのは的外れ・・・、報復によってテロを根絶することは出来ない」

 私はこれを聞いてハッとした。テロの根源はアメリカはじめ先進国にあるのではないか? テロの根絶を掲げたアフガン攻撃やその支援は、大変な的外れではないか?
 その証拠に、9.11以降のテロ報復で、テロは根絶されるどころかむしろ増えている。少なくとも、テレビで見る中村さんとアフガン国民は、テロどころではなく「生きることだけに必死」と見えた。
                     


ゲーテ(4)--”ゲーテワイン”に酔う

2007-10-19 13:18:12 | 

 

 ゲーテの国、しかもその生まれ故郷フランクフルトに行くとあって、旅に先立ち『ファウスト』も読み返した。昔読んだ記憶があるが、読み返してみて以前は第一部しか読んでなかったように思う。そして今回読んで、面白いのは第一部で、第二部(一~五幕)は要らないのではないか、などと思った。ゲーテには申し訳ないが、第二部は面白くなかった。そもそも岩波文庫上下二巻、延べ890ページ(訳註込み)は長い。何とか第一部で纏め得なかったのか、など思うが、詩人にとって結末を得るには、あの長い第二部542ページが必要であったのだろう。何せ60年を要したのであるから…。

 ゲーテに一番お世話になった本は『イタリア紀行』だ。これは、三回のイタリア旅行の度にその行き先都市の部分を読んで、「旅のとり組み方」「物の見方」という点で大変参考になった。現地に行ってゲーテの描写の場所に立つたびに、その鋭い観察眼に頭が下がるばかりであった。
 
その『イタリア紀行』岩波文庫版上巻の口絵写真に、ゲーテが丘陵に横たわっている姿を描いた絵が使われている。ティッシュバイン作の『カンパニアのゲーテ』という絵だ。今回フランクフルトの「シュテーデル美術館」を回っていると、その絵の原画が見つかった。さすが故郷の美術館だけあって、ゲーテについては全て集めてあるのであろう。シュテーデル美術館には、フェルメールの「地理学者」が主目的で行ったのだが、豊富な蒐集品の中には、思わぬ喜びがたくさんあった。

 ところが、ゲーテハウスの出口売店で絵葉書などを物色していると、棚にその絵の顔の部分だけを使用したラベルのワインがある。まさに「ゲーテワイン」だ。8ユーロとあるから、弱い円で換算しても1300円前後…どうせ美味しくないだろうと思ったが、ラベルが欲しくなって買い求め、ドイツの友人と飲んだ。
 これが
なかなか美味しいワインであった。当初は、価格の半分は『カンパニアのゲーテ』を使ったラベル代で、中味は67百円のものだろうなどと思って買ったのであるが、よく見ると、当然ながら地元ワインの「ラインガウRHEINGAU」で、2002年ものリースリングカビネットHALBTROCKENであった。日本で飲むワインよりはるかに美味しく、さすがワインの国だと敬服した。

 最後はお決まりの酒の話になって恐縮だが、これでゲーテはひとまず終わり。
                           


ゲーテ(3)ーー立像やゲーテハウスなど

2007-10-17 21:09:19 | 

 

 ヴェツラーからフランクフルトに帰ると、街の真ん中に「ゲーテ像」が立っていた。また近くの公園に「シラーの像」もあり、二人の交友とともにドイツ文学の層の厚みに圧倒される。
 ゲーテ像のゲーテは威厳に満ちていた。それは『若きウェルテルの悩み』の顔つきではなく『ファウスト』のそれに見えた。
 前回書いたように、ゲーテはヴェツラーにおけるロッテとの悲恋を題材に『ウェルテル』を書くが、その書き方は、構想はかなり練ったようであるが、一気に書き挙げた形跡がある。本人は4週間で書いたと言っている(『詩と真実』)が、それはやや誇張としても、「3ヶ月に満たなかったと言うことは立証されている」とされている。(岩波文庫版訳者解説p201)  
 
それはまた大変な文筆力であるが。

 それに対し『ファウスト』は、20歳のときから構想を練り、24歳で書き始め、完成したのは82歳のときであった。(相良守峯訳岩波文庫版『ファウスト』第一部訳者解説p358) 実に60年に及ぶ力作である。もっと言えば、ゲーテは生涯『ファウスト』を書き続けたと言えるのであろう。
 とても常人のなせるところではない。何がそのしつこさを生んだのであろうか?
 ゲーテ像の立ち姿は、「そのようなことが出来た男だけが醸し出す威厳」に満ちていた。

 ゲーテハウスを訪ねると、ゲーテのあらゆる遺品が5階建ての建物いっぱいに詰まっていた。書斎の壁一面に書棚が架けられ、そこに天井まで並べられた「古ぼけた書物」を見ただけで、その蓄積の膨大さにたじろぐ思いであった。
 3階か、4階だったと思うが、案内役のおじさんが巨大な腹を突き出しているので、その腹を指差しながら、「beer or baby? (その中身はビールか? それとも赤ん坊か?」とからかってみた。彼は高笑いをして、あたかも「この中には、ゲーテの偉業が蓄積されているのだ」と言わんばかりに巨腹をゆすった。
 
ゲーテは今に生きている・・・・・・

                     
        


ゲーテ(2)--『若きウェルテルの悩み』を思う

2007-10-15 20:45:30 | 

 

 この名著を多くの人が読んでいることと思う。今回の旅行に先立って読み返してみて、昔読んだときと違って、もっともっとその深奥に触れた思いがした。ヴェツラーを訪ねた機会に、ゲーテがロッテに会って一目ぼれするシーンだけ引用しておく。(竹山道雄訳岩波文庫版より)

 ウェルテルは裁判官仲間の舞踏会に参加するため、たまたま馬車の途中でロッテを乗せていくことになったのであるが、ロッテ屋敷の窓越しに、弟妹にパンを配るロッテの姿を見た瞬間、
 「…今までに見たことのないほどうっとりする光景…」(同書p28
を感じ、馬車の中でロッテと言葉を交わすうちに、すっかり心を奪われ次のように言っている。
 
「話を続けながら、あの黒い瞳に私はどんなに見とれていたことだろう! いきいきとした唇、あざやかな若々しい頬が、どれほど私を魂のそこまで惹きつけたことだろう! ふかい意味のあるこの人の話にすっかり飲みこまれて、その語る言葉をさえいくたびとなく聞かないでしまった! (中略) 私はまるで夢を見ている人のようだった。あたり黄昏(たそが)るる世界の中でまるで現心(うつつごころ)はなかったので、燭火かがやく上の広間からこちらに響いてきた音楽も、ほとんど聞こえないほどだった。」(同書p31
 
そして次のように締めくくっている。
 
「…このときから、日も月も星も依然としてその運行をつづけながら、私にとっては昼もなく夜もなくなり、全世界は身のまわりから姿を没した。」 (同書p38

 よくもまあ抜けぬけと書くものだと思う。われわれ凡人がこのような表現を使ったら(もちろん書く力などないが)、「背筋が寒くなる…」と疎んじられることだろうが、文豪ゲーテが偉大な構想のもとに書けば光り輝き、不朽の古典として永遠に尊ばれるのである。それにしても大した筆力である。
 
このようなことを思いながら、美しいヴェツラーの街を歩いた。
                            


ゲーテ(1)ーーゆかりの地ヴェツラーを訪ねる

2007-10-14 18:53:03 | 

 

 9月20日のブログに書いたように、今度のヨーロッパの旅はゲーテに始まった。
 フランクフルトに着いた翌朝、まず50キロ北に位置する「恋人ロッテの住む町」ヴェツラーを訪ね、フランクフルトに帰って、その足でゲーテハウスを訪ねた。町の中心レーマー広場を見るより前に・・・。

 ゲーテはフランクフルトに生まれ育ったが、23歳となった1772年、父の希望でヴェツラーの裁判所で裁判事務の見習いをすることになった。そしてそこでシャルロッテ・ブフ(愛称ロッテ)に出会い、一目で恋に落ちる。19歳のロッテは既に婚約者のいる身で、その結末は当然悲劇に終わるが、反面、それが世界的ベストセラー『若きウェルテルの悩み』を生み出したのである。
 ゲーテはヴェツラーという町をあまり好きではなかったらしい。というよりロッテの美しさに全てを奪われ、街の美しさは殆ど目に入らなかったのかもしれない。
 しかし、この街は美しかった。
 ラーン川に架かる古い石の橋、旧市街の石畳の道と木組みの家並み、大聖堂とドーム広場のたたずまい・・・、何か中世がそのまま残っているような感じであった。
 大聖堂から少し坂を上ったところに、かつてのロッテの住処が「ロッテハウス」として残されている。見学者も少なく、それほどきれいに整理されているわけでもなかったが、岩波文庫の『若きウェルテルの悩み』の解説の中に出てくる「ロッテと弟妹たちの挿絵」やロッテやゲーテの「影絵」の原画などが並んでおり、『ウェルテル』を偲ぶには十分なものがあった。

 私は幸か不幸かシャルロッテ・ブフのような女性に出会うこともなかったので、この街の景観とロッテハウスを心置きなく楽しんだ。しかし若きゲーテは、ロッテの魅力をいやというほど描写しつくしている。(続きは次回)
                     

                  


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